陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

声に出して読むということ その1.

2005-02-11 18:21:48 | 

まずはささやかな記憶から。

小さい頃、寝る前に母が本を読んでくれた。その習慣は、かなり大きくなるまで続き、絵本が『ドリトル先生航海記』や『ノンちゃん雲に乗る』になり、やがて詩になっていった。

寝る前の一編の詩。
母が持って来ていたのは、文学全集の「日本の詩歌」の巻で、高村光太郎から始まっていた。
当然のことながら何を読むかの選択権は母にしかなく、子どもに理解できるかなどはおかまいなしに、結局は自分が好きなものを読んでいたような気がする。朔太郎はずいぶん読んでくれたけれど、光太郎で読むのは「智恵子抄」だけ、これはよくない、誰それはつまらない、と、勝手なことを言っていた。なかでも西脇順三郎が好きだったようで、意味などまったくわからなかったが、不思議なことばの響きに、母を間に挟んで弟とふたり、笑い転げた記憶がある。後に記号論の本を読んでいるときに、「シンボルはさびしい」ということばが不意に浮かんできて、なんだろう、なんだろう、と記憶を探っていたら、このとき読んでもらった順三郎の詩の一節だった。

そのころのわたしが好きだったのは、宮沢賢治の『永訣の朝』だった。詩というよりも、物語のように聞いていたのだと思う。死んでいくトシがかわいそうで、聞きながらふとんをかぶって泣いた。
詩のなかにでてくる「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というリフレインは、いまでも祈りのことばのようにわたしの胸の内に響いてくる。
岩手の冬、その土地で生きるひとが、雪と氷のなかで発する「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、どのような響きを持つのだろうか。
わたしが聞いたそのことばには、普段の母のことばからは聞くことのできない、母が育った山陽の乾いた土と穏やかな冬の陽のにおいがした。

また別の記憶。
高校の倫理の授業で一枚のプリントをもらった。一面、漢字ばかり、横にひらがなでルビが打ってある。仏教の回で、「お釈迦さんの思想をコンパクトにまとめたもの」として、般若心経のプリントをもらったのだった。簡単に語句の説明があったあとで、それまでだるそうにほおづえをついて喋っていた高齢の先生が、居住まいを正して読み始めた。読経ではなく、臍下丹田に力をこめた、一音一音を前に押し出すような、聞いている側も、前へ、前へと押し出されていくような、非常に力強い朗読だった。

「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ばじそわか」

この不思議な音の響きを聞いていると、これまで聞いたどんな音楽ともちがう、あるいは、どんな朗読ともちがう、自分の奥底にすうっと落ちていくような、同時に、自分がもっと大きな、はるか遠くのものと響き合うような、不思議な感覚を覚えた。その経験を忘れたくなくて、家へ帰ってもその先生の真似をして、繰り返し繰り返し読んだ。自分の口から出る音に、そこまでの力強さはなかったけれど、読んでいると、そうして、自分の声を耳で聞いていると、不思議と心が澄んでいく感じがした。

声に出して読む、というのは、どういうことなのだろう。
黙読と、音読ではどうちがうのだろう。
そのことについて、これから何回かに渡って考えてみたい。

(この項続く)