陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

声に出して読むということ  その3.音読から黙読へ

2005-02-14 21:30:51 | 

まずは前回の質問の答え。

「音読から黙読へと切り替わった大きなきっかけ? それはグーテンベルグの活版印刷でしょう」

そう思うでしょう?(いや、わたしがそう思っただけなんだけど) ところがどうもそうではないらしいのだ。

以下は前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫)を典拠とする。

デイヴィッド・リースマンは"The Oral Tradition, The Written Word and the Screen Image"のなかでこう述べている。

じつにグーテンベルグが出た後でさえ、現代の読書の方式が一般化するまでには長い時を要した。書物は独りで読まれる時ですら、声をあげて朗読された。そのことは文字が発音通りに自分勝手に綴られた(ジョンソン博士の辞書が正字法を統一するまでは)ことにも示されている。印刷された行をななめに、頭を梭(※機織りのときに横糸を通すもの)のように素早く動かしながら、黙ったままで脚光を浴びない内密な読み方をすることを学んだのは――これはいかにも彼等然としている――清教徒である。

このようにリースマンは、十八世紀に入ってから、ピューリタニズムのもとに「内面的な読書の方式」が生まれた、としている。

事実、今日わたしたちが読んでいるような散文の小説が登場するのは、十八世紀を待たなければならない。それ以前の文学の中心は、上演を前提とする戯曲であり、朗読を前提とする詩だった。十七世紀までの読書と言えば、「声に出して読むこと」だったのである。

では、日本の場合どうだったのだろうか。

前田は、明治十年代から二十年代にかけての下町中流家庭の日常生活を、長谷川時雨の『旧聞日本橋』をもとにこのように書いている。

夕食後奥蔵前の大火鉢のある一室に、家中の女・子供・女中が集って、行燈で影絵を写したり、きしやごはじきをしたり、縫物をしたりして団欒のいっときを過す、祖母がその音頭をとり、ときには修身談を聞かせる、そういう雰囲気のなかで草双紙が読まれたという。

つまり音読の習慣は、当時の識字率とも関係が深かったのである。
さらに柳田国男はこうした音読が、口承文芸の伝統を引くもの、とも指摘している。

……以前の人は声を出して本を読みました。それで一人が読むと他の多くの者が面白く聞き、平がなさへ読めぬ者までが、一同に今いふ文学を味ふことが出来ました。是は文字の教育が普及せぬ以前、人が暗誦をして口から耳へ承け継いで居た名残りと私たちは見て居ります。(『女性生活史』引用は『近代読者の成立』からの孫引用)

読みものへの関心と読みたいという欲求を抱えた潜在的な読者が、ひとりの読み手を囲んで耳を傾ける。このとき、読まれる物は江戸後期なら草双紙などの戯作文学であったし、明治に入っては小新聞のつづきもの、講談の速記などだった。
だが、そうした物語の「伝達」手段としての朗読のほかに、日本にはもうひとつの朗読の伝統があったことを前田は指摘する。

江戸時代、士族や地方豪族の子どもは、早ければ五歳、遅くとも十歳前後には漢籍(四書五経などの儒学書)の素読を始める習わしがあった。
明治に入っても、この伝統はしばらく続いていく。
素読というのは、意味などはさておき、とにかく声を出して読むことである。先生の後について、ひたすら音読をしていくのである。

漢籍の素読はことばのひびきとリズムとを反復復誦する操作を通じて、日常のことばとは次元を異にする精神のことば――漢語の形式を幼い魂に刻印する学習課程である。意味の理解は達せられなくても文章のひびきとリズムの型は、殆ど生理と化して体得される。やや長じてからの講読や輪読によって供給される知識が形式を充足するのである。そして素読の訓練を経てほぼ等質の文章感覚と思考形式とを培養された青年たちは、出身地・出身階層の差異を超えて、同じ知的選良(エリート)に属する者同士の連帯感情を通わせ合うことが可能になる。しかも漢語の響きと律動に対する感受能力の共有を前提に、漢詩文の朗読・朗吟という行為が、あたかも方言の使用が同じ地域社会に生息するもの同士の親近感を強化するように、この連帯感情を増幅する作用を示すのである。


明治初期には家族内部でのコミュニケーションとしての「朗読」、そして学士たちの、文章のリズムを実感するために音吐朗々と誦する「朗読」、日本にはこの二種類の「朗読」があったのである。

ところがこの伝統は、明治五年に施行された新しい学制とその下での新しい教育、識字率の向上、あるいはまた印刷技術の進歩によって次第に失われていく。


さて、読書が音読から黙読へ、という流れをたどってきたことはわかった。
そのなかで前田のいう「ことばのひびきとリズム」を体得する、これは音読でしかできない、黙読では決して感じることのできないことである。音読から黙読へと移行することで、失った最大のものは、これではないだろうか。
だが、「ことばのひびきとリズム」を体得する、というのは、いったいどういうことなのだろう。
明日はそのことを考えてみたい。
(この項続く)