ロバート・ブライの詩に関する若干の補足
(詩とその訳は、昨日のブログを参照してください)
まず、詩の語句について簡単に。
タイトルにもなっているTeeth Mother、これは神話から来ているとブライはインタビューやエッセイ"Sleepers Joining Hands." にも記しているのだが、詳しいことは不明。
まずブライの紹介によると、大地母神は四人の女神から成る。
真上に地母神、これは善き神である。すべてを生みだし、すべてに愛と滋養を与える。
その真下にいるのが死母神である。この死の女神は、犠牲と殺しを司る。
右には、もうひとりの善き神、恍惚の女神がいる。この神はさまざまな芸術を通じて、ひとびとを美と恍惚に導く。
そうして左にいるのが歯母神で、一切の破壊的なもの(精神病や憂鬱症、薬物中毒、好戦性など)をもたらし、ひとびとを死と滅亡へ導く女神なのである。
インタビューの中でも簡単にふれられているが、ブライは脳の浅いところからくることばと、もっと深いところ――魂――から来ることばがある、という。昔の人はおとぎ話にみられるように、抽象的なことばを使うよりも、イメージを用いたことばを使っていた。新聞や雑誌などのことばは、表層から出てきたことばであるのにたいして、詩はイメージによって語りかける。魂から出たことばは魂に届く。そうしたものが詩なのだ、という。
この詩においても、ヴェトナム戦争を始めたのが、ジョンソン大統領とラスク国務長官ではなく、死母神と歯母神であるという考え方を提示する。そう考えることによって、より深いイメージの世界へ、みずからを投げ入れることになる、という。
この詩のなかで歯母神が姿を現すのは、最終章である。
『ロバート・ブライ詩集』(谷川俊太郎・金関寿夫訳 思潮社)の解説にはこう記されている。
この詩のなかでは、あたかも映画のように、非常にリアルな描写が、強い緊張感を保ったまま、詩のなかで積み重ねられていく。それは読者を深いイメージの世界へ誘うための助走でもある。
歯母神というイメージの世界へ跳躍することはむずかしいのだけれど、それでも、この詩に描かれた残虐な行為の数々を、「他人事」として見るのではなく、内側でとらえ、自分の奥深くへと落としていくことは可能ではないだろうか。
この詩が発表されたのはヴェトナム戦争のさなかの1970年。
それから三十五年がすぎたけれど、この詩はいささかも古びてはいない。
(※個別の語句について、一応注解は書いたのだけれど、ブログの構成上わかりにくくなってしまったので、サイトに掲載することにしました。後日そちらでアップします)
(詩とその訳は、昨日のブログを参照してください)
まず、詩の語句について簡単に。
タイトルにもなっているTeeth Mother、これは神話から来ているとブライはインタビューやエッセイ"Sleepers Joining Hands." にも記しているのだが、詳しいことは不明。
まずブライの紹介によると、大地母神は四人の女神から成る。
真上に地母神、これは善き神である。すべてを生みだし、すべてに愛と滋養を与える。
その真下にいるのが死母神である。この死の女神は、犠牲と殺しを司る。
右には、もうひとりの善き神、恍惚の女神がいる。この神はさまざまな芸術を通じて、ひとびとを美と恍惚に導く。
そうして左にいるのが歯母神で、一切の破壊的なもの(精神病や憂鬱症、薬物中毒、好戦性など)をもたらし、ひとびとを死と滅亡へ導く女神なのである。
インタビューの中でも簡単にふれられているが、ブライは脳の浅いところからくることばと、もっと深いところ――魂――から来ることばがある、という。昔の人はおとぎ話にみられるように、抽象的なことばを使うよりも、イメージを用いたことばを使っていた。新聞や雑誌などのことばは、表層から出てきたことばであるのにたいして、詩はイメージによって語りかける。魂から出たことばは魂に届く。そうしたものが詩なのだ、という。
この詩においても、ヴェトナム戦争を始めたのが、ジョンソン大統領とラスク国務長官ではなく、死母神と歯母神であるという考え方を提示する。そう考えることによって、より深いイメージの世界へ、みずからを投げ入れることになる、という。
この詩のなかで歯母神が姿を現すのは、最終章である。
『ロバート・ブライ詩集』(谷川俊太郎・金関寿夫訳 思潮社)の解説にはこう記されている。
この詩の週末部には、……一種気の狂ったケモノ、というヴィジョンが出て来る。そのケモノがヨーロッパ風の髪をしているのは、この最終的にはヴェトナム戦争にと発展した好戦的な活力が、ヨーロッパ系アメリカ人から出たものだ、という事実を示す。この巨大なイノシシのようなケモノは、マサチューセッツから西に走って、いまやカリフォルニア州西端メンドシーノ郡の、太平洋を見下ろす断崖の所まで来ている。次の行には、キリストによって体内に悪魔を入れられた豚のむれが現われる。そして「狂ったケモノ」が台丘に向かって突進し、「ブタどもが」それに続いて海に跳び込むと、海が左右に分かれてふたつの半球が浮かび上がって来る。一つには「法悦状態の毛深い男たち(ウッドストックに集った対抗文化の若者たちやビートルズを想起してもいいようだ)、そしてもう一つには、「ついに裸身となった歯母神が出現する」
この詩のなかでは、あたかも映画のように、非常にリアルな描写が、強い緊張感を保ったまま、詩のなかで積み重ねられていく。それは読者を深いイメージの世界へ誘うための助走でもある。
歯母神というイメージの世界へ跳躍することはむずかしいのだけれど、それでも、この詩に描かれた残虐な行為の数々を、「他人事」として見るのではなく、内側でとらえ、自分の奥深くへと落としていくことは可能ではないだろうか。
この詩が発表されたのはヴェトナム戦争のさなかの1970年。
それから三十五年がすぎたけれど、この詩はいささかも古びてはいない。
(※個別の語句について、一応注解は書いたのだけれど、ブログの構成上わかりにくくなってしまったので、サイトに掲載することにしました。後日そちらでアップします)