陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

声に出して読むということ その6.自分の声に出会う

2005-02-17 21:23:34 | 


慣習化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。……そして芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人にさまざまな事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることにある。(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』せりか書房)

これまで見てきたように、ことばは二種類に分類することができる。
情報を伝達するためのことば。
そしてもうひとつは、情報ではなく、わたしたちの身体のより深いところに関わってくることば。
そのことばを理解するときも、わたしたちは二種類の「わかりかた」をする。
情報を処理する理解。
そのことばを身体でなぞり、受肉化するような理解。

現代のわたしたちは、速く、たくさん読むために、黙読がすっかり中心になってしまった。たとえ文学作品を読んでいるときでさえ、ストーリーを追っていく、つまり、情報を受け取るのに夢中になってはいないだろうか。
標準的な散文を読むときは、音に耳をすましたりしない。新聞を読んだり、雑誌を読んだりするときは、それでもいい。けれども、ことばを等しく「情報」として扱ってよいのだろうか。

竹内敏晴の『日本語のレッスン』(講談社現代新書)は、声に出して読むことをすっかり忘れてしまっているわたしたちに、具体的なレッスンを施してくれる本である。

まず、この本では「自分の声に出会う」ことから始める。
「自分の声」は知っている、と思っている。けれども、竹内はそうではない、という。

ああ、これが自分の声だ、と納得した時、自分が現れる。これが自分だ、と発見するということは、自分をそう見ている自分もそこにしかと立っているということで、ふだんの自分が仮構のものだった、固まった役割を演じていたのだと、霧がはれたように見える。世界が変わってしまう。目が開く。比喩ではない。実際に相手の顔が、周りの世界の隅々が、くっきりと、初めてのように見えて来るのだ。深ぶかと息をすると、自分の存在感が変わる。世界のまん中に自分が立っていると気づくと言ってもいいか。自分がこの世に落ち着くのだ。自分の声に出会うということは、自分が自分であることの原点である。

声に出して読む、ということは、自分が表現する主体となる、ということだ。内的に理解する、感じとることを越えて、さらに、声によって、他者と共有する存在しないものを創り出すことだ、と竹内は言う。
たとえひとりしかいなくても、それは同じことだろう。
ひとは祈るとき、かならず声に出す。祈りの対象を呼び出し、自分の声を届けるために。なにもない空間に、祈りの対象を生み出す、といっても良いかもしれない。

本を読み始めた人間は、最初はみんな音読をしていた。豊かな音読の歴史を持っていた。さまざまな理由はあるけれど、いまのわたしたちはひたすら情報を消化し、処理するために黙読をむしろ強いられているのかもしれない。そうするうちに、自分の声や身体をどこかに置き忘れたまま。
けれども文学は、シクロフスキーの言うように「生の感触を取り戻す」ために存在しているのだ。

何千年かたった。地上にはひとが増え、もはやひと以外の動物を養うほどの植物を栽培する余地がなくなってしまった。地上には、ひとと、ひとのための諸施設、住宅とか道路とか食料生産施設などしかなくなった。海中には食用のための魚が泳いではいたが、もはや空中には一羽のとりもみられなかった。「とり」は伝説の生きものとなった。
 ある日、すべてを知る機械にひとがたずねた。
「とりとは何か?」
 機械は答えた。
「鳥とは以下の遺伝子的特徴をもつ生物である。即ち……」
 ひとは伝説を思いだして、問いかたを変えた。
「とりは飛ぶというのは本当か?」
「鳥のあるものは空中を飛翔し、あるものは水中を泳ぎ、あるものは地上を高速で走行する」
 ひとは感動した。言い伝えは本当だったのだ。空飛ぶ生きものは実在したのだ。
「それはすごい! じゃ、とりはこの世でいちばんすばらしいからだを持った生きものなんだ」
「すばらしい? どうして? 鳥のあるものは二階から落とせば死に、あるものは水につければ死に、あるものは地上を幼児よりも遅くしか走れないのだよ」
 すべてを知る機械は肉体をもたないことを思いだし、ひとは問答をやめて外に出た。そして空に向かって全身の筋肉を揺るがして叫んだ。
「とり!」 
 ひとはからだが風を割って進んでいるのを感じた。(尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書房)

 あなたの「とり!」は風を切りますか?

(この項終わり)