陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

不幸なクロー

2009-04-28 23:00:13 | weblog
もう少し、人類の滅亡とクローの話。
(※検索で飛んで来た人のために。ここでクローと言っているのはフィリップ・K・ディックの短篇「変種第二号」に出てくる殺人兵器のことです)

中島敦の「狼疾記」に出てくる「自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。」という三造の思いをもとに、こんなテストを作ることができるはずだ。

【質問】あなたは自分が死んでも人類がこの地球上で生き続けると思うと、安心して死んでいけるように思いますか、それとも、自分が死ぬなら地球なんて滅びてしまえと思いますか。

結局このテストでわかるのは、その人が周囲の人びとに対して暖かい気持ちを抱いているか、逆に、恨みがましい気持ちを抱いているかということだ。言葉を換えれば、周囲の人びとはその人にとって、「人間」か、それとも「クロー」かといってもよい。そうしてそのことは同時に、その人が周囲の人にとって、「人間」としてあるか、「クロー」になってしまっているか、ということでもある。


ときどき「不幸な人」がいる。
端から見てあきらかに災難の多い、気の毒な人生を送っていると判断できるかどうかとは無関係に、その人が「なんと自分は不幸なんだろう」「どうして自分ばかりこんな目に遭うのだろう」と思い、耳を傾けてくれる人なら誰でも、聞き手の迷惑もかえりみず、繰りかえしそのことを訴える人である。

話を聞いてみると、その人はいろんな面でうまくいっていないのも事実なのだ。だが、たとえばそれはヨルダン川西岸地区にパレスチナ人として生まれついた人や、マラウィに生まれ落ちた人のように、生きていくことそのものがどうしようもなく困難な情況にある人びとの「不幸さ」とは、土台になっているものがちがう。

みんなが忙しいなかで自分が忙しいのと、みんながだらだらしているなかで、自分一人が忙しいのでは、圧倒的に後者の方が腹立たしいものだ。自分ひとり、バタバタ立ち働いているのに、ほかのみんなはグータラしている。そう思うだけで、むかつき指数は20ほどあがる(数字に根拠なし)。

「不幸な人」はたいてい腹を立てている。まるでグータラなキリギリスの群れを養っている、孤軍奮闘中のアリになったような気分で、「自分ばかりがこんな目に遭う」と、キリギリスを呪い、自分をたった一匹のアリにした運命を呪い、政府を呪い、国を呪い、時代を呪う。

自分の不幸を縷々訴える人の「不幸」というのは、言ってみれば「キリギリスAがあれをしてくれなかった」「キリギリスBは自分に対してこんなひどいことをした」という不平不満であり、それを「自分の不幸」をオチにするたったひとつの筋書きしかない物語にすべて流し込んでいるようなものなのだ。

よくしたもので(?)、こうしたアリの身辺には、実際に災難が起こり続ける。キリギリスたちはいよいよグダグダになるばかりだし、自分の話を聞いてくれる人は少なくなっていくばかり。

そこで、そういう人に「こうしてみたらどう?」と何か提案したとする。かならず、打てば響くように「それができないわけ」が返ってくるだろう。そこはもう、鉄壁の守り、と言いたいぐらい、「何をやってもダメ」と斥けられるにちがいない。

つまりその人は自分の不幸のなかに安住しているのだ。他の人がたとえば趣味や楽しみや勉強、やりがいのある仕事や責任などで満たしている時間を、すっぽり「不幸であること」で埋めているように思えるのだ。そうなったら、それはそれでひとつの時間の使い方だ、としか言いようがない。

事実、そういう人の不平不満は、昨日の出来事かと思って聞いていれば、十年前の話だったりして、聞いている側の時間の感覚まで、おかしくなってしまいそうだ。基本的に、記憶のなかにあるさまざまな出来事というのは、経過した時間による漂白作用を受けている。三歩歩けば何でも忘れるわたしなど、去年のいまごろ何をしていたか、と言われても、「え?」と絶句してしまうのだが、「不幸な人」の不平不満は、時の漂白作用とは無縁で、さっき起こった出来事と同じ鮮度を保っている。つまりそれは、頭のなかで、そのときの出来事が、繰りかえし繰りかえし再現されているからなのだろう。そうして「不幸な人」は、再現することで日々の空白を埋めている。

さまざまな出来事をかき集め、たったひとつの筋書きしかない「不幸な物語」をせっせと紡いでいるうちに、その人の周囲からは人がいなくなり、その人はいよいよのっぴきならないところに追い込まれていくかもしれない。自分はこんなにも不幸なのに、周囲のやつらは幸福そうだ。そうやって周囲を恨めば、周囲はみんな「クロー」になる。周囲を「クロー」と見なしているその人は、周囲の人から見れば、非協調的で自己主張しかせず、何かあると噛みついてきて、「クロー」そのものである。

その「不幸な人」が、自らの手で自分に「終わり」を宣告しようとするとき、自分が死んでも人類がこの地球上で生き続けることをうれしく思うはずがない。せめて「クロー」の一体でも二体でも道連れにしようと考えたとしても、何の不思議もない。

いったんこの「不幸」のなかに安住してしまったら、解決することも、何らかの対応策を立てることもむずかしくなってくる。というか、「不幸な物語」にすべてを流し込みさえしなければ、さしのべる手にも、藁よりはすがれそうな救命ロープも見えてくるのだが、その人にとっては、物語はそれ以外はないので、手が見えても、それは自分を突き落とそうとする手であり、救命ロープは首つりのロープに見えるのかもしれない。

さて、明日はこれと反対の、幸福について、考えてみる。



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2 コメント

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遅くなってごめんなさい! (陰陽師)
2009-05-23 07:10:05
コウさん、こんにちは。

返事が遅くなってしまいましたが、まだ読んでくださってるかしら(笑)。

ずいぶん昔のまでさかのぼって読んでくださって、どうもありがとうございます。
福助おばさんの謎とか(笑)、わたしも書いてとっても楽しかったことを覚えています。なんかね、ああいうのをときどき書きたい。もっと書きたい、とも思うんですが、なかなかむずかしいものです。ユーモラスなエッセイを継続的に書ける人というのは、地力と体力と安定感の三つが備わっているのだろうと思います。

> でも不思議です。数年前の言葉に反応して会話ができるんですからね(もっとも「読書」という行為自体がそうですね)。

そうですね、わたしもほんとに不思議だと思います。
書くということは、とりもなおさず「もうひとりの自分」と会話するということだと思うんです。
書いているわたしは、「書かれたわたし」とはちがう。
時間を経て、書いたその直後に帯びている、一種の熱みたいなものが冷めたのちに向き合うと、「福助おばさんの謎」もそうですが、もう自分が書いたもののような気がしません。不思議なものだと思います。

「読む」ということもそうですね。
なんというか、くださったコメントを拝見しても、たったこれだけの文章でも、それぞれのコメントに、それぞれの「声」を感じます。
わたしのコメントの返事が、つい長くなってしまうのは、ひとそれぞれの「声」に応えたい、と思っているからかもしれません(ってこんなに遅くなった言い訳にはなりませんよね)。

逆に、何の「声」もない、のっぺりしたものを感じるときは、ちょっとぞっとする。
こんなところにもエロ広告がたまに紛れ込んでくるんですが、エロ広告の不快さは、文章ではなく、書き手の「声」を感じさせない、のっぺりした、ぞろっとした、手にするのも不快な「人ではないもの」の感じなんだと思います。

何か、これだけの長さしかない文章でも。
人の書いたものには、その人の「声」があるなあ、って思います。

声を聞かせてくださって、どうもありがとうございました。
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Unknown (コウ)
2009-05-01 15:21:42
こんにちは^^
いやあ~堪能しています。凄いパワーですね。
リアルタイムで読めなかったのが残念です(でも機械音痴なので……って表現も変てこですよね)、PCデビューした頃には既に遅かったんですけどね。
でも不思議です。数年前の言葉に反応して会話ができるんですからね(もっとも「読書」という行為自体がそうですね)。
漸く一周年が過ぎ、ポケットの中の「クリーニング・夏物のスーツ」やら、福助おばさんの謎(迷宮入りか?)にツボっています^^
あと、「渡辺のジュースの素」の件ですが、プラッシー発言で私が勝手に勘違いしただけで、陰陽師さんとはかなり年齢の開きがあることも分りました(当然こちらが遥かに上です)。同年代と勘違いしてしまって失礼いたしました。
それではまた続きを……。
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