陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

不幸な体

2008-11-07 23:30:36 | weblog
以前、小学校に入った年の子供がいきなり
「もうこれから何もいいことがないような気がする」
と泣き出したのを聞いて、ぎょっとしたことがある。

そんなことないよ、もうすぐ冬休みでしょう、クリスマスだってあるよ、と、気持ちを引き立て、いったんは落ち着いたのか、泣きやんだが、二時間ほど経ったころだろうか、いきなりその子は嘔吐をし始めた。なんとインフルエンザに罹っていたのだ。つまり、まだ発熱する前の、大人であれば「何かゾクゾクするな」とか「だるい感じだな」と、はっきりとはしないのだが不調を感じる状態を、「何も良いことがないような気がする」と表現していたのだ。

わたしたちが「もうこれから何もいいことがないような気がする」と感じるのは、言葉通り、将来に対する不安を感じているときだろう。これから自分を取り巻く状況が悪くなっていくのではないか、もう二度と楽しんだり笑ったりすることもないのではないか、と怯えているのだ。まさかそれが身体状況のことを言っているとは、大人の側は夢にも思わないはずだ。

ところが、子供にしてみれば、自分の調子が悪いのかどうかもよくわからないところで、何か「いやな感じがする」という状態を「もうこれから何もいいことがないような気がする」と理解したのだろう。

わたしたちはあまりそういう言葉の使い方はしないが、やはり体の不調は精神状態にも影響を及ぼすものだ。どこかが痛いだけで、やはり気持ちも晴れないし、意識の一部はいつも不調の場所に引きずられ、集中力も欠いてしまう。

にもかかわらず、その子の言葉を聞いてもまさか体の不調を言っているとは思わない。そういう使い方が、おとなにとっては「普通」ではないからだ。それはつまり、幸福感や不安と、体のことは、別のことだと無意識のうちに分けて考えているからなのかもしれない。

子供にとって、「何もいいことがない」というのは身体の不調なのだとしたら、「何かいい」ことが起こっている状態というのは、身体の好調として意識されているのだろうか。もちろん大人にとっても、楽しい、おもしろい、わくわくする、といった精神状態は、体も「好調」として感じられているにちがいない。

わたしたちはふだん自分の体を「体である」とほとんど意識することはない。だが、どこか調子が悪くなると、ふだん考えることもない体のその部分が急に意識される。
逆に好調のときというのは、なかなか意識されないものなのだが、一度、精神状態のいいときの自分の体というのを意識してみたいものだ。

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