陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ソクラテスであろうが豚であろうが

2008-04-26 22:53:28 | weblog
似たような、多少ちがうような話を続ける。

昨日のログを書いた後で読み返してみて、ふと彼女がなんであそこまでしきりに「忙しい、忙しい」と繰りかえして言ったか、やっと思い当たったように思ったのである。おそらく彼女は充実している彼女の生活を、わたしに「うらやましい」と思ってほしかったのだ。
そう考えてみれば、いろいろ細かいところに納得がいく。非常に申し訳ないことに、わたしはそのことにまったく気がつかず、何を言われても「なるほどね」と、至極あっさり受け流してしまっていたのだ。

ときどき、自分がどんなに幸せか、承認を求めないではいられないような人に会うことがある。
自分がどれほど忙しいか、人に求められているか、大切にされているか、あるいは、自分に何ができるか、自分は何を持っているか、自分はどこの大学を出たか、どこの企業に勤めているか、自分の結婚相手や恋人や親や子供がどれほど優れているか、そういうことを言う人というのは、結局は自慢がしたいのではなく、ほんとうは、自分の幸せを認めてもらいたいのだろう。

けれど、前にも引いたジンメルではないが、言葉というものは、かならず意図しているものとちがうものを伝えてしまう。
そういうメッセージから受けとるのは、逆に、その人の自信のなさだ。
自分が幸せだ、自分は満ち足りている、と人に言わずにはおれないのは、実はその人がどこかいまの自分に自信がなくて、そうではないよ、あなたは幸せだよ、間違ってないよ、と言って欲しいのだ。「ほんと、あなた恵まれてるわね、うらやましいわ」と言って欲しいのに、実際には自分の自信のなさを、人に向かって発信しているのだ。

そんな人は、自分とちがう生き方をしている人を見たら、自分が否定されたように感じる。だから相手を否定しないではいられない。相手に、あなたの生き方の方がずっとすばらしい、と認めさせずにはいられない。

子供を持たないことに決めた、という人は、たいてい「子供はまだ?」という周囲の言葉に、神経を尖らせ、必要以上に傷ついてしまうように思える。逆に、子供を持って専業主婦になった人は、「子供がキライ」という人の言葉に、やはり必要以上に神経質になっているような気がする。

あるいは「専業主婦は暇だ」という言葉に神経を尖らせたり傷ついたりすることだって同じだ。ときにそれが「まとも」という言葉だったり、「世間では」という言葉だったり、「普通だったら」という言葉だったり、なんにせよ確かに無神経な言葉にはちがいないのだが、そういうことを平気で口にできるような人間は、あまり深くものごとを考えない人か、あるいは自分に自信がなくて自分以外の人に対して攻撃的になっているかのどちらかのような気がする。そんな言葉にむかつくぐらいはかまわないけれど、傷つく必要はまったくない。

いまの自分に自信があれば、つまり、いままでのいくつかの選択の場面で、迷いながらもじっくりと考えて、自分に納得のいく結論を出した人であれば、まあいろんな考え方があるからね、と笑って聞けるのではないだろうか。もちろん悪意を持って言われれば頭にも来るだろうが、そんなことを言うような人間は、その人間に問題があるんだ、と思えるような気がする。

幸せという「何ものか」があるわけではないし、「幸せ」という状態があるわけでもない。
ケーキは食べてしまえばなくなるし、これから海に行こうと決めてしまえば、今日、山に行くことはできない。ケーキはいま食べてしまった方が幸せなのか、まだ持っていた方が幸せなのか。海に行った方が幸せか、山が幸せか、いったい誰にわかるというのだ。

そんな誰にも答えの出せないことを考えるよりも、そのときどきをどうやったら一番楽しく過ごせるかを考えたほうがいい。ケーキを食べるのだったら、どうやったら一番おいしく食べることができるのか考えればいい。自分が日々を納得して過ごせたら、それが一番いいし、自分のありようを納得できている人は、まわりを否定する必要もないはずなのだ。

もしかしたら、わたしはえらく低いところで「満足」してしまっているのかもしれないのだが、まあそれならそれでいいと思っている。わたしが痩せたソクラテスか太った豚か、別にだれにも判断してもらわなくてもかまわない。

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