わたしはもう昔から推理小説のたぐいが好きで好きで、寝食を忘れて読み耽ったものだ。なかでも好きだったのが横溝正史で、何度も何度も繰りかえして読んだ。
横溝正史の作品では、主要な登場人物が、よくケガをしたりやけどを負ったりして、「この世のものとも思えないほど怖ろしい顔」「二目と見られぬほど醜い顔」になる。いったいどんな顔なんだろうとよく考えた。
子供の頃、近所に顔にやけどの痕のある人がいた。顔の片側、頬骨のあたりから首筋にかけてケロイドになっている。小学校の、まだ低学年のころだったと思うのだが、その人とすれちがうたびに、どうしても目がひきつけられてしまうので、自分でも困っていた。
母からは、じろじろ見るなんて、とんでもなく失礼なことよ、と怒られたし、自分でも、そんなふうに見るものではないとわかっていた。それでも、磁石に引き寄せられるペーパークリップのように、その人がいると、自分の目がその人の顔に引き寄せられるのだ。そんなことのないように、たとえうつむいていても、すれちがいざま、がまんできずにちらっと見てしまう。そんな自分がひどく情けなかった。
ただ、怖ろしいとか、気持ちが悪いとか、思ったことはただの一度もなかった。もっとよく見たい、見なれない顔、ほかの人とはちがう顔を、もっとよく見たい、ただそれだけだったのだと思う。心ゆくまで見ることができて、その顔に慣れさえすれば、そんなふうに引きつけられることもなかったのだろう。
もちろん、わたしからすればそれだけのことであっても、視線を向けられる人にとっては、どれだけ不快で、視線が突き刺さるように感じられるか。相手の心情が想像できなかったわけではない。わかっていたからこそ、よけいにジレンマに陥っていたのだろう。
そんな経験があったから、ただやけどした、ただケガをした、というだけでは「世にも怖ろしい」ことになるとはとても思えなかった。横溝の登場人物の顔というのは、いったいどのような状態になっているのだろう。「醜い顔」というのは、どんな顔なのだろう。そんな描写が出てくるたびに、ピカソの「泣く女」あたりをばくぜんと思い浮かべ、あんな顔の人がほんとにいたら、ちょっと怖いかもしれないな、などと考えていた。
のちに、ディズニーのアニメ映画「美女と野獣」を見たときのこと。
「二目と見られぬほどの怖ろしい顔、誰も愛することができないほど醜い顔」というナレーションののちに、野獣が出てきて、わたしは「おいおい」と思った。
(※参考画像http://www.imagesdisney.com/fondos-beauty-beast.htm)
確かに人間の顔ではないが、別に怖ろしくも醜くもない。こういう人が出てくれば、最初は驚くだろうが、すぐに慣れるにちがいない。最後に「野獣」は平凡なお兄ちゃんに戻るのだが、逆に、ベル(主人公)はさぞかしがっかりしただろう、と思ったものだ。
テレビには「ブス」という役割を引き受けているらしい人もいるが、そういう顔が醜いかというと、そんなことはない。確かに多少バランスが悪いところはあって、そこをことさらに取り上げられているようだ。だが、確かにその人は容姿端麗とは言えないけれど、「醜い」という形容がふさわしいような顔立ちとは言えない。
こう考えていくと、おそらく「醜い顔」などというものは、どこにもないのだろうと思う。
ところで先日、和歌山カレー事件の被告に死刑判決が出たとき、ニュースには繰りかえし、その被告が笑いながら水を撒いている(あれは家を取り巻いた報道陣に水をかけているのだっけ?)映像が流れた。そのとき被告は唇を歪めて、笑っているような顔をしていたが、全然楽しくなさそうな、おそらく腹を立てている、腹をものすごく立てながら、顔だけ笑っているような、奇妙なねじれの印象を受けた。
そんなふうに、変な感じ、妙な感じ、人によっては怖い感じなどの印象を、わたしたちは人の顔から受けることがある。だが、それは、その人の顔の造作によるものではなく、表情から、何か、にじみ出てくる「その人」のある種の質のようなものを受けとるのだろう。
「醜い顔」というのがもし仮にあるとするなら、それはその人が醜い表情を浮かべているということだ。誰かを激しく妬んだり、羨んだり、逆に、思い上がって人をバカにしたり。
逆に、楽しそうな表情、明るい表情は、一緒にいるわたしたちの気分をも明るくする。造作が整っているか、アンバランスかという差は、その人が浮かべる表情にくらべると、ほとんど取るに足りないことではあるまいか。
横溝正史の作品では、主要な登場人物が、よくケガをしたりやけどを負ったりして、「この世のものとも思えないほど怖ろしい顔」「二目と見られぬほど醜い顔」になる。いったいどんな顔なんだろうとよく考えた。
子供の頃、近所に顔にやけどの痕のある人がいた。顔の片側、頬骨のあたりから首筋にかけてケロイドになっている。小学校の、まだ低学年のころだったと思うのだが、その人とすれちがうたびに、どうしても目がひきつけられてしまうので、自分でも困っていた。
母からは、じろじろ見るなんて、とんでもなく失礼なことよ、と怒られたし、自分でも、そんなふうに見るものではないとわかっていた。それでも、磁石に引き寄せられるペーパークリップのように、その人がいると、自分の目がその人の顔に引き寄せられるのだ。そんなことのないように、たとえうつむいていても、すれちがいざま、がまんできずにちらっと見てしまう。そんな自分がひどく情けなかった。
ただ、怖ろしいとか、気持ちが悪いとか、思ったことはただの一度もなかった。もっとよく見たい、見なれない顔、ほかの人とはちがう顔を、もっとよく見たい、ただそれだけだったのだと思う。心ゆくまで見ることができて、その顔に慣れさえすれば、そんなふうに引きつけられることもなかったのだろう。
もちろん、わたしからすればそれだけのことであっても、視線を向けられる人にとっては、どれだけ不快で、視線が突き刺さるように感じられるか。相手の心情が想像できなかったわけではない。わかっていたからこそ、よけいにジレンマに陥っていたのだろう。
そんな経験があったから、ただやけどした、ただケガをした、というだけでは「世にも怖ろしい」ことになるとはとても思えなかった。横溝の登場人物の顔というのは、いったいどのような状態になっているのだろう。「醜い顔」というのは、どんな顔なのだろう。そんな描写が出てくるたびに、ピカソの「泣く女」あたりをばくぜんと思い浮かべ、あんな顔の人がほんとにいたら、ちょっと怖いかもしれないな、などと考えていた。
のちに、ディズニーのアニメ映画「美女と野獣」を見たときのこと。
「二目と見られぬほどの怖ろしい顔、誰も愛することができないほど醜い顔」というナレーションののちに、野獣が出てきて、わたしは「おいおい」と思った。
(※参考画像http://www.imagesdisney.com/fondos-beauty-beast.htm)
確かに人間の顔ではないが、別に怖ろしくも醜くもない。こういう人が出てくれば、最初は驚くだろうが、すぐに慣れるにちがいない。最後に「野獣」は平凡なお兄ちゃんに戻るのだが、逆に、ベル(主人公)はさぞかしがっかりしただろう、と思ったものだ。
テレビには「ブス」という役割を引き受けているらしい人もいるが、そういう顔が醜いかというと、そんなことはない。確かに多少バランスが悪いところはあって、そこをことさらに取り上げられているようだ。だが、確かにその人は容姿端麗とは言えないけれど、「醜い」という形容がふさわしいような顔立ちとは言えない。
こう考えていくと、おそらく「醜い顔」などというものは、どこにもないのだろうと思う。
ところで先日、和歌山カレー事件の被告に死刑判決が出たとき、ニュースには繰りかえし、その被告が笑いながら水を撒いている(あれは家を取り巻いた報道陣に水をかけているのだっけ?)映像が流れた。そのとき被告は唇を歪めて、笑っているような顔をしていたが、全然楽しくなさそうな、おそらく腹を立てている、腹をものすごく立てながら、顔だけ笑っているような、奇妙なねじれの印象を受けた。
そんなふうに、変な感じ、妙な感じ、人によっては怖い感じなどの印象を、わたしたちは人の顔から受けることがある。だが、それは、その人の顔の造作によるものではなく、表情から、何か、にじみ出てくる「その人」のある種の質のようなものを受けとるのだろう。
「醜い顔」というのがもし仮にあるとするなら、それはその人が醜い表情を浮かべているということだ。誰かを激しく妬んだり、羨んだり、逆に、思い上がって人をバカにしたり。
逆に、楽しそうな表情、明るい表情は、一緒にいるわたしたちの気分をも明るくする。造作が整っているか、アンバランスかという差は、その人が浮かべる表情にくらべると、ほとんど取るに足りないことではあるまいか。
返事が遅くなってごめんなさい。
ちょっとこのところ忙しくてバタバタしてました。
楽しんで読んでいただけて、何よりです。
なにしろ、読むところだけはたくさんありますから、ごゆるりとお過ごしください。
はてさて、「渡辺のジュースの素」はわたしは知りません。
だから検索してみました。粉末ジュースっていうのは、駄菓子屋の5円くじを引いて、小さな袋に入ったのをもらったような記憶があるんですが、あれかしら。
確か、家には一時期「井村屋のソーダラップ」はあったような気がするんです。あれ、炭酸飲料にカテゴライズしちゃっていいんでしょうか。水に溶くと、プチプチ泡が出ていたのを、何度か飲んで、氷を入れて、少し濃いめに作ったのが何とおいしいのだろう、と思った記憶はあります。
いまだにクリームソーダに何とも言えない郷愁を覚えるのは、きっと「井村屋のソーダラップ」のせいかもしれません。クリームソーダ、この前飲んだのはいつだろう。あまり親しくない先輩にクリスマスに呼び出されて、好きなものを食べていいよ、と言われてクリームソーダを飲んだことがある。それが最後かもしれません。だったら十年どころじゃなく前のことだ(笑)。
クリームソーダ、いいですねえ。あの毒々しい緑がやっぱりいい、ってこんな話、日が暮れる(笑)。
> アンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋でのできごと』
あれは何というか、自分でも良くできた(笑)と思っています。明らかに原作に引っ張られたんですね。わたしは文章でも翻訳でも、やっぱり体力がないのか、なかなか最後までテンションが維持できないものが多いんです。だけど、あれはどういうわけか最後まで緊張感が持続した。何か、はまった感じっていうのが自分でもわかって。あれはちょっと自分でも気に入ってるんです。
あとは、そうだな、マッカラーズの『過客』かな。あれは途中で何かが降りてきた(笑)。
ほかに好きなのは、リンチの葬儀屋さんの話とか、『床屋』。声が決まると、もう勝手に文章が動き始める。この感じは楽しいものです。
訳としてはもうひとつなんだけど『ローマ熱』も思い出深い作品です。フランク・オコナーも好き。ほんとはシャーウッド・アンダーソンもまたやりたいと思ってるんですけど、うまく声が捕まえられなくて。
作品が良くても、訳が全然ダメなのもあって、特に『南から来た男』は人気があるだけに、そのうちもう少し手を入れなきゃいけないだろうと思ってます。ダールは「天国へ登る階段」が一番うまくいってるんじゃないでしょうか。
ヘミングウェイとか、フォークナーとか、フランシス・オコナーとかは、読み込みが浅いから訳が何だかつまんないんだろうな、って感じです。
文章の方は、まだまだどれも……。
気楽に書いた「鶏的思考的日常」の方がおもしろいかもしれません。
読んでくださって、ほんとにありがとうございます。
楽しんでくだされば、それに優る喜びはありません。
またお話聞かせてくださいね。
書き込みどうもありがとうございました。
丁寧なレスに感謝しております。
私(♂)も子供の頃、似たような経験をしましたので(子供の視線って悪気がない分だけ、かえってストレートに突き刺さる場合もあるんだと後に知りましたけど)、ジレンマのニュアンスもよく分かります。
で、以前に遡って読んでいるところなのですが、
>プラッシーと言って、わかる人がいるんだろうか。
↑ に思い切りツボっちゃったもので(笑)
たぶん、同世代だと思うので、もちろん良ぉく知っています。
渡辺のジュースの素もマストアイテムでしたし^^
てなことを語っていると日が暮れちゃいますので、ここまでにします。
もともと、アンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋でのできごと』に出会って、訳の素晴らしさに感心したんです。
で、リストを眺めているだけで頬が緩んできたものですから、もっぱらそちらを読ませていただいていたんです(ジョン・チーヴァーとか)。
こちらの方も楽しく読ませて貰いますね(早速、遡行大作戦を決行します)。
ということで失礼いたします。
良かったらまた寄らせてください^^