陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

汚いはきれい、きれいは汚い

2008-06-09 23:03:18 | weblog
先日、こんなニュースを見た。

英消費者雑誌がロンドン市内の一般的なオフィスにあるコンピューターのキーボードとトイレの便座、トイレのドアの取っ手についての調査を専門家に依頼したところ、驚くような結果が明らかになった。

 調査を行った微生物学者は、対象となった33枚のキーボードのうち4つは健康被害を及ぼす可能性があり、その中の1つはふき掃除した便座の5倍不潔なレベルのバクテリアが確認されたとして、オフィスからの撤去を推奨した。

 同調査を依頼した「Which? Computing」誌のサラ・キドナー編集長は、「ほとんどの人たちは自分のパソコンに付いた汚れについてさほど気にしていないが、もし掃除していないとすれば、ランチをトイレで食べているのと同じようなものだ」とコメントした。


一応わたしはウェットティッシュや綿棒を使ってキーボードは掃除をしていますが……。

ただ、このニュースを見て改めて思うのは、わたしたちの「きれいか、汚いか」の判断は、バクテリアの量に基づいてなされるのではない、ということである。
たとえこのニュースを見たとしても、自分の使っているパソコンのキーボードと、公衆トイレのドアのどちらが「汚いか」というわたしたちの意識は、おそらくきっと変わらないはずだ。

たまに図書館の本は読みたくないという人がいる。「誰がさわったかわからないのに、気持ち悪くない?」と実際にそう聞かれたこともある。
電車のつり革はさわらない、という人の話は、もっと頻繁に聞く。お金をさわったら手を洗う、というのは、少しちがう性格の話のような気もするが。

ともかく、そういう人の話を聞くたびに、自分の手をそこまできれいだと確信できる根拠はいったいどこにあるのだろう、とちょっと不思議になってしまう。

トイレに行くと、ときどき扉が閉まったばかりの個室の中から、カラカラカラカラとものすごい量のトイレットペーパーを巻き取る音がする。おそらくそれは便座を拭くためだ。できるだけ便座から距離を取るために、紙を分厚く重ねてそこを拭く。
けれど、家ではそういうことはしないだろう。家の便座は「汚くない」から。

ジョーゼフ・ヘラーに『キャッチ=22』という戦争小説がある。この小説では主人公のヨッサリアンが戦闘機に乗っているときに爆撃を受ける。同乗していた砲手の少年であるスノードンはひどいケガをする。「スノードンの体は床まで切り裂かれてずぶ濡れの山となっており、あとからあとから血が流れていた」。剥きだしになった内臓の山を目の当たりにして、ヨッサリアンは考える。

彼の内臓のメッセージを読みとるのはたやすいことだった。人間は物質だ――それがスノードンの秘密だった。窓から放り出してみろ、人間は落ちる。火をつけてみろ、人間は焼ける。土に埋めてみろ、人間は腐る――他のあらゆる台所屑と同じように。精神が消えてなくなってしまえば、人間は台所屑だ。
(ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫)

たとえば人の戻したものを始末した経験がある人なら、だれもが、自分の胃袋のなかにも同じものが入っているのか、と、何とも言えない気分になったことがあるはずだ。
トイレに行く。排泄する。たったいままで、「それ」は自分の体内にあったものだ。
「人間は台所屑」でできているのだ。

たとえ自分のものでも排泄物は汚いし、吐瀉物は汚い、と思う。まして人のものになればなおさらだ。
それは、わたしたちの意識が、そういうものを「汚い」として、「見えないもの」に押し込めようとしているからではないのか。わたしたちの「体」を意識させるものを忘れるために。

手を洗う。体を洗う。髪を洗う。また手を洗う。さらに洗う。何度も洗う。
そうやって、自分の身体から「汚いもの」をどんどん排除していき、自分から遠くに押しやっていく。
けれど、それは変わらず「そこ」にあるのだ。わたしたちの体は「台所屑」でできているのだから。

パソコンのキーボードについたバクテリアはどこから来たのか。風で飛んできたわけではないだろう。
そうやって「汚いもの」をどこまで排除したとしても、思いもかけない形で回帰してくるはずだ。



更新情報書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

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6 コメント

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ゆるい、薄い、結びつき (陰陽師)
2008-06-21 10:24:28
小狸工房さん、おはようざいます。

そうですね。
確かに本であれ、なんであれ

>人の手を経る

からこそ、加わった意味というものは、かならずあるでしょうね。
それをどう受けとるかは、ものによってもちがう、状況によっても、その内容によっても、ときにはわたしたちの気分によっても変わってくるにせよ。

> というわけで図書館と古書店で手にする本は、こうした覚悟を決めてかかります。

このお気持ちはわかるように思います。
無料、あるいは安価な料金で本が読めるというだけではない、人がかつて読んだ本を、自分もまた読んでいるのだ、そうして、自分が読んだあとにこの本を読む人がいるのだ、という意識は、いまのわたしたちには必要なものなのかもしれません。

人の手がふれたものを「汚い」とする感覚は、おそらく自分が「関わっても良い」と認めた存在以外とは関わりたくない、という意識なのだと思います。「関わっても良い」という判断は、いつも「自分」ということになると、結局自分の身の回りのごく狭い領域から出ることもなくなってしまう。そんなときに、ほかの人から「関わりたくない」と出されるサインは、ことのほかきついものになってしまうでしょうね。

図書館の本とか、公共スペースの使い方とかを通して、わたしたちはこういうゆるい、薄い、他人との関係の作り方を学んでいるのかもしれません。
以前はこんなことは「当たり前」で、だれも意識しないでふつうにやっていた。それを、結びつきがどんどん希薄になってきているいま、あらためて結び直していこうとしているところなのかもしれないなあ、と思います。

だから、図書館、行きましょう(笑)。

小狸工房さん、いつも書きこみありがとうございます。
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人の手を経るというもの (小狸工房)
2008-06-16 21:18:53
陰陽師様へ

私、男子校出身なもので、こうしたデリカシーには疎いです。
もちろん直接書き込んだりぞんざいな扱いで汚すというのは論外として、先ほど例として挙げましたマッピングやスケッチは、まあ悪意のない悪戯程度に受け取ります。
それは先に読んだ誰かが、その高揚感を次の誰かと分かち合いたいとの結果ですから、それも含めて「図書館の本」であると(笑)

奥付に控えめに一言、
「父の書庫で見かけて以来四十年、やっと読めた」
なんていたずら書きもありました。
この方はこの本を手に出来て、よほど感動されたのだなと。

というわけで図書館と古書店で手にする本は、こうした覚悟を決めてかかります。
もちろん何に関しても、当然の礼儀と節度はあるものですが。

児童図書室のほうにもしょっちゅう顔を出しますが、なんと言っても幼児のこと、こうしたことも学びながらというのも読書のうちであるかと。
その画集も一所懸命拭き取った跡がありましたから、その子は食べかけのサンドイッチをぼとりと落としてはっとして、慌ててティッシュペーパーで拭ったのかも。
この場合拭けば拭くほど汚れは広がりますが(苦笑)
お母さんにはずいぶん怒られたかも知れませんね。

模型作りから遠ざかっていた頃には、ひたすら読書とツーリングに精を出しておりました。
というわけで挟まれていた領収書は愛車の頭金のものでした。額面で数万円ほどのものですね。
手近にあるメモ用紙やレシートをしおり代わりに本に挟む癖があるもので、この手の失敗はしょっちゅうやらかします。

ではまた。
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小切手を忘れてみたい (陰陽師)
2008-06-16 18:35:40
小狸工房さん、またまたレスが遅くなっちゃってごめんなさい。
ちょっとこのところ忙しい日が続いてまして。

図書館、ずいぶん利用されてるんですね。

うーん、子供の本は、お母さんがきちんと教えてあげてほしいなあ、とは思います。
それを「きれい-汚い」ということとはちょっと別の問題、公共性の問題としてね。

公共のものに、自分の痕跡を残す、つまり、汚すことばかりではなく、本に書き込みする、ページの端を折る、線を引く、メモや地図?を残す、あるいは指に唾をつけてページをめくる、ということは、やはり、どのレベルであっても、一種の私物化なんじゃないか、って思うんですよ、わたし。

もちろん読めば読んだ跡は残ります。だけど、図書館の本は読むためにあるんだから、それは仕方がない。だから、手袋をして読め、とは言いませんが、特に子供だったら最低限、手は洗うべきでしょう。そうして、小さい頃の体に刻み込まれた習慣というのは、残っていくものだと思うんです。

お昼ゴハンを食べながら本を読んでいるわたしがそういうことを言うのは何なんですが、たとえダブルスタンダードと言われようが(笑)、子供が何か食べながら本を読んだりしてたら、きっと注意すると思います。マンガはどうなのか、とか、飲み物はどうなのか、とか、いろいろな状況はあるから、なかなか一概には言えないんですが。

領収書どころか、わたしは一度、キャッシュカードを本にはさんだまま返しちゃったことがあります。わたしがはさんでおいたのではなく、内ポケットのない大きな袋に、財布と本を一緒に入れておいたのです。自転車に乗っているうちに、その財布は古い札入れだったんですが、カードを入れておくポケットがゆるくなっていたんでしょう、キャッシュカードだのクレジットカードだの、ついでに診察券だのIDだのが全部出てしまった。図書館について本を返そうとカバンをのぞいたときにそれに気が付いたんですが、先に本を返してしまおうと、バラバラのカード類は乱暴にまとめておいて本を返したんです。
返したあとに、財布に入れ直したんですが、なんだかんだあるもので、ふだん使っていない、休眠状態になっているキャッシュカード一枚は、記憶から抜け落ちていました。

それが、数時間後、図書館から電話がかかってきた。本の中にキャッシュカードがありました、と。
あわてて取りに行きましたよ。300円ほどしか入っていなかったので(笑)、助かった、というより間抜けな自分が恥ずかしかったです。

小狸工房さんの領収書、立派な額面でした?(笑)

楽しい書きこみ、いつもありがとうございます。
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Unknown (小狸工房)
2008-06-13 21:54:34
図書館の本は、まあ、不特定多数の人の手を経たものだという覚悟を決めて手に取らなければ。

児童向けの画集など、ページになにやらべったりと張り付いて、あーこれはゆで卵のサンドイッチだと(苦笑)。
おそらくその子は、サンドイッチを片手にワクワクしながらこの本のページをめくっていたのだなと思うと、その光景を想像して、微笑ましいやら苦笑するやら。

ただ翻訳本など、素人の目にもあからさまな誤訳があったりして(慣用句の取り違えとか)、次に読む人が混乱するだろうなと思えば、おせっかいながらメモ書きなど挟んでおいたりして。

余談になりますが、貸し出し窓口で不意に、これ、しおりに使われていたのでは?と何年も前に紛失したと思っていた領収書を手渡されたりして。
滅多に貸し出されることもないその本を、何年かぶりに借りられた方が、本の間にそれを発見し、窓口に届けてくださったのだと思えばなんとも気恥ずかしい思いも。

その一方で物語系の本だと、どなたが描いたものか、作中に登場する地理風土を綿密なマップに作成されたものが冒頭に挟んであったりして。
これもその作品の愛読者の誰かがまたどこかの誰かにも楽しんでもらおうと仕掛けておいた嬉しい悪戯だと思えば。
返信する
何もかも相対的なものとして (陰陽師)
2008-06-13 08:58:26
ゆふさん、お久しぶりです。
なんか、懐かしいなあ。
読んでくださってる方はそんなふうに感じてはいらっしゃらないのかもしれないのだけれど、こちらにはわからないのだから、ときどきはお声を聞かせてくださいね。
お元気でいらっしゃいましたか。

> 「指を舐めてページをめくるのはあなた一人だけではありません。――いや、だからかまわないってことではなくて…。いいですか、指を舐めてページをめくるということは、自分の唾液を本に付着させている、だけでなく、他人の唾液をも含む様々な汚れを、指ですくって、舐めている、ということでもあるのです。だから、これは、あなた自身のために言います。やめろ。」

これ、このまま印刷して、図書館のあちこちに張っておきたくなりました(笑)。
ほんと、多いんだもの、そういう人。

昔、高校時代の先生で「ロシアン・ルーレット」をやる人がいました、ってわたしたちがそう呼んでただけなんですけどね。

プリントでも、問題用紙でも、指をぺろりとなめてから紙を数えていく。5~6枚目にまたぺろり。
結構な分量の唾液で、最初のプリントは、ふれた箇所がぬれてたりするわけです。乾いても、紙が少し、よれちゃってるくらいです。

これは結構きつくてね、自分にその一枚目が当たったらどうしよう、って、ドキドキしてました。だから「ロシアン・ルーレット」(笑)。もう当たったらそのよれた部分をなるべく見ないよう、ふれないようにするだけでした……。

図書館で本を借りるときは、変なところに線が引いてあったり、あやしげな書きこみがしてあったりする以外は、前借りた人のことをほとんど意識することもありません。
ひとつには(というか、これが最大の理由なんですが)わたしが借りる本というのは、あまりメジャーなものではなくて、大勢の手を経たものではない、というのが大きいんです。
だからたいていすごくきれいな本です。

逆に、料理をしたり、食事をしながら読んだりするときは、自分が汚したりすることがないように、できるだけ気を遣っています。料理のときは、料理中というより、火の番のようなものだし、食事の時はたいてい書見台を使ってますし、ラーメンを食べたりするようなときは、本は読みません。

以前、関川夏央の『司馬遼太郎の「かたち」』を借りたときには、鼻毛(たぶん)がところどころはさまっていて、これはさすがに読まずに返しました。ページを開く気になれませんでしたよ。メジャーな本(笑)は怖い……と思った経験でした。

だけど、一方で、そういうものが気にならなくなるような状況を、頭のどこかで思い浮かべたりもするんです。
たとえば爆撃におびえたりするような状況だったら、きっとそんなこと、気にもならないだろう。逆に、生きた人間の痕跡を発見して、うれしくさえなるかもしれない。
あるいは、仮にこれが自分の大切に思っている人の本だとしたら、その人のそんな仕草を思い浮かべて、きっとそれさえもほほえましく思えるのだろう。

つまり、図書館の本に残されたそうしたものの痕跡を汚いと思う意識も、
・平時の
・相手を知らない
という限定されたものなんだ、って。

どこかでそういうものすら気にならなくなりたい、と思っている自分は、確かにいます。
たぶん、もっといろんなものから自由になれてるはずだろう、って。いまはちょっと無理なんですけどね。

楽しい書きこみありがとうございました。
また遊びにきてくださいね。
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おひさしぶりです (ゆふ)
2008-06-12 22:36:20
私は図書館の本を普通にさわれますけど、それでも、指先を舐めて本のページをめくる人のいることが気になってます(結構目撃します)。あれ、やめてもらえませんかね(ここで訴えてもしかたないんですけど)。
どう言ったらやめてもらえるかと考えるのですが、こういう忠告はどうでしょうか。
「指を舐めてページをめくるのはあなた一人だけではありません。――いや、だからかまわないってことではなくて…。いいですか、指を舐めてページをめくるということは、自分の唾液を本に付着させている、だけでなく、他人の唾液をも含む様々な汚れを、指ですくって、舐めている、ということでもあるのです。だから、これは、あなた自身のために言います。やめろ。」
と。
こういう啓発をしていこうと考えているのですが(ウソ)、図書館の本を読みながら料理をしたり、おにぎりを食べたりする陰陽師さんは賛同してくださいますか。

え? 気にならない?
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