陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

不思議な幼児、幼児の不思議

2008-06-10 22:25:37 | weblog
先日、おもしろい話を聞いた。
知り合いが妊娠したのだが、最初にそのことに気がついたのは当人ではなく、そこの家の二歳になる子だったという。
「ママのお腹のなかに赤ちゃんがいるよ~」というのでびっくりして、あわてて調べたところその通りだったのだそうだ。やがてそのお腹のなかの「赤ちゃん」に、家族でニックネームをつけて毎日話しかけていたらしい。

ところが結局その「赤ちゃん」は育たなくて、三ヶ月になる前に流産してしまった。お母さんの方は、その子に何と話そうか胸を痛めたところ、その子が母親のお腹をなでながら言ったのだそうだ。
「××ちゃんいなくなっちゃったねー。でも、大丈夫。ママのお腹のなかにはあと30人ぐらい××ちゃんがいるから」。
それを聞いたその人は、ぎょっとして、恐ろしくすらなったという。

ただ、みんながみんなそうかどうかはわからないけれど、そういうこともあるかもしれない、という気はする。

双子の子供がいる知り合いもいるのだが、いまはもうすっかり大きくなったその子たちが小学生だったころ、そこの家に行くたびに驚いたものだった。学校から帰ったふたりが
「ママ、今日ね、学校でね、こういうことがあったんだよ」と声をそろえてしゃべるのである。完全なユニゾンで、よく似たふたりの声が、まるで斉唱のようにひとつに重なって、べらべらと話していくのである。
親の方はいつものことで、不思議にも思っていないようだったが、初めてのときはひどくびっくりした。なんでそんな話し方ができるの? と聞いたら、ふたりは顔を見合わせて(それも同時に)、さあ? と言って、お互いの顔を見て笑い合うのだった。

その子たちは片方が病気で学校を休んだようなときでも、「あ、○○がもうじき帰ってくる」とわかるらしかった。親の方は、まだ帰ってくる時間じゃないよ、と言ったところに、学級閉鎖になった、ともうひとりが帰って来たようなこともあったことを聞いた。
「双子っておもしろいよ」と彼女たちの母親はよく教えてくれた。けれども、その子たちの「不思議」も、大きくなるにつれてなくなっていったそうだ。

ふだんあまり気がつかないけれど、わたしたちは言葉にはうまくのらないさまざまな感覚を持っている。だが、その「感じ」は、言葉にはつなぎとめられないために、他人とも共有しにくいし、自分の内でもなかなかつなぎとめておけるものではない。不意に現れては消える、また呼びだそうとしてもむずかしいようなあやふやな「感じ」である。そういう感覚に意識を向けなければ、感じていることすら気がつかないかもしれない。とくに仕事などで忙しかったりすると、そんなものを感じている暇もないのかもしれない。

だが、まだ言葉そのものを十分に使いこなせない子供たちのなかでは、「言葉」と同じくらいその感覚は重きを置かれているのではないか。非言語的な豊かさのなかに、まだ子供たちはいる、と言ってもいいかもしれない。

お腹のなかにいた記憶のある子もいる。
「お母さんのお腹のなかで、くらいど~、て言うてた」という話を聞いたこともあるし、お風呂に入っているときに、ひょいと「まえ○○ちゃん(※自分のこと)が入ってたおふろは暗かったよね~」と言った子の話を聞いたこともある。どうしたか、その頃の記憶がひょいと戻ってくるらしい。
絵本や児童文学の作家である高楼方子は、二歳になったばかりの頃にドブに落ちた経験をこのように語っている。
 ははあ、落ちたのだな、と思ったすぐあとに頭をよぎったのは、あ、死ぬのだな、でもこれでいいのだ、という思いだった。もともと私は、こことそっくりの所にいたのだもの、あの明るい所に私がいたのは間違いで、本当はこういう所にいるはずなのだ、だからこれでいいのだ、と思ったのだ。そして、ところで、「こういう所」とは、はていったいどこだったろう……と懸命に考えているその途中に、ぱっと光が差して私は救出され、謎は、宙ぶらりんのまま、いつまでも心にのこったのだ。

「こういう所」とは、おなかの中にいた時のことに違いない、とずいぶんあとになって気づいた。二年前くらいのことなら、誰しもが、つい最近のこととして記憶している、ということは、二歳の人間が、二年前のことをからだのどこかに記憶していたとしても、それほど意外なことではないのではないか。
 死ぬのだな、と思いながら、かすかな恐怖さえ感じなかったのも、もといた所に戻れるという安心感があったせいだと思う。もしかするとこれは、さまざまな事態で命を落とさざるを得ない、小さな子どもたちへの自然の配慮なのかもしれない。幼ければ幼いほど、胎児時代の記憶は近く、その分だけ、死に至る独りぼっちの暗闇も、恐怖から遠い、安らかな場所になりかわり、子どもを包むのではないだろうか。
(高楼方子『記憶の小瓶』クレヨンハウス)

自分が生まれてきたところと、死んでいくところを一緒と言ってよいのかどうかは、わたしにはなんとも言えないし、まして子供がそのことを「知って」いるとはわたしにはよくわからない。「もといた所に戻れるという安心感」というのは、二歳の子どもがそう考えた、というより、その「感じ」を、のちの「私」が何とか言葉にあてはめようとした、やはり一種の創作であるように思うのだ。それでも、「本当はこういう所にいるはずなのだ」と二歳の子供が思ったのは、確かにそのとおりだろうと思う。

わたしは小さい頃から机の下に入り込んで、本を読むのが好きだった。そんな暗いところで本を読んでいると目が悪くなる、と何度言われても、小さい薄暗い空間に体を丸めて入り込んでいると落ち着くのだった。その「落ち着く」という感じこそ、わたしの身体が覚えている胎児のときの記憶だったにちがいない。

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2 コメント

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生前記憶 (小狸工房)
2008-06-11 02:08:10
陰陽師様へ

三十人って…卵母細胞というものでしょうか。
胎児の脳は発生後半年を迎える頃にはほぼ完成しているとも言いますから、胎内の記憶があってもいいでしょうか。
誕生後、成長するに伴いどんどん上書きされていって今生の人格が形成されるのでしょうね。

しかしその子は母親の受胎を感知したのみならず、それ以前の状況も認識していたのでしょうか。
うーむ不思議だ。

私が以前某所で読んだ記事には、自分が母の胎内にいた頃、両親は自分を中絶するか否かでたびたび口論していた。
自分としてはせっかく誕生することを決めここにいるのに中断されるのは不本意だが、今の自分は無力なのでなるようにしかならぬと覚悟を決めた。
そう母に告げると母は涙を流しながら幼かった自分を抱きしめた。
と、ありました。
こうした不思議系の話も嫌いではないので何かしら頭の隅に引っかかっているのですが。

双子の持つという超感覚も小説などでよく取り上げられていますね。
俗に言うテレパシーというものかしら。

胎内回帰に関しては、実家が窯業を営んでいた僕の友人の祖父は、よく火を落としたあとの窯に潜り込んで酒を飲んだり歌を唄ったりしていたそうです。
程好い狭さと暗さと暖かさがなんとも心地良いのだそうです。
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子供は何かを知っている (陰陽師)
2008-06-13 06:55:04
小狸工房さん、おはようございます。

レス書くの、遅くなっちゃってごめんなさい。

> 胎内の記憶があってもいいでしょうか。

いや、これはもう絶対にあると思います。
小さい頃から大きな音、とくにモーター音と、電車のプシューッていうエアブレーキ?の音を病的に怖がる子がいたんです。結構大きくなっても、やはり苦手のようです。

お母さんは何でそうか、思い当たる節があった。
というのも、お腹のなかにいるとき、もうかなり重くなったころだったのだけれど、信号待ちをしていたときに、交差点を曲がるダンプトラックが、いきなりすごいエアブレーキの音をさせたんです。プシューッ、って。
そしたら、胎児がぎゅっと体を固くしておびえたのがわかった。お母さんはよしよし、となだめたんだそうです。
今度はテーブルの上に置いたコーヒーメーカーのスイッチを入れたこともあった。豆がジャーッと挽かれる音がしたとたん、また胎児がおびえた。テーブルの上、ということは、お腹の皮をへだてて、すぐ横でその子はその音を聞いたんです。
それが、おそらく怖がる原因なんだろう、って、お母さんは思っているそうです。

子供って確かに不思議です。
ほかにもね、空中に向かって「そこにいるなにものか」と話をよくしていた子供の話も聞いたことがあります。

親は、霊か何かではないか、と言って気持ち悪がって、お払いか何かしてもらった方がいいんじゃないか、なんて言っていましたが。

わたしとしてはそれを聞いて、「霊」なんて言葉に回収する必要があるんだろうか、と思ったのでした。

以前
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/diary15.html#dogorcat

で書いたように、大人と子供の言葉はちがいます。言葉がちがう、というか、つまりは世界の切り取り方がちがうんですよね。

「霊」という言葉に当てはめるのは、大人であるわたしたちの感覚なんですよね。
「それ」が見えて話をしている子供の感覚ではない。
もしかしたら天井の染みや壁のひび割れと話しているのかもしれないし、中に浮かぶ「何ものか」が見えてるんだったら見えるのでいいんじゃないか、みたいに思うんです。

この「三十人」が、「クラスの児童は三十人」と同じ意味の三十人かどうかはわからない。わかるのは、ただこの子が「何か」を感じて、その「何か」はわたしたちには感じ取れないということだと思うんです。

子供って言葉の世界の新参者だけれど、同時に言葉の世界で生きる大人になったわたしたちにはもはやうかがい知ることのできない世界を覚えている存在でもある。

わたしたちはもはや「言葉」という眼鏡をかけてしか世界を見ることはできなくなっているんだけれど、その眼鏡のせいで見えなくなっているものはきっとたくさんあるんだろう、って。

こう考えていくと、「大人は賢い-子供は何も知らない」なんてこと、絶対に言えなくなりますよね。

> 程好い狭さと暗さと暖かさがなんとも心地良いのだそうです。

『羊たちの沈黙』のつぎの『ハンニバル』だったかな、ヒロインのクラリス・スターリングは洗濯機が好きなんです。アメリカの洗濯機はお湯で洗うから、洗濯機が暖かいんです。冒頭で心ならずも犯人を射殺したスターリングが、家に帰って、洗濯機にもたれてその振動を感じながらうたたねをするという印象的な場面がありました。

体は覚えているのでしょうね。

書きこみ、ありがとうございました。
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