その4.
つぎの三十分間、ぼくたちは残りの算数の問題を解いた。それを提出すると、今度は書き取り、ぼくの一番きらいな科目になった。書き取りはいつも昼食の前にやる。ぼくたちは読み上げられた言葉をつづり、つぎに時計を見た。
「端から端まで(Thorough)」フェレンチ先生が言った。「境界(Boundary)」先生は広げた書き取りの教科書を手に、ぼくたちの書いている用紙を見下ろしながら、机のあいだの通路を歩いていた。「バルコニー(Balcony)」
ぼくは鉛筆をぎゅっとにぎった。なんだか先生がそういう言葉を口にすると、外国語みたいに、母音も子音もちがうふうに聞こえた。ぼくは自分の書いたつづりをじっと眺めた。“Balconie”。鉛筆を逆にして消しゴムでちがっているところを消した。“Balconey”。多少ましにはなったけれど、まだちがっている。ぼくはつづりの世界を呪い、ふたたび消すと、紙が薄くなりかけてしまった。“Balkony”。急に手がぼくの肩にかかった。
「わたしもその言葉はきらい」フェレンチ先生は、身をかがめて、ぼくの耳に口を近づけてささやいた。「醜いわよね。もしあなたがその言葉がきらいだったら、使う必要なんてないとわたしは思うのよ」先生は体を起こして離れていったが、かすかにクロレッツの匂いが残った。
ランチタイムになったので、ぼくたちは教室を出て、トレーにスロッピー・ジョー(挽肉をトマトソースで味付けしたもの。パンにはさんで食べる)、シロップに浸ったモモ、ココナッツクッキーと牛乳をのせて、教室に戻ってきた。教室ではフェレンチ先生が席にすわって、しっかりと輪ゴムで留めたパラフィン紙を開いて、何か茶色いねばねばしたものを食べようとしているところだった。
「フェレンチ先生」ぼくは手を挙げて言った。「先生はぼくたちと一緒に食べなくていいんです。ほかの先生がたと一緒に食べればいいんです。先生専用のラウンジがあります」最後に付け加えた。「校長室の隣です」
「ありがとう。だけどいいの」先生は言った。「ここにいるほうがいいわ」
「だけど、クラスのお世話をしてくれるボランティアの人がいるから」ぼくは説明した。「エディさんです」ぼくはジョイスとジュディのお母さんで、教室の後ろに坐って編み物をしているミセス・エディを示した。
「それでかまわないのよ」フェレンチ先生は言った。「わたしはここで食べることにします。あなたがたと一緒にね。ここのほうがいいのよ」もう一度そう言った。
「どうしてですか」ウェイン・ラズマーが手も挙げずに聞いた。
「今朝、授業が始まる前にほかの先生がたとお話したのよ」そう言うと、フェレンチ先生は茶色い何かに噛みついた。「つまらないことをああだこうだ、やかましいったらないの。あの手のさわぎは好きじゃない。コピー機みたいなジョークにはうんざりよ」
「へえ」ウェインは言った。
「何を食べてるんですか?」マキシーン・シルヴェスターが鼻をくんくんさせながら聞いた。「それ、食べ物なの?」
「もちろん食べ物に決まってるじゃない。イチジクの詰め物よ。これを買うために、わざわざデトロイトまで行かなきゃならなかったんだから。それからチョウザメの薫製もあるわよ。あとそれから」そう言ってランチボックスから緑色をした葉っぱを取り出した。「生のほうれん草。今朝、採ってきたの」
「なんで生のほうれん草なんか食べるの?」マキシーンが聞いた。
「健康にいいからよ」フェレンチ先生は言った。「ソーダ水や芳香塩なんかよりずっと気持ちがしゃきっとするの」ぼくはスロッピー・ジョーを食べながら、窓の外をぼんやり眺めていた。透き通ったような月が、昼間の秋空を背に薄く銀色に光っている。「食事というものは」フェレンチ先生は話していた。「さまざまな食品を混ぜ合わせて食べるべきなのよ。まぜこぜにするの。ほとんどの人がたべているのは……まあいいわ、気にしないで」
「フェレンチ先生」キャロル・ピータースンが言った。「午後は何を勉強するんですか」
「そうね」先生はヒブラー先生が作った授業計画に目を落とした。「あなたたちのヒブラー先生は、エジプト人についての項目を予定していたみたいね」
キャロルはうめくような声を出した。「えぇぇ」
フェレンチ先生は言葉を続けた。「それをわたしたちはやりましょう。エジプト人について。立派な人びとよ。アメリカ人とほとんど同じくらい。まったく同じとまではいきませんけどね」先生はうつむくと、一瞬だけ笑顔になって、またほうれん草を食べ始めた。
(この項つづく)
つぎの三十分間、ぼくたちは残りの算数の問題を解いた。それを提出すると、今度は書き取り、ぼくの一番きらいな科目になった。書き取りはいつも昼食の前にやる。ぼくたちは読み上げられた言葉をつづり、つぎに時計を見た。
「端から端まで(Thorough)」フェレンチ先生が言った。「境界(Boundary)」先生は広げた書き取りの教科書を手に、ぼくたちの書いている用紙を見下ろしながら、机のあいだの通路を歩いていた。「バルコニー(Balcony)」
ぼくは鉛筆をぎゅっとにぎった。なんだか先生がそういう言葉を口にすると、外国語みたいに、母音も子音もちがうふうに聞こえた。ぼくは自分の書いたつづりをじっと眺めた。“Balconie”。鉛筆を逆にして消しゴムでちがっているところを消した。“Balconey”。多少ましにはなったけれど、まだちがっている。ぼくはつづりの世界を呪い、ふたたび消すと、紙が薄くなりかけてしまった。“Balkony”。急に手がぼくの肩にかかった。
「わたしもその言葉はきらい」フェレンチ先生は、身をかがめて、ぼくの耳に口を近づけてささやいた。「醜いわよね。もしあなたがその言葉がきらいだったら、使う必要なんてないとわたしは思うのよ」先生は体を起こして離れていったが、かすかにクロレッツの匂いが残った。
ランチタイムになったので、ぼくたちは教室を出て、トレーにスロッピー・ジョー(挽肉をトマトソースで味付けしたもの。パンにはさんで食べる)、シロップに浸ったモモ、ココナッツクッキーと牛乳をのせて、教室に戻ってきた。教室ではフェレンチ先生が席にすわって、しっかりと輪ゴムで留めたパラフィン紙を開いて、何か茶色いねばねばしたものを食べようとしているところだった。
「フェレンチ先生」ぼくは手を挙げて言った。「先生はぼくたちと一緒に食べなくていいんです。ほかの先生がたと一緒に食べればいいんです。先生専用のラウンジがあります」最後に付け加えた。「校長室の隣です」
「ありがとう。だけどいいの」先生は言った。「ここにいるほうがいいわ」
「だけど、クラスのお世話をしてくれるボランティアの人がいるから」ぼくは説明した。「エディさんです」ぼくはジョイスとジュディのお母さんで、教室の後ろに坐って編み物をしているミセス・エディを示した。
「それでかまわないのよ」フェレンチ先生は言った。「わたしはここで食べることにします。あなたがたと一緒にね。ここのほうがいいのよ」もう一度そう言った。
「どうしてですか」ウェイン・ラズマーが手も挙げずに聞いた。
「今朝、授業が始まる前にほかの先生がたとお話したのよ」そう言うと、フェレンチ先生は茶色い何かに噛みついた。「つまらないことをああだこうだ、やかましいったらないの。あの手のさわぎは好きじゃない。コピー機みたいなジョークにはうんざりよ」
「へえ」ウェインは言った。
「何を食べてるんですか?」マキシーン・シルヴェスターが鼻をくんくんさせながら聞いた。「それ、食べ物なの?」
「もちろん食べ物に決まってるじゃない。イチジクの詰め物よ。これを買うために、わざわざデトロイトまで行かなきゃならなかったんだから。それからチョウザメの薫製もあるわよ。あとそれから」そう言ってランチボックスから緑色をした葉っぱを取り出した。「生のほうれん草。今朝、採ってきたの」
「なんで生のほうれん草なんか食べるの?」マキシーンが聞いた。
「健康にいいからよ」フェレンチ先生は言った。「ソーダ水や芳香塩なんかよりずっと気持ちがしゃきっとするの」ぼくはスロッピー・ジョーを食べながら、窓の外をぼんやり眺めていた。透き通ったような月が、昼間の秋空を背に薄く銀色に光っている。「食事というものは」フェレンチ先生は話していた。「さまざまな食品を混ぜ合わせて食べるべきなのよ。まぜこぜにするの。ほとんどの人がたべているのは……まあいいわ、気にしないで」
「フェレンチ先生」キャロル・ピータースンが言った。「午後は何を勉強するんですか」
「そうね」先生はヒブラー先生が作った授業計画に目を落とした。「あなたたちのヒブラー先生は、エジプト人についての項目を予定していたみたいね」
キャロルはうめくような声を出した。「えぇぇ」
フェレンチ先生は言葉を続けた。「それをわたしたちはやりましょう。エジプト人について。立派な人びとよ。アメリカ人とほとんど同じくらい。まったく同じとまではいきませんけどね」先生はうつむくと、一瞬だけ笑顔になって、またほうれん草を食べ始めた。
(この項つづく)
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