陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー「局面」 その5.

2012-12-08 00:08:40 | 翻訳
その5.



 ロイドは自分の子供たちは家で教育を受けるべきだと考えていた。何も宗教的な理由、先祖が恐竜だ、原始人だ、猿だ、といった話に反対だったから、というわけではなく、子供たちを世間の荒波のただなかに放りこむより、両親の下で、少しずつ慎重に世間のことを教えてやった方が良い、という考えだったのだ。

「よく、あの子たちはうちの子じゃないか、って思うんだ」とロイドは言った。「つまり、教育省なんかのものじゃない、俺たちの子供なんだ、って」

 自分がうまく対処できるかどうか、ドーリーには自信がなかったのだが、教育省には指導要項があって、地元の学校を通じて授業計画書を取り寄せることがわかった。サーシャは頭の良い男の子で、ひとりで字が読めるようになったも同然だったし、ほかのふたりはまだ小さくて、何か教える必要もほとんどなかった。週末の夜になると、ロイドはサーシャに地理や太陽系のことや、動物の冬眠のこと、車が走る仕組みなどを教え、教科の方はどれも、何かわからないことがあればそれに答えなるというやり方をとった。ほどなく、サーシャは学校の授業計画の先をいくようになったのだが、ドーリーはとりあえず計画書を持ち帰り、サーシャに予定表に沿って課題をやらせたので、法令に抵触することはしないですんだ。

 その地域には、自分の子供を自宅で学ばせている母親がもうひとりいた。マギーという名でミニバンを持っていた。ロイドは仕事に行くのに車が必要だったし、ドーリーは運転を習っていなかったので、週に一度、学校に行って、やり終えた課題を提出し、新しい課題をもらってくるときに、マギーが、一緒に乗っていきなさいよ、と申し出てくれたのはうれしかった。当然のことながら、子供たちはみんな一緒に連れて行く。マギーには男の子がふたりいた。上の子は多くのアレルギーを抱えていて、口に入れるものすべてに母親が徹底的に注意しておかなければならない――そのせいで、マギーは息子を家で教えていたのだった。ならば下の子も同じように在宅でやらせてもいいだろう、と考えたようだった。下の子も、お兄ちゃんといっしょを望んだし、事実、喘息持ちでもあったのだ。

 それにひきかえ、ドーリーは自分の三人の子供たちがみんな健康であることに、ひどくほっとするのだった。ロイドは、おまえはまだ若いうちに子供を産んだけど、マギーは閉経間近まで子供を先送りにしていたからだ、と言った。ロイドはことのほかマギーが高齢であることを強調したけれど、彼女が先送りしてきたのはほんとうだった。マギーは検眼士だ。ずっと夫と共同で働いてきて、彼女が業務を離れるようになるまで、そうして田舎に家を持てるようになるまで、子供を作ろうとはしなかったのである。

 ごま塩のマギーの髪は、たいそう短く刈り込まれていた。背が高く、平板な胸をしていて、陽気で、自分の意見をはっきり主張する人だった。ロイドは彼女のことを、レズ、と呼んでいた。もちろん、蔭で、だが。電話口でマギーに冗談を言いながら、ドーリーに向かって口の形だけで「レズからだよ」と言った。けれども、ドーリーはそのことをさほど気をもんだりはしなかった。というのもロイドが、レズ、と呼ぶ女性は大勢いたからである。気になったのは、冗談口をたたくなんて、マギーにはなれなれしすぎると思われてるんじゃないかしら、とは思った。そうでなければ、邪魔をしてくるとか、少なくとも時間のムダ、ぐらいには。

「うちの薹の立ったお嬢ちゃんと話したいんだろ。すぐに呼んできてやるよ。いま、俺の仕事ズボンを洗濯板でゴシゴシ洗っているところだ。ほら、俺はズボンを一本しか持ってないから。とにかく、あいつは忙しくさせといた方がいいんだよ」


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 ドーリーとマギーは、学校で教材を受け取ったあとは、一緒に食料品の買い出しに行くのがきまりになっていった。そのあと、ときどきティムホートンズ(※カナダのファーストフードチェーン)でテイクアウトのコーヒーを買い、子供たちを連れてリバーサイド・パークに連れて行くこともあった。ふたりがベンチに腰かけているあいだ、サーシャやマギーの子供たちが追いかけっこをしたり、ジャングルジムからぶらさがったりして遊び、バーバラ・アンはブランコにのり、ディミトリは砂場で遊んだ。寒いときには母親たちはミニバンの中に移った。話題はもっぱら子供の話や料理のことだったが、それでもなんとなく、ドーリーにはマギーが検眼師として訓練を受ける前に、ヨーロッパのあちこちを旅したことがわかったし、マギーにはドーリーがかなり若いうちに結婚したことがわかった。それに、ドーリーが最初はものすごく簡単に妊娠したのに、いまではもうなかなか妊娠しなくなっていて、ロイドがそのことですっかり疑い深くなってしまって、避妊用のピルを隠していないかどうか、ドレッサーの引き出しを探っている、密かに飲んでるにちがいない、と思って、ということも。

「で、飲んでるの?」とマギーが聞いた。

 ドーリーはショックを受けた。まさか、そんなこと。

「彼に言わないままそんなことするなんて、絶対ムリ。彼がピルを探してるのも、ジョークみたいなものだから」

「あらまあ」とマギーは言った。

 一度、こんなことをマギーが言ったこともある。「あなた、いろんなこと大丈夫? 結婚生活ってことだけど。あなた、幸せなの?」


(この項つづく)





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