陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話したっけ ―クリスマスの思い出

2005-12-01 22:24:19 | weblog
暗くなりかけたなかを歌を歌いながら自転車で帰っていると、ふいに“ぎくっ”とした。自分が何に“ぎくっ”としたかわからず、それでも自転車を止めてあたりを見回した。

自分が通り過ぎたばかりの家のベランダに、よじのぼろうとしている人影がある。それを目の隅で捉えて、アヤシイ人影! とばかり、“どきっ”としたにちがいない。とはいっても、ディズニーランドの「カリブの海賊」の人形が、実際の人間より小さいのと同じく(余談だが、もとはもっと大きかったらしいのだ。それが、人間に近いサイズだと、暗い中ではものすごく怖くなってしまうんだとか。それでいまのサイズになった、というのを、その昔、何かで読んだ記憶がある)、人影というにはずいぶん小さいのだけれど、薄暗いなか、ベランダにしがみついている人型の物体は、確かに気味が悪い。そのベランダの手すりに手をかけて、不法侵入しようとしている人物は、例の、赤い服を着た年寄り。いや、還暦のちゃんちゃんこを着たおじいさんではなく(ああ、このジョークが書いてあるブログは最低でも2400はあるにちがいない)、白いひげの、ホッホッホー、と言って笑う、あのじいさんだ。

よく見ると、コードがあちこちとぐろを巻いていて、豆電球もいっぱい点いている。電源を入れればさぞかしきらびやかなクリスマスのイルミネーションなのだろう。
まぁ電気代がかかろうがどうだろうが、わたしの知ったこっちゃないんだが。

***

わたしは幼稚園の年中から小学校の四年まで、カトリックの学校に行っていたのだが、そこではクリスマスは大きなイヴェントで、楽しかった。クリスマス会のメイン・イヴェントはキリストの生誕劇。わたしも二年生のとき、東方の三賢者のひとりとして、「あ、星が。イエズス様がいまお生まれになりました」というセリフを言ったことを、いまでも覚えている(なんでこういう役に立たないことばかり覚えているんだろう。わたしの記憶容量は、こうしたジャンクに食い尽くされているにちがいない)。
クリスマス会の最後は、キャンドル・サービス。
暗い中、ひとつひとつ灯されていくロウソクの炎は、火がこれほどまでに美しいものなのか、と思うほどだった。

わたしは五年になったとき引っ越して、転校することになるのだが、何が残念といって、クリスマス会にもう出られないことが残念だった。

転校先の学校は、公立で、そんなものがあろうはずもなく、そのかわり、地区の子供会主催のクリスマス会が、近所の神社(笑)の別棟にある集会所で開かれていた。そのクリスマス会というのは、当たり前ではあるが、宗教色のいっさいないもので、みんなでケーキを食べて、ジュースを飲んで、あとはお腹に枕をいれて赤いサンタクロースの服を着た新聞屋のおじさんが、スーパーに山積みされているお菓子を詰めた長靴と、プレゼント(袋詰めにされたノートとシャープペンシルと××新聞と書いてあるタオル)を配ってくれるのだった。それまでの豪華なクリスマス会との落差が激しすぎて、翌年は行かなかったような気がする。

わたしの家でもクリスマスが近くなると、ツリーを飾った。それほど大きくない、60センチぐらいの、もちろん本物の木なんかではない、プラスティックのツリーである。姉が小さいときに買ったもので、年々飾りは散逸してしまい、弟が小学生になったぐらいには、ずいぶん飾りが少なくなった。それを補うわけでもなかったのだが、家では「サンタさんにお願い」を短冊に書いて、そのもみの木もどきに結びつけていたのだ。わたしは何の疑問もなくそれをやっていたのだが、後年、だれに聞いても「それは変だよ」と言われることになる。だが、家のツリーには毎年「テレビをください」「二重飛びが二十回以上できますように」などと書かれた星形や長靴型の短冊が、いっぱいぶらさがっていた。

ところでこの話はあちこちで書いてきたので、すでにご存じの方も多いかと思うのだが、一応この話も書いておこう。

みなさんはサンタクロース、何歳まで信じていらっしゃいましたか?

わたしは小学校の二年まで、というか、正確にいうと、三年の十一月まで信じていた。
学校でクラスメートが「サンタクロースって、あれは親だよ」と言っていたのを聞いて、わたしは一気に何もかも合点がいった。

毎年わたしはサンタさんにテレビをお願いしていた。というのも、家にはテレビというものがなかったから。友だちの家に行くと、テレビがあるのがうらやましくて、テレビがついていてもそちらを見向きもしないで、まったくちがうことをして遊んでいる友だちが信じられなかった。おそらく街頭テレビに見入っていたころの人と同じような顔をして、テレビに見入っていたにちがいない。

ところがサンタさんがくれるのは、毎年レゴなのだった。
別にレゴをもらってうれしくなかったわけではない。なんであれ、プレゼントはうれしかったし、世界にはたくさん子供もいることだし、割り当てみたいなものがあるのだろう、というふうに、わたしなりに理解し、納得していたのだった。

だが、親であるとすると、レゴなんて、実にわたしの親が考えそうなプレゼントである。人生、すでに何十回目かに、「やられた」と思った。
家に飛んで帰って、姉に
「サンタクロースって親だった、って知ってた?」
「アンタもやっとわかったんだ。いったいアンタ、いつまでそんなこと信じてるんだろう、って思ってたよ」
つぎに、弟に聞いてみた。
その年、小学校に入ったばかりの弟であったが、年に似合わず、いつだって大変クールなわが弟は、そのときも顔色ひとつ変えず、こう言ってのけたのだった。
「あたりまえじゃん。世界中に子供がどれだけいると思ってるの? 全部にプレゼント配ってたら、どれだけ時間があっても、一年中プレゼント配ってなきゃならないよ」

だが、三人で並んで短冊を書いていたのは、あれは何だったのか。
「書いてたら、ああ、こういうものをほしがってるんだ、ってわかるでしょ?」
「どうせ買ってくれないのはわかってるけどね」

わたしは未だに、大変信じやすい人間である。

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4 コメント

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Unidentified Mysterious Person (helleborus)
2005-12-03 14:59:00
> みなさんはサンタクロース、何歳まで信じていらっしゃいましたか?



幼稚園のときには信じていませんでしたね。それ以前でも、クリスマスの晩にプレゼントを届けてくれるのは親だと知っていました。サンタクロースというものを知ったかなり初期のあたりから、真のサンタクロースなるものがかつて本当にいたとしても、少なくとも自分の身の回りに訪れるようなサンタは決して本物ではなく、それになりすまそうとする誰かだと理解していました。説明しにくいけど、サンタは人物ではなく役柄という感じでしょうか。

(なぜこんな夢のない捉え方なんだろ? 最初に接したものが学研の図鑑でそこに想像上のものと書かれてあったからか? 子供の質問に嘘をつけない親だったのか?)



Oh! レゴ、私もよく遊びました。今でもレゴは売られているけど、見ると人形や特殊な形をしたパーツが大半を占めていて、ドールハウスみたいなおもちゃになっていました。組立図に従って作るのは最初の数回だけで、後は過去のレゴと混ぜ合わせて、行き当りばったりの設計と問題だらけの強度計算(笑)で作るのが楽しいのに……。個々のパーツの組み合わせ方が限定的になるほど玩具としては詰まらないものになってしまうと思うんだけど、そうなっていました。発売元が、売り場での見栄え度UPに負けてしまったのでしょうね。

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レゴあれこれ (陰陽師)
2005-12-04 08:28:58
helleborusさんおはようございます。



> サンタは人物ではなく役柄という感じでしょうか。



なるほど、鋭い読みですね。

おそらくパーソナリティとキャラクターのちがい、みたいなものに、早くから気づいてらっしゃったのかもしれませんね。



子供のなかには、その気づきが早い子が確かにいるんです。

えー、××レンジャー? あれ、人が入ってるんだよ、みたいにすぐ思っちゃう子と、ほんとうにあんな人がいるんだ、と疑いを持たない子。

わたしは明らかに後者の方だわ。

いや、TVのない悲惨な幼少期を過ごしたもので、リアルタイムで特撮モノを見た、なんてことはないのですが。



そのうち、そんな子は学校に行って先生を見ても、先生というのはお仕事でああいうことをやっているのであって、家に帰ったら別の人になるんだ、みたいな、醒めた目で見るようになる(そんなこと、ありませんでした?)。



やがて、みんなのなかにいるときの「自分」、役割としての「自分」と、そうでない部分の「自分」のギャップを、どういうふうに考えたらいいんだろう、と思うようになる。



もちろん、早いか遅いかの差はあるにせよ、あるいは、その感じ方の強さに差はあるにせよ、いずれはみんな、成長するにつれてそんなことを考えるようにはなるんですが、やっぱり早くから気がついた子って、内省的になっていくのかもしれません。ん? 内省的な要素が強いから、早いうちに気がつくのかな。



このサンタクロース問題、続き、そのうち書きますね(笑)。



そして、レゴ。

レゴ、ずいぶんさま変わりしちゃったんです。いまはハリーポッターやスターウォーズシリーズなんかのキャラクターものも多くて、一種のプラモデルみたいになっています。



レゴは、ダイヤブロック(笑)に較べてはめこみが浅くて、結構組み立てるのがむずかしいんですよね。小さい頃から不器用だったわたしは、力の入れ方を間違えて、すぐ、崩してしまったものでした。

どういうわけか、わたしは倉庫を造るのが好きでした。

なんで倉庫なんだろう、と思うんだけど、窓はないの? と聞かれて、倉庫だからいらない、と答えていたのがいまでも記憶に残っています。



だけど、明るくて華やかなレゴの売り場は、いまでも惹かれるものがあります。中国のお城みたいなのがあって、あれほしいなぁ、ってちょっとだけ、思っています。竜とかもついてるの。ハリー・ポッターシリーズにはそんなに惹かれないけど。



書き込みありがとうございました。
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お久しぶりです (ゆふ)
2005-12-04 14:59:29
あー、この話懐かしい。去年の今頃、私のところへ書いてくれたことがありましたね。お得意のモチネタなんでしょうか(笑)。



それで、私のブログなんですけど、お話の途中変なタイミングで閉めてしまい、すみませんでした。そして、三四郎についての話は、ゆっくり腰を落ち着けてできるようになるまで凍結させてください。本当に、本当に、ごめんなさい。



ここのところ、長いものや難しそうな(?)ものを読む気力がなくて、ここのものできちんと読んでないものがたまってきてしまいました(すみません、いつか読みます)。だけど、今日の一言や身辺雑記風のものが楽しくてちょくちょく覗いてました。いつだったか、身辺雑記を書くのを堕落だみたいにおっしゃってましたが、こういう軟弱な読者のためにも、硬軟とりまぜてお願いします(笑)。



遅くなりましたが、ブログとサイトの一周年おめでとうございます。あまりいい読者ではないんだけれどもう一つ要望を言ってもいいですか。

絵を描いていた話が最近よく出るのですが、(物欲番長様とよくご相談の上)スキャナーを買って、自作の絵をアップしてください。お願いします。

ところで、陰陽師さんが「絵を描く人」であろうことは、早くから想像してました。なんでかわかります? 「金魚的日常」で、貼り紙に金魚の絵を描いたってあったでしょう。それだけならフツーなんだけど、水彩色鉛筆で描いたってあったでしょう。画材がシロートじゃないなって思ったんです(笑)。



では、こんどいつお邪魔できるかわかりませんが、お元気で。



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スキャナーは好きやなぁ(わー石を投げないで~) (陰陽師)
2005-12-05 10:26:32
この夏、必死で働いたんで、休み明けに買いました。

絶版で、地元の図書館にもなくて、それでも手元に置いておきたい本を国会図書館から取り寄せてもらったとき、やっぱり買おうと思って。

HDDを交換して、容量がでかくなったのをいいことに、いろんな本をpdf.にして、せっせと取り込んでます。



絵はもうずっと描いてないです。

文章のほうに、何かうまそうな雰囲気で書いてたらごめんなさい、全然そんなもんじゃないです。

基本的に、「能書きたれ」なんで、絵もピアノも、全然自分がやるほうはたいしたことないです(文章書きもそうだったりして……)。



ただ、たまにね、描きたくなることはあります。

キャンバスを用意して、下処理して、……みたいなことはもう絶対にできないから、やるとしたらせいぜい色鉛筆か、それこそ水彩色鉛筆ぐらい、ってことになるんでしょうか。そう思って、最低限の水彩用の道具と色鉛筆は手元にあるんですけどね。



ご希望はうかがいましたので、また何かの折りがあれば。



ゆふさんには、いつもお世話になっておりますので、ご要望にはできるだけ添いたいと思っております。だけど、ほんと、たいしたことない(大汗)。



> 長いものや難しそうな(?)もの



はおもに自分のために書いてるのだと思います。

頭のなかにあるときは、たいそうなもののような気がしていても、それを自分がことばに落とすことができるか、そこまで考えが煮詰まっているか、本を読んだ理解が、そこまで行っているか、それをひとつひとつ確認するために、石をつみあげていくように、書いている。

だから、わかりにくくて当然だし(単純なことを単純に書くのではなくて、複雑なことをわかりやすく書く、というのは、ひとつの完成の形態でもあるわけだから)、それをこんなふうに発表すること、ほかのかたに読んでいただくことに価値があるのか、自分でも悩むところです。

それでも、書きたい、と思ってるだけじゃ、絶対に書けない。

「チラシの裏」に書いてたら、進歩なんてものはありえない。

わたしには、読んでいただく人が必要だし、批判にさらされるものとして、書いていきたいとも思ってるんです。



だから、おつきあいくださってるかたには、いつも感謝してます。



どんなものであれ、「感想」を言うことは簡単じゃないのです。

これが「完成品」なら、まだしも、未完成で輪郭もはっきりしていないものについて、感想なんて言えるものではないと思います。

そういうことはわかっているので、いただけたらうれしいけれど、あまりもらえるとは思ってないところもあるんですね。



このあいだ、リンク切れのURLをチェックするために、アーバスの文章読んだけど、なんというか、まだまだ振り回されてる感じで、そのころに較べたら、いま書いているものは、質的にはともかく、こんなふうに対象に振り回されてる感じでもない。

やっぱり、書くことによって、自分は少しずつ成長してきたのだし、逆に言うと、成長しようと思ったら、書くこと、書き続けることでしかないのだな、と思います。



あー、また偉そうなことを書いてしまった。

ここだけ見たら、どんなものを書いてるんだ、って感じですよね(汗)。



いつも読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。

ゆふさんも、お元気で。

お仕事とか、お忙しいかと思いますが、どうかあまりご無理をなさらぬよう。

また遊びに来てくださいね。
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