陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

好きなもの、好きな人

2008-07-06 23:07:14 | weblog
先日、少し年長の友人から、ジュリーのコンサートに行った、という、うれしくてたまらないようなメールが来ていた。パソコンで受けたメールには「」だの「」だのという不思議な文字がたくさん入っていたが、おそらくハートマークなどの携帯の絵文字なのだろう。ふだんそんなメールを寄越すような人ではないから、よほど気持ちが弾んでいたのにちがいない。

好きなことがあったり、好きな人がいたりすると、それだけで毎日の楽しみがずいぶんちがってくるものだ。趣味を聞くとき、英語ではホビーを使うことより、「あなたは暇な時間に何をしますか」と聞くことの方が多いが、「暇な時間」に楽しむことができるものを持っている人は、持っていない人にくらべて、二倍、いやそれ以上に楽しむことができるだろう。

最初にその人からジュリーが好き、と聞かされたときは少し驚いた。ジュリー、と聞いて、とっさに思い出したのは、「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースの方、沢田研二と言われてもわたしにはぴんとこない。半ばむりやり「時の過ぎゆくままに」を聞かされて、バックのストリングスがなんだかいやに気持ちが悪かったが、不思議な半音高いサビはおもしろかったし、声の出し方も独特で、それはそれで悪くなかった。ほかにも何曲か聞いたような気がするが、それ以外はまったく覚えていない。

タイガース(野球のチームにあらず)のころから好きだったのだそうだから、最初は小学生だったのだろう。それから何十年も曲を聴き続け、コンサートに足を運び、「話す声は年取ったけど、歌うと昔のまま」と、その人はジュリーと一緒に歳を重ねていったのだ。

これといった趣味がないから何か探さなくては、といって、いろいろ手を出したところで、ただちに好きなものが見つかるわけではない。それと巡り会ったのはたまたまであっても、そこから長い時間をかけて好きであり続けるためには、絆を深める何ものかがかならず必要だ。そんな絆ができていく対象は、決してなんでもいいわけではないのだろう。

徒然草のなかの、いったいどの段だったか、よく覚えてないのだが、確か、芋の好きなお坊さんの話が出てきたような気がする。そのお坊さんはとにかく芋が好きで好きで、お寺も芋に代えて食べ尽くしてしまう、といったおかしな話だったのだが、おそらくそのお坊さんの一生は、それはそれでとても幸せなものだったのではないだろうか(仏教的に見てどうなのかは知らないが)。

芋というと、滑稽だし、芋が好きといっても立派な人だと誰が思ってくれるわけでもない。それでも無心に芋を食べ、それだけで幸せになれたお坊さんと芋のあいだには、きっと特別な絆があったはずだ。そうして、芋を食べて幸せそうにしているお坊さんの近くにいる人も、それを見て、どこかおもしろがりながらも幸せな気分になったにちがいない。だから兼好法師も書き留めたのではあるまいか。

好きなことをしている人はみんなほんとうに楽しそうだ。おそらくそれにはその人の生きてきた歴史がそこに刻まれているからだ。それがジュリーであろうと、芋であろうと。
そうして、心から楽しそうな人を見ていると、その幸せな気分は伝播する。どんなときにも楽しめ、心を慰める喜びを持っている人は、きっと周りを幸せにできる人なのだろうと思う。

(※更新情報書きました)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿