陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー「局面」 その3.

2012-11-30 23:27:05 | 翻訳

その3.


「ちっともおかしくはありませんよ」ミセス・サンズは言った。

ドーリーは「そうですか?」と聞いた。

 いつもドーリーは机の正面の背もたれのまっすぐな椅子にすわる。クッションが置いてある花模様のソファは使わない。ミセス・サンズは自分の椅子を机の横に置きなおすので、ふたりは間に何もはさまずに話をすることになる。

「あなたはきっとそうするんじゃないか、って思ってたから」と彼女は言った。「わたしがあなたの立場でも、そうしてたかもしれないわ」

 面談を初めてまもない頃なら、ミセス・サンズもそんな言葉を使わなかっただろう。一年前であっても、もっと慎重な態度を取っていたはずだ。当時のドーリーは、誰かが――それがいかなる人物であっても――「自分があなたなら」と言おうものなら、激しい不快感をあらわにしていた。だが、いまは、ミセス・サンズにもドーリーが言葉を文字通りに、おとなしいとさえ呼べるような態度で受け止め、理解しようとしていることをわかっていた。

 ミセス・サンズはある種の人びととはちがっていた。きびきびした物腰の人ではなかったし、痩せてもおらず、美人でもなかった。かといって高齢でもなかった。ドーリーの母が生きていたら、きっと同じぐらいだっただろう。もっとも、ヒッピーを思わせるようなところは少しもなかったが。白髪交じりの髪の毛を短く切り、頬骨にほくろがあった。ヒールのない靴をはいて、ゆったりしたズボンをはき、花柄のブラウスを着ていた。たとえそのブラウスが、赤紫や目の覚めるような青であっても、自分の着る物に気を遣うようなタイプには見えなかった――むしろ、誰かにもっときれいになさいよ、と言われて、素直に買い物に行き、これなら良かろうと思って身につけているように見えた。大柄で、優しくて、個人的な感情を交えない落ち着いたところが、服のもつ攻撃的なまでの陽気さや無礼さを抜いてしまうのだった。

「あの……最初の二回は会えませんでした」ドーリーは言った。「出てこなかったんです」

「でも、今回は会えたのね? 出てきたのね?」

「ええ。会いました。でも、なかなかわからなかったんです」

「老けていたのね?」

「そうかもしれません。あと、太ったのかも。それに服も。お仕着せだったから。あんな服を着ているところ、見たことなくて」

「昔はきちんとしてなかったの?」

「ただ、ちがってたんです」

「別人みたいに見えた?」

「そうじゃなくて」ドーリーは上唇を噛んで、どこがちがっていたのか考えようとした。すごく静かだった。あんなに静かなところを見たことがなかった。自分がドーリーの向かい側に腰を下ろすということも、わかっていないようだった。だから最初に言ったのは、「座らないの?」だった。そしたら、「いいんだろうか」って。

「なんだか、空っぽみたいでした」とドーリーは言った。「薬を飲まされてるのかしら、って」

「精神状態を安定させるようなものを飲んでいるのかもしれないわね。わたしにもよくわからないけれど。話はしたの?」

 あれで話をしたと言えるのだろうか。ばかみたいな、ありきたりのことを聞いた。気分はどう?(いい)ちゃんと食べてる?(まあな)希望すれば散歩できるようなスペースはあるの?(ある。監視はいるが。スペースといっていいんだろうな。散歩と呼んでもまちがいじゃなかろう)

彼女が「新鮮な空気を吸わなくちゃ」と言った。

「ほんとにそうだな」と彼は答えた。

 あやうく、友だちはできたの、と聞きそうになった。子供に学校のことを聞くように。子供が学校に通っていたら、子供にはそのことを聞くだろう。

「そうね、そのとおりね」ミセス・サンズは言うと、用意してあったクリネックスの箱を、そっと押しやった。ドーリーには必要なかった。目は乾いていた。問題は胃の奥だった。吐きそうだった。

 ミセス・サンズはじっと待った。いまは何もしない方が良いことを知っていた。

 そうして、ドーリーが言いかけた言葉が何であったか見抜いたかのように、ロイドは、ここには精神科医がいて、自分のところにしょっちゅう話しに来る、と言ったのだ。
「やつに言ってやったよ。時間のムダだってね」とロイドは言った。「連中がやることぐらい、こっちはなんだって知ってる」

 その言葉のあいだだけ、彼はドーリーの知っている彼らしかった。

 面会中ずっと、彼女の心臓は激しく打っていた。気を失うか、死ぬかするんじゃないか、と思っていた。彼を見つめようとすれば、けんめいの努力をしなければならなかった。痩せて、白髪交じりの男。内気なくせに冷たい、機械仕掛けで動いているみたいなのに、脈絡のない動き方をする男を、視野の内に留めておくことは

 このことはミセス・サンズには話さなかった。ミセス・サンズなら――状況を察知して――、こう聞くかもしれない。あなたは誰を怖がっているの、と。自分自身を、それとも彼を? けれども、ドーリーは怖がってはいなかった。


(この項つづく)



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