陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト、半分、更新しました

2007-10-19 23:01:55 | weblog
先日ここで連載していたアーウィン・ショーの短篇「夏服の娘たち」サイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

まだ更新情報書いてません。なんかあとがきもちょっと変です(笑)。
明日の朝書きます。
だから、また明日、のぞいてみてください。

短い話だったんですが、妙に苦労しちゃいました。
何かえらく疲れました。
ということで、それじゃまた。

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2 コメント

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男と女のあいだには~ (Unknown)
2007-10-20 15:53:08
翻訳のあとがきが、これまた、おもしろいんだなぁと思います。
他人様のブログの書評、とくに自分も読んだことのある作品や著作だと、ほおぉなるほどぉ鋭い、そこまで読み込むか!と感心することが多いです。同時に自分の感性の鈍さを呪いますが(苦笑)

以前読んだ、あるブログの書評では『夏服の娘たち』について
>「完璧な日常の中に潜む不安」といったものが根底に流れる主題であろうか。
>完全に幸福になるはずの二人に「何か別の気分」が侵入し始める。
いわば自分達の愛が永遠のものではないという疑いだ。
>その疑いを生じさせているのは、いってみれば「未来への可能性」だ。
>傍らにいる自らのパートナーより「素晴らしいかもしれない」可能性を秘めた人々
>自らの人生を「選び取ってしまう」ということは、あたかも自らの未来を閉ざす行為のようでもあるのだ。

…というふうに、まとめておられました。
ちなみに
>ショーの不在中この小説の原稿を読んだ彼の妻が腹を立てて、滞在していたホテルの窓からこの小説を投げ捨てようとしたという、いわく付きのエピソードがある

んだそうで。ショー夫妻自身がモデルになってるんですかね。

ところでアメリカでは日本と違ってカップルが確固たる一つの単位として見なされるように聞いてますが、そういう気風だと、パートナーがよそ見するというのは女性にとって、なおさら屈辱的に感じたりするんですかねぇ。

あっ私は「男のサガ、女のサガだね~」と下世話な感想で済ませたあと
「おとーことおんーなのあいーだにはぁ♪」
という些か古い歌を思い出して口ずさみ。
そこまでです、ハイ。
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男と女の間にあるのは「と」 (陰陽師)
2007-10-21 08:39:58
感想聞かせてくださって、ありがとうございました。

> ところでアメリカでは日本と違ってカップルが確固たる一つの単位として見なされるように聞いてますが、そういう気風だと、パートナーがよそ見するというのは女性にとって、なおさら屈辱的に感じたりするんですかねぇ。

以前、英米の50年代以前の小説を読んで不思議だったのは、上層中流階級の既婚女性がいったい何をしているかわからないことだったんです。
上流の人がぶらぶらしてるのはわかる。夫の方もぶらぶらしてますから(笑)。それが貴族というものだ。
ところが中流階級は、夫は働いているわけです。外交官だったり、企業弁護士だったり、実業家だったりして、とにかく忙しく働いています。だけど妻の方は何をしているのか?
子供は乳母や家庭教師が面倒を見てくれる。家事はメイドがやってくれる。

で、いろいろ読んでわかったのは、奥さんの仕事というのは社交生活なんですね。夫婦ふたりでパーティに呼ばれる。そこで、さまざまな人とつきあうのが奥さんの仕事。あるいは家でパーティを開けるように、家を整える。パーティの演出を考え、招く人のリストを作る。
そこでの妻の役割というのは、夫という主役をできるだけ輝かせるための、監督であり、プロデューサーであり、脚本家であり、マネージャーであるわけです。だからこうした妻の側が「わたしたち」という強い一体感を持っていても不思議はない。夫がどこまでそう思っていたにせよ、妻の側はおそらく夫の成功を、「自分たちの共同作業」というふうにとらえていたのだと思います。
そうしてマイケルとフランシスもそういう世界に脚を踏み出しているふたりだったのだと思います。

もうひとつは、やはり聖書の「情欲をいだいて女性を見る人はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯しています。」(マタイ伝5-27)という教えが、フランシスの意識のなかにはあったのではないかと思います。発表が1939年だったことを考えても、いまよりも宗教というのはもっと日常の隅々にまで影響を与えていたはずだ。ショー自身はユダヤ系ロシア移民の子でしたが、この教えはよく知っていただろう。そうしてこのふたりの会話の向こうには、やっぱりこれが響いているように思います。

> >いわば自分達の愛が永遠のものではないという疑いだ

そうですね、このふたり、これからどうなっていくんでしょう。
どうなるにせよ、おそらくフランシスの側は、もう二度と、以前と同じような使い方で「わたしたち」とは言えなくなるような気がします。
マイケルの方は、そんなこと、最初から思ったこともなかったでしょうが。

「ひとりとひとり」として、いつでもそこから立ち去れるもの同士が、そこから新しく何ものかを築いていけるのか、立ち去れることに気づいたマイケルが、ほんとうに立ち去ってしまうのか、フランシスは自分の対幻想を満たしてくれるほかの誰かをさがすのか。
ページが終わってしまえば、そこから先はだれにもわかりません。

だけど、これを読んだわたしたちは、それぞれの読み方に応じて、自分と、自分を取り巻く世界のことを、この作品と照らし合わせて考えるのだと思うんです。
自分だけを見てほしい、っていう気持ちは、自分の中にもあるんじゃないか、とか。
きれいな人を見て、自分のものにしたい、と願う気持ち、っていうのはどういうことなんだろう、とか。

そうやって、時を経て、自分自身が変わっていって、またちがうものも見えてくる。
そういうのが本を読むのが、また、本を読む楽しみなんだろうと思います。

> 「男のサガ、女のサガだね~」

いやいや、これはあると思いますよ。
昔ね、ああ、これはブログのネタにできたな、まあいいや、また使い回すかもしれない(笑)、ともかくこんな経験があるんです。

ちっちゃな子供がままごとをするのをすぐ近くで見てました。
男の子もおままごとが好きなんです。
ただ、男の子が好きなのは、野菜や食べ物の模型をならべたり、置き直したりすることです。男の子は「もの」が好きなんです。
女の子が好きなのは「おかあさん」「おとうさん」「こども」「赤ちゃん」っていう「役割」であり、朝起きて、お父さんはお仕事に行って、という「物語」です。
「もの」が好きな男の子と「関係と物語」の好きな女の子、という具合に、二歳ぐらいの子たちだったんだけど、きれいに分かれていて、ほとんど感動的ですらありました。

その子によって程度はあるだろう、でも、やっぱり、男の子の好むもの、女の子の好むものって劇的にちがうなあ、と思った経験です。

これにしても、マイケルは「女の顔」という「もの」が好きで、フランシスは「愛し合う夫婦」という「関係と物語」が好きなんだろうなあ、って、納得いきますものね。

書きこみありがとうございました。
また遊びに来てくださいね。

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