陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵本のたのしみ

2005-09-15 21:50:14 | 
その1.「けっ」はどこからきたか

やっぱりおおかみ
決めのひとこと「け」
(おおかみのセリフ)

佐々木マキ 作

「やっぱりおおかみ」福音館書店


 口に出して言うことこそないけれど、わたしはときどき「けっ」と思う。

たいがい目上の人間が、自分で考えたわけでもない、天声人語あたりから引っ張ってきたどうでもいいようなことを、いかにも大層な様子で言ったりすると、頭の中にひらがなの毛筆の太字で「けっ」と浮かんでくるのだ。

 考えていることがマンガのふきだしのように空中に浮かんだとしたら、わたしは相当焦らなくてはならないだろう。なにしろしかつめらしい顔で聞いているふりをしているのに、頭上右上30cmあたりに、墨跡鮮やかに「けっ」と浮かんでいたら……。

 この「けっ」は、せんに誤解していらした方がいたのだけれど、別に江戸っ子の職人のように手鼻をかんでいるのではなくて、実は出典があるのだ。

 それがこの佐々木マキの『やっぱりおおかみ』(福音館書店)である。

 この絵本は、たったいっぴきだけ残ったおおかみの子供が、どこかに自分よりほかにおおかみがいないかな、と探して歩く話だ。

 みんなは仲間がいて楽しそうに見える。けれど自分が近づいていくと、ほかの動物たちは逃げてしまう。いっぴきだけ取り残されるおおかみは、ひとこと、「け」という。ふきだしに、毛筆の太字で「け」と書いてあるのだ。 


「おれに にたこは いないかな」

あちこち探して、最後におおかみはビルの屋上に出る。
そこには気球がある。気球に乗ってどこかにいくと、ほかのおおかみに会えるんだろうか。
けれども、気球は飛んでいってしまう。

 残されたおおかみは、「やっぱり おれは おおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」と思う。
そうして、飛んでいってしまう気球に向けて「け」と言うのだ。

 これはわたしが小さい頃に読んでいた本ではない。
中学生のときにもらったのが最初だ。

 この本は、その年代の子ども(とあえて言ってしまおう)の心情に、ひどくぴったりきたのである。

 自分はだれとも同じではないような気がして、自分のような人間はどこにもいないように思えて、自分の居場所を求め、受け容れてくれる人を捜すのだけれど、どこに行っても、どこに所属しても、なんとなく違うような、自分のことをわかってくれる人間などいないような、そんな気がする……。

「自分の物語」を、自分の手で紡ぎ始め、それを他者に承認してほしい時期の子どもは、確実に「おおかみ」に自分をなぞらえる。

 ここに自分がいる。自分こそ、ただいっぴきしかいないおおかみなんだ。

 そこで最後におおかみと一緒になって「け」と言ってみる。

 自分のことは、自分しかわからない。それでいいんだ、と。そうすると、おおかみと一緒に、なんだか自由で「ゆかいなきもち」になってくる。

だからもういちど「け」と言ってみる。
なにかあるたびに、「け」と言ってみる。
自分はひとりだ。だけど、かまうもんか。わたしが、わたしを、知ってる。

 そうやって、「け」と言いながら、そのうち「子ども」は大人になる。

自分が「たったいっぴきのおおかみ」ではありえないこと、さまざまな集団に属し、役割を担っている、ときに「うさぎ」であり、あるいは別の場面では「ぶた」であり、「やぎ」であり、「うし」であることに気がつく。

 これまでずっと「おおかみ」だと思っていたはずなのに、実は「おおかみ」ではなかったのだ、と理解する。そうして、自分がそのころ「うさぎ」や「やぎ」や「うし」だと思っていた人間が、やはり自分と同じように、どこかで自分を「おおかみ」ではないかと思って、「おおかみ」の自分を半ばもてあまし、半ば愛おしみながら、「おおかみ」の自分を受け容れてくれる人を捜していることに気がつくのだ。

 それから、またすこし大人になって、はじめて気がつく。

確かに、自分のなかにも「おおかみ」がいることを。だれにも飼い慣らされない「おおかみ」。「うさぎ」や「ぶた」や「やぎ」が逃げてしまう「おおかみ」が。

ときに「うさぎ」であり、「ぶた」である自分のなかに、「やぎ」や「うし」として日常を生きている自分のなかに、まぎれもない、いっぴきだけの「おおかみ」がいるのだ。こうやって「おおかみ」として生きるしかない自分を初めて見つける。

 これは、子どものころの「おれに にたこは いないかな」と周りを見回している「おおかみ」ではない。
空に向かって「け」という「おおかみ」、世界に向かって「け」という「おおかみ」だ。

 このときの「け」は、やはり「けっ」と言いたい。

すねて、背を向ける「け」ではなく、集団を成り立たせるための秩序のなかで生きながら、同時にくだらないものは、だれがなんと言おうとくだらない、と蹴り飛ばす「けっ」だ。

 人は「おおかみ」に生まれるのではない。「おおかみ」になるのだ。
 
 本の後ろに3歳~小学校初級向き、と書いてあるんだけど、これはティーン・エイジャーのための本でもなくて、大人のための絵本だと思うな。


(この項つづく)

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2 コメント

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やっぱり (arare)
2005-09-15 23:19:02
佐々木マキさんって男性なんですね。名前からてっきり女性だと思っていました。



大学のとき、マキ君という同級生がいました。ある日、マキ君は大学の図書館で本を読んでいました。何やら眉間にシワを寄せて、真剣な顔で本を読んでいます。声をかけにくい雰囲気だったので、そっと彼の後ろに回り、いったい何の本を読んでいるのだろうかと盗み見てみると、「名探偵シャーロックホームズの冒険」でした。



いや、別にシャーロックホームズが悪いわけではなく、大学生が真剣な顔で読んだらいけない本というわけでもありませんが、「大学の図書館でホームズを真剣な顔で読んでいるマキ君」を思い出すと、思わずニヤッとしてしまいます。



大学生にコナンドイルでさえこうですから、大人が絵本をそれこそ真剣な顔で読んでいたら、「この人なに?」って思われることでしょう。でも、絵本って子供にはもったいないって思いません?すごく面白いし、言葉の1つ1つに非常に気をつかっている。絵本を読めば想像が膨らみ、絵本を読むのは理屈抜きに面白い。3才向けとか小学3年生向けなんて、限定しないでほしいものです。



ところで、「やっぱり おおかみ」の「やっぱり」って何でしょう?やっぱりあの「やっぱり」なんでしょうか。

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あの「やっぱり」って? (陰陽師)
2005-09-16 22:32:11
arareさんこんばんは。



シャーロック・ホームズですか。

ああ、わたしも夢中で読みました。

小学校二年のときです。

授業中に読んでいて、先生に没収されて、何かしたのかな、とにかく母親が呼び出しくらって、あとでものすごく怒られたのを覚えています。



シャーロック・ホームズを全然知らない(金田一耕助でもいいんだけど)、っていう人がいたら、無性にうらやましくなります。

だって、あのワクワク・ドキドキをもう一度味わえるんですもの。



>でも、絵本って子供にはもったいないって思いません?



激しく同意、です。

大人になって、骨の髄までしゃぶりつくすように、読んでます。

ほんと、あのころなんて全然わかっちゃなかったな、って思います。

だから、この企画を考えたんですけどね。

あくまで「オトナの楽しみ」としての、「絵本のたのしみ」です。だから、もうしばらくおつきあいくださいね。



ところで

>「やっぱり おおかみ」の「やっぱり」って何でしょう?やっぱりあの「やっぱり」なんでしょうか。



って、どの「やっぱり」なんでしょう?

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