夏休みの宿題というと、決まって出てくるのが「読書感想文」なのだが、あんなものを書かせるよりは、自分が読んだ本を、原稿用紙一枚程度に要約させた方が、よほど意味があるように思う。
たいていの「感想文」というのは、「おもしろかった」という一言を苦心惨憺引き延ばしたようなしろもので、実際におもしろいと思ったのなら、どこがどうしてどのような点を自分はおもしろく感じた、と書けばよさそうなものを、一向にその点が判然としない。おそらくはまともに読んでいないまま、とりあえず最後までページをめくった(ときにそれさえもしていない)というだけで、行間から「書きたくない」「書くことがない」という心情がにじみでていて、書く方が苦痛なだけではなく、読む方もたいそうな苦痛を強いられる。そんな読書感想文を毎年書かせるというのも、つまりあれか、がまん大会に「参加することに意義がある」というやつなのかもしれない。
ともかく、そんな読む方も書く方もうんざりするだけの「読書感想文」より、「この本は何が書いてあるか」を書かせた方が、よほどいいような気がする。
「この本には何が書いてあるか」というのは、すなわちその人が「何を読みとったか」「その本の中から何を汲みとったか」ということにほかならなくて、それは結局、本のことを語りながら、「その人がどういう人であるか」を語っていることにほかならないからだ。
中学生のころ、『赤毛のアン』の主人公アンを、「ほんっとにイヤな子でしょ」と言う子がいて、驚いたことがある。当時のわたしは『…アン』というと、なんとなく女の子の必読書というか、万人に愛される登場人物ではないか、と漠然と感じていたのだ。
彼女によれば、『赤毛のアン』というのは、「やたら明るくてやかましい女の子のおしゃべりの話」なのだった。その話を聞きながら、わたしは世間に広く行き渡っている読み方ではない、大胆な読み方ができる彼女を見て、目を洗われるような気がした。
そうか、何だってありなんだ、と。そうして、アンを「イヤな女の子」と平気で言ってのける彼女はおもしろい子だなあと思ったのだった。
また別の機会には、こんなこともあった。
阿刀田高の『海外短編のテクニック』(集英社新書)では、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」にふれられているのだが、
「主人公のハリーは結局救助されるのだが」
とあるのだ。この一節を読んだときには、文字通り、あんぐりと口が開いてしまった。
「キリマンジャロの雪」に関しては、ここで私訳を載せているが、どこをどう読んだら「結局救助」ということになるのだろう……と思ったものだ。
だが、その先には「救助が先か、死が先か、スリリングな状況設定の中で、人間の真実と、きらびやかな回想の日々が入り乱れて、充分な読み応えがある」と続いていく。おそらく阿刀田高は「スリリング」な読み物として、この小説を読んだのだ。逆に言うと「スリリング」であるためには、救助が死に瀕した主人公の脳内の映像であっては、それこそしゃれにならない。「救助が先か、死が先か」とハラハラしながら読めるのも、最後には助かるというお約束があるからだ。その意味では、そこに「正解」も「不正解」もない。ただ、阿刀田高が読んだ「キリマンジャロの雪」には、最後のハイエナの場面がないのだな、と思うだけである。
ともかく、同じ小説を読んでも、その人が「その中に何を読んだか」というのは、これほどまでにちがってくるものなのである。
ところでこの夏、旅行に行ったとき、パトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』という小説を読みながら、至福のひとときを過ごした。訳者の吉田健一の名前に引かれて買った本だったのだが、実際読んでいると、どこをどう取っても吉田健一の文章そのもので、でも同時にやはりこれはどんどんと緊迫感が高まっていくハイスミスの小説でもあって、とびきりの料理を、一皿が終わっていくのを惜しむように、一口ずつゆっくりと、すみずみまで味わっていくように読み進めていったのだった。
そうして最後に「訳者あとがき」を読んだとき、そこには吉田健一がどう読んだかが書かれてあった。
とまあ、ここから小説の中に入っていき、もうあとは本を読んでください、と言うしかないのだが、ともかくわたしはこのあとがきを読むまで、この小説が「自分が人間であることを感じさせるものがなければ人間は生きていけない」ことを書いた小説であるとは、実際のところ、夢にも思わなかったのである。
ところがこのあとがきを読んでしまうと、ちょうど暗闇に慣れてきた目が、真っ暗としか思えなかったなかに、少しずつものの形が見えてくるように、そういう小説であるとしか言えないように思えてくるのだ。
ひとつの作品から、ここまで深いものを取り出せる。
ただただすごいなあ、と思い、やはり「読書の楽しみ」というのは、結局のところ、こんな読み方をしている人に出会えるということなのだなあ、と思うのである。
たいていの「感想文」というのは、「おもしろかった」という一言を苦心惨憺引き延ばしたようなしろもので、実際におもしろいと思ったのなら、どこがどうしてどのような点を自分はおもしろく感じた、と書けばよさそうなものを、一向にその点が判然としない。おそらくはまともに読んでいないまま、とりあえず最後までページをめくった(ときにそれさえもしていない)というだけで、行間から「書きたくない」「書くことがない」という心情がにじみでていて、書く方が苦痛なだけではなく、読む方もたいそうな苦痛を強いられる。そんな読書感想文を毎年書かせるというのも、つまりあれか、がまん大会に「参加することに意義がある」というやつなのかもしれない。
ともかく、そんな読む方も書く方もうんざりするだけの「読書感想文」より、「この本は何が書いてあるか」を書かせた方が、よほどいいような気がする。
「この本には何が書いてあるか」というのは、すなわちその人が「何を読みとったか」「その本の中から何を汲みとったか」ということにほかならなくて、それは結局、本のことを語りながら、「その人がどういう人であるか」を語っていることにほかならないからだ。
中学生のころ、『赤毛のアン』の主人公アンを、「ほんっとにイヤな子でしょ」と言う子がいて、驚いたことがある。当時のわたしは『…アン』というと、なんとなく女の子の必読書というか、万人に愛される登場人物ではないか、と漠然と感じていたのだ。
彼女によれば、『赤毛のアン』というのは、「やたら明るくてやかましい女の子のおしゃべりの話」なのだった。その話を聞きながら、わたしは世間に広く行き渡っている読み方ではない、大胆な読み方ができる彼女を見て、目を洗われるような気がした。
そうか、何だってありなんだ、と。そうして、アンを「イヤな女の子」と平気で言ってのける彼女はおもしろい子だなあと思ったのだった。
また別の機会には、こんなこともあった。
阿刀田高の『海外短編のテクニック』(集英社新書)では、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」にふれられているのだが、
「主人公のハリーは結局救助されるのだが」
とあるのだ。この一節を読んだときには、文字通り、あんぐりと口が開いてしまった。
「キリマンジャロの雪」に関しては、ここで私訳を載せているが、どこをどう読んだら「結局救助」ということになるのだろう……と思ったものだ。
だが、その先には「救助が先か、死が先か、スリリングな状況設定の中で、人間の真実と、きらびやかな回想の日々が入り乱れて、充分な読み応えがある」と続いていく。おそらく阿刀田高は「スリリング」な読み物として、この小説を読んだのだ。逆に言うと「スリリング」であるためには、救助が死に瀕した主人公の脳内の映像であっては、それこそしゃれにならない。「救助が先か、死が先か」とハラハラしながら読めるのも、最後には助かるというお約束があるからだ。その意味では、そこに「正解」も「不正解」もない。ただ、阿刀田高が読んだ「キリマンジャロの雪」には、最後のハイエナの場面がないのだな、と思うだけである。
ともかく、同じ小説を読んでも、その人が「その中に何を読んだか」というのは、これほどまでにちがってくるものなのである。
ところでこの夏、旅行に行ったとき、パトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』という小説を読みながら、至福のひとときを過ごした。訳者の吉田健一の名前に引かれて買った本だったのだが、実際読んでいると、どこをどう取っても吉田健一の文章そのもので、でも同時にやはりこれはどんどんと緊迫感が高まっていくハイスミスの小説でもあって、とびきりの料理を、一皿が終わっていくのを惜しむように、一口ずつゆっくりと、すみずみまで味わっていくように読み進めていったのだった。
そうして最後に「訳者あとがき」を読んだとき、そこには吉田健一がどう読んだかが書かれてあった。
この小説の作者については原書の表紙に書いてあること以外に何も知らない。…(中略)…
しかしこの小説を読んでからというものは初めてだという気がしないところにその特色がある。その舞台は北アフリカの独立したばかりの共和国であるテュニジアで、そこに仕事と見物を兼ねてきているアメリカの小説家だとかデンマークの画家とか、それから殊に実業家が引退したのらしく現に何をしているのか他の登場人物にもはっきりしないアダムスという中年のアメリカ人などはわれわれにとってなじみがあるというものでは決してないが、どこでも場所というのは一度そこと決まればわれわれにそう珍しくなくなるということのほかに、この小説に出てくる人物の心の動きというようなものは少しもわれわれに外国人とか作者の勝手な想像とかいう感じを与えない。そのどれもが人間になっているといってしまえばそれきりである。それよりもその人間になっている具合が前に触れたこの小説の特色なので、そうして人間であるための条件がどこでだろうと結局は同じであるならばその条件の一つに自分が人間であることを感じさせるものがなければ人間は生きていけないということがある。
それが人間の一人一人にとっての判断の基準とか行動の目標とかというもので、もし一つの社会でそれに属するものの大多数が満足できる程度に発達し史、洗練されたそういう規準や目標があるならば、それを伝統とも文明の正統とも呼んで差し支えない。別な言葉でいえば、それがわれわれにとって人間らしさであることの根本をなしている。そしてあいにくのことに、これはそんなことでかたづけることを許さないもので、この小説の主な人物はいずれも各種の理由で、そうした伝統的なものから切り離されていることに対処しなければならない立場にあり……(パトリシア・ハイスミス『返信の恐怖』「訳者あとがき」より)
とまあ、ここから小説の中に入っていき、もうあとは本を読んでください、と言うしかないのだが、ともかくわたしはこのあとがきを読むまで、この小説が「自分が人間であることを感じさせるものがなければ人間は生きていけない」ことを書いた小説であるとは、実際のところ、夢にも思わなかったのである。
ところがこのあとがきを読んでしまうと、ちょうど暗闇に慣れてきた目が、真っ暗としか思えなかったなかに、少しずつものの形が見えてくるように、そういう小説であるとしか言えないように思えてくるのだ。
ひとつの作品から、ここまで深いものを取り出せる。
ただただすごいなあ、と思い、やはり「読書の楽しみ」というのは、結局のところ、こんな読み方をしている人に出会えるということなのだなあ、と思うのである。
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