陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~夏の思い出 その1.

2006-08-21 22:38:48 | weblog
生まれて初めて親元を離れて泊まったのは、小学校四年のときだった。
一学期の終業式が終わってすぐに始まる臨海学校で、房総半島の先のほうに行ったのだ。

ほとんどの生徒が親元を離れるのは初めてで、説明会だの保護者会だの、ずいぶんいろんな準備があったような気がする。とはいえ大変なのは母親で、わたしのほうはクラスのだれと並んで寝ようか、ふたりから誘われているのだけれど、トシコちゃんがいいか、エミちゃんにしようか、と悩むぐらいがせいぜいだった。

巨大なオレンジのリュックサック、ついにそのとき一度しか使わなかったあのリュックサックも実家に戻ればまだあるのかもしれない、ともかく学校指定のそのリュックを、わざわざスポーツ用品店まで買いに行ったのだった。たかだか三泊四日のためにいったい何を入れる必要があったのか、実際、弟が入って遊んでいたぐらい大きなリュックサックだったのだ。
バスタオルを数枚、水着、着換え、そのほかにはいったい何を詰めたのだろう。それでもいざ準備を始めると、あれも持っていきなさい、これも持っていきなさい、ということになったのではないのかと思うのだけれど、ともかく八分ほどは詰まっていった。

その日の朝、脚をふらつかせながらまず学校へ行き、そこからバスに乗って目的地へ向かう。途中、お弁当を食べるためにどこかに停まったのだと思うが、それがどこだったかはまったく記憶にない。ただ、ずっとバスに揺られるだけだったためにまったくお腹が減らず、お弁当も半分ほどしか食べられなかった。わたしは食べられなかったお弁当を、そのままナプキンで包んで持って帰ったのだが、真夏、四日前の弁当が残った弁当箱を洗う母はさぞいやだったことだろう。その場で処分する、という知恵など、まったく回らなかったのである。

バスから降りて、細い道をうねうねと歩いていきながら、引率の先生が、君らはもう泣こうがどうしようが、四日先まで家には帰れないのだ、と話す。それを聞いて泣き出す子が何人かおり、しばらく家族には会えないのだ、ということが、しこりのようにみぞおちのあたりに固まってくるのを感じたのだった。

おそらく民宿のようなところに泊まったのだと思う。山が海岸近くまで迫り、細い平野部にその民宿はあったのだ。目の前に狭い砂浜があり、その向こうに波打ち際が続く。
おそらく入り江のようなところだったのだろう、水平線は見えず、海の向こうにもまた山が迫っていた。

それまで、家族で何度か海に泳ぎに行くことはあったのだけれど、泳ぐといえばもっぱらプールで、海はずいぶん泳ぎにくかった。何よりも、眼が痛くなるのには困った。
海からあがると寒かったような記憶があるのは、たまたまそのときが曇っていたかどうかしたせいなのだろうか。ただ、いまに比べると、そのころ、七月の暑さはいまとはずいぶんちがっていたような気もする。
海から上がると、浜辺の焚き火のところに行く。
薪を積み上げた上にはアルミの黄色い大鍋があって、そこへいくと、夏用の薄いベールになったシスターが、ひしゃくで鍋の飴湯を湯呑みにすくってくれる。ショウガの匂いのきつい、熱くてどろっと甘い飴湯は、ほかのときならおいしいと思うこともなかったろうに、そのときは不思議とおいしかったのだった。

ところが初日の晩ご飯、カレイの煮付けだかなんだかを食べていたら、急に胃がきゅんとつかまれたような感じになった。家のご飯と味付けがちがう。そう思ったとたんに、激しいホームシックにかられてしまったのである。
涙が出そうで、もうなにも飲み込むことなどできそうにない。ホームシックなどとは言えなかったために、「お腹が痛い」と訴えた。
ひとりちがう部屋に寝かされ、ビオフェルミンか何かをもらった。
もう三日寝たら、家に帰れるのだ、と、まだ一晩も寝ないうちに考えた。
波の音が耳について離れなかった。

(この項つづく)

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