陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

疲れてしまう人

2009-05-31 22:17:33 | weblog
以前、職場が同じだった人と久しぶりに顔を合わせた。一緒に仕事をしていた頃は、その人とこれから顔を会わさなければならないと思っただけで、頭の上に雨雲がたれこめてくるような気がしていた人だったから、駅のホームで、電車から降りてきたその人とばったり顔を合わせたときには、正直、やれやれと思ってしまった。

頭をひとつ下げてやり過ごそうとしたのだが、向こうは、久しぶり、元気だった? と呼び止める。そういえば、以前は相手のことをうっとうしがっている自分が後ろめたくて、必要以上に気を遣い、とかくもめごとを起こしやすいその人となるべく摩擦を起こさないように、慎重な口を利いていたことを思い出した。周囲から浮きがちだったその人からしてみれば、何かと気を遣ってくれるわたしは、心安くつきあえる人間のひとりだったのかもしれない。

電車は出たばかり、快速に乗るつもりでいたのだが、もうこうなればなんだっていい、つぎに来た電車に乗ることにして、あきらめてこちらも立ち止まった。

いきなり「どうしてるの、仕事はあるの」と聞いてくるから、「ええ、おかげさまで(誰のおかげにしても、あんたのおかげじゃないけどね、と胸の内で憎まれ口を叩きながら)なんとかやってます」と当たり障りのない返事をしたところ、いまどこにいるの、そこはどうなの、いくらぐらいもらってるの、契約期間は……と畳みかけるようにして聞いてくる。そのうち、数ヶ月ほど前に急逝した当時の職場の上司のことに話題は移って、急だったよねえ、やっぱりガンだったんでしょうね、あんなに身体を鍛えてたのにねえ、あはは、死んじゃったら何にもならないよねえ……と言い出したあたりで、ああ、相変わらずだ、ほんとにこういう人だった……と、うんざりしてしまった。

当時、わたしはその人と一緒にいると、不快になるだけでなく、すっかり疲れてしまって、なんでこんなに疲れてしまうのか不思議だった。自分が嫌いな人と一緒にいるから疲れるんだろうか、それとも疲れるから、この人のことが自分は嫌いなんだろうか、とよく考えたものだ。

逆に、一緒にいて楽しい人が相手だと、疲れるどころではない。会話することによって、楽しい時間が過ごせるだけでなく、気持ちはのびのびとし、言葉ははずみ、さまざまな刺激を受け、さらにはそのひとときが過ぎても、一緒に過ごした記憶が胸を暖めてくれる。相手の言葉を反芻するうちに、次第に自分の考えや行動を見直すことができるようになり、よしがんばろう、という気持ちにもなる。

そう考えると、まるでこちらのエネルギーを吸い取ってしまう人と、活力を与えてくれる太陽のような人の二種類がいるように思えてくる。事実、わたしも今日までどこかばくぜんとそんなふうに考えていたのだった。

ところが今日、久しぶりに話してみて気がついた。
わたしがその人と話をしていていつも疲れていたのは、自分が相手の話を聞きながら、きっといらいらさせるようなことを言うにちがいない、と、身構え、神経をすり減らしていたからだ。

確かにその人のものの見方・考え方は、わたしとはちがう。わたしはそんなふうに物事をとらえたりしないし、人の行動も、その人のように受けとったりはしない。けれども、その人のものの見方・考え方と自分のそれを、別に一致させる必要はないのだ。

その人の話を聞いて、わたしはよく憤慨したものだったが、別にその人の話を聞いたからといって、その人のような考え方をするようになったわけではない。わたし自身が損なわれたわけではない。損なわれたとすれば、その人が言ったことを、あとになってあんなことを言っていた、こんなことを言っていた、と振り返り、改めて自分をいやな気持ちにしていた自分自身だった。

話しながらそのことに気がついたわたしは、その人と話をして、初めて気持ちよく別れることができた。この人は、これからもこの人であり続けなければならない。けれど、わたしはこの人から離れることができる。電車が駅を出るころには、すっかり忘れることもできるのだ。そう思ったら、なんだかうれしくなってしまったのだった。

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