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 陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

無花果あれこれ

2011-09-23 23:13:28 | weblog
知り合いからイチジクをもらった。
朝採ったばかり、というのをたくさんもらって、食べきれるものではないからお裾分け、と、大ぶりのガラスのボールごと手渡されたのである。ラップ越しに見えるイチジクのうすい皮は、水気を含んでつやつやとしており、割れたところから鮮紅色の果肉が見えた。

イチジクを前に食べてから、もう何年が経つだろう。
子供の頃はあちこちの家の庭に植えてあって、季節になると独特のにおいがして、手を広げたような葉を見なくてもイチジクの木があることがわかった。

その頃でも、あまり好んで食べていた記憶はないのだ。近所の家からもらってきたイチジクは、リンゴやミカンのようなきれいな色をしておらず、表面もなんだかぬらぬらしていて、切り口から白い液体が垂れているのも気持ち悪かった。おいしいよ、食べてみなさい、と母が皮をむいてさしだすのを受け取って、おそるおそる口に入れても、ぐにゃっとした食感がなじめなかった。確かに味は悪くないのだが、また食べたいという気にはなれなかった。おそらくそれが最後ではなかったはずだが、わざわざ買って食べた経験はない。

ところで、イチジクを指す "fig" という英語は、英語圏ではありふれたものだ。わざわざ "dried" と断っていなくても、たいてい乾燥させたもので、パンやケーキに入れて焼いたり、そのままレーズンのようにつまんで食べたりする。

最初、英語の小説の中で "fig" という単語に出くわし、辞書を引いて「イチジク」という言葉を見つけたときは、なんだか妙な気がしたものだ。味といい食感といい、やたらに近所で見かけるところといい、イチジクはてっきり日本産のものだろうと思っていたのだ。やがてそれが中近東が発祥の地だと聞いて、英米で乾燥した状態で出回っているのか理由がわかったような気がした。噛むと、凝縮されたタネが口の中でジャリジャリいうのが気になるのだが、甘酸っぱい味は生のものより食べやすいように思えた。

このイチジクの歴史は古い。古代ギリシャの時代からさかんに食べられていて、本にも出てくる。おもしろいところでは、漱石の『吾輩は猫である』にこんな箇所があるのだ。場面は苦沙弥先生のところに、かつての同級生の鈴木、彼はいま苦沙弥先生の宿敵である金田のスパイとして先生の様子をさぐりに来たところである。調子の良い鈴木は先生にしきりに、そんなに不景気な顔をせず笑え、と愚にもつかない助言をする。それに対して苦沙弥先生、こんな話をするのである。

「昔し希臘(ギリシャ)にクリシッパスと云う哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「はははしかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜に、――そうするといい心持ちだ」

『猫』を初めて読んだときから、この箇所が不思議だった。ロバがイチジクを食べている、そのどこが、笑い死ぬほどおかしいのだろう。中学時代、社会科の授業中、わたしの席の後ろのジュンコちゃんが当てられて教科書を読んでいる途中、「マニュファクチュア」がうまく言えなくて、何度か言い直してもやはり言えずに、笑い出して止まらなくなったことがある。戦時中は陸軍将校だったというもの静かな歴史の先生は、困ったような顔をして、その笑いの発作が治まるのを待っていたが、「どうしても止まらない笑い」、言葉を換えれば「笑いのツボにはまってしまったとき」というのは、その中身は意外とよくわからないものなのかもしれない、とまあ、そんなことを考えたものだった。

とはいえ、この箇所を疑問に思ったのはわたしだけではなかったようで、柳沼沢重剛の『西洋古典こぼれ話』には、そもそもこの話がどこから由来しているのか、の考察を含めて、柳沼先生の推測が書いてある。

これはディオゲネスの『ギリシア哲学者列伝』のクリュシッポス(※漱石の「クリシツパス」はクリュシッポスの英語読み)の項目にある話らしい。
「ある人たちによれば、彼は笑いすぎたために発作を起こして、そのために死んだのだとも言われている。すなわち、驢馬が彼の無花果を食べてしまったので、彼は(世話をしてくれている)老婆に向かって、「さあ、その驢馬に、無花果を飲み下してしまうように、水を割らない葡萄酒をやってくれ」と言ったのだが、その時あまりにも笑いすぎたので、そのために死んだというわけである」
(『ギリシア哲学者列伝』『西洋古典こぼれ話』から)

ここから柳沼先生は「思うに、実は驢馬がイチジクを食ったのがおかしいのではなく、イチジクを食った驢馬に人間並に葡萄酒、それも水で割ってないのを飲ませたのがおかしかったのではないか」と考察しているのだが、それもいまひとつピンと来ない。やはり、「ひどい笑いの発作というのは、端の人間には理由がよくわからない」というわたしの説の方が説得力がある……とは言えないか。まあ、ツボにはまった、ということを言っているだけなのだが。

それにしても漱石の読書量の幅広さ、膨大さには驚くばかりである。漱石、鴎外、芥川ばかりではない。坪内逍遙は全世界に先駆けてシェイクスピアの全戯曲を翻訳したし、黒岩涙香は翻案という形ではあったが、おもしろい読み物を次から次へと紹介していった。乱歩の推理小説の中には、外国の作品を下敷きにしたものがいくつもあるし、横溝正史も戦時中に翻訳をしている。昔の人はつくづく勉強家だったのだなあと頭が下がる思いだ。


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