陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

歴史小説の楽しみ その2.

2010-12-29 19:19:12 | weblog
(承前)

司馬遼太郎の連作短編集『幕末』(文春文庫)の巻頭を飾るのは、「桜田門外の変」である。

わたしたちはこの短編を読まなくても、「歴史的事実」として「桜田門外の変」が1860年に起こり、時の大老井伊直弼が暗殺され、江戸幕府崩壊の口火を切ったことを知っている。

けれども司馬遼太郎は、こんな書き出しで話を始める。
 桜田門外の事変であまねく知られている有村治左衛門兼清が、国許の薩摩から江戸屋敷詰めになって出府したのは、事件の前年、安政六年の秋のことである。二十二歳。
「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」
 と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、
「米のめし」
 と治左衛門は大声で答えた。薩摩藩士にはめずらしく色白の美丈夫で、頬があかい。外貌どおり、素直すぎるほどの若者だったのであろう。
(司馬遼太郎「桜田門外の変」『幕末』所収 文春文庫)
ここまで読んだだけで、読者はみんな治左衛門に好感を抱くだろう。作為のない、「真っ直でよいご気性」の青年なのだから、『坊っちゃん』の清ならずとも好きにならずにはいられない。こうやって作者は開始後ほんの数行で読者を引き込むのである。これを見事な手際と言わずに何と言おう。

そこからわたしたちは治左衛門とともに、幕末の江戸を生きていく。三月三日が近づくにづれ、そこから先、どうなっていくかがわかっていても、それでも事の正否に胸がドキドキする。
 やがて、合図の短筒がひびいた。
 治左衛門は、左から突進した。駕籠までの距離は二十間はあろう。
 佐野は右から突進。
 駕籠の右脇には、井伊の家中できっての使い手とされた供目付川西忠左衛門がいる。すばやく大刀のツカ袋を脱するや、まず飛びこんできた稲田重蔵を片手で斬り、さらに脇差をサヤのままぬいて、広岡子之二郎の一撃を受けとめた。川西、両刀使いで知られた人物である。つづいて飛びこんできた海後嵯磯之介に浅傷を負わされ、広岡に踏みこまれて肩を斬られ、斬られながらも広岡の額を割った。
 そこへとびこんできた佐野竹之助は、まず川西に致命の一刀をあびせ、死体をとびこえ、まっすぐに井伊の駕籠へすすんだ。

この短編を読みながら、わたしたちは「桜田門外の変」に立ち会う。「知る」のではなく、雪の冷たさを感じ、血の臭いを感じ、斬られた痛みを感じ、つまりは経験するのだ。

読者をぐいぐいと引き込むような、おもしろい、よくできた歴史小説は、年表にあるときは単に文字の連なりでしかなかったことがらを、わたしたちに経験させてくれる。

だが、人物を中心に据えた歴史小説には、不可避的に困った問題も起こってくる。

あらゆるドラマには悪人がつきものだ。この「ドラマ」というのは、テレビでやっているあれのことではなく、劇的構築物、小説であろうが映画であろうが演劇であろうが、はたまたノンフィクションであろうが、いわゆる「ドラマティック(劇的)」な要素を持つすべての「書かれたもの」を指しているのだけれど、そうしたものにはかならず主人公(ヒーロー)に対して、悪役(アンチヒーロー)が登場する。主人公と悪役の対立が、ドラマを緊迫させ、盛り上げる。

当然、短編「桜田門外の変」にも悪役が出てくる。井伊直弼である。主人公が「善い人間」であるためには、そうして「暗殺」という行為が正当化されるためには、悪役たる井伊は、小悪党では務まらない。巨悪でなければならない。事実、作中では井伊はこのように描写される。
 井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなかった。だから、この大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛に幕吏を面黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。
 この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。

ここまで井伊がどうしようもないやつであれば、暗殺やむなし、という気持ちにもなってくる。読者は誰もが井伊直弼を憎む。手に汗握って、彼が殺されるのを待ち望むようになる。

そうして、誰もが知っている結末を迎え、この短編は幕を閉じる。けれども、読者の脳裡には、「井伊直弼=支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者」という人物設定が、あまりに強烈であるために、そのまま残ってしまうことはないだろうか。

昨日も書いたように、歴史小説というのは、ひとつの歴史的出来事の見方だ。さらに、いわゆる「歴史的事実」というものでさえ、解釈を離れては成立しない(「「事実」とはなんだろうか」)。

歴史というのは傑出したひとりの人間が動かすものではない。さまざまな条件が重なって、さまざまな出来事が起こり、それらが合わさって大きな流れとなり、「歴史」を作りだしていく。だからこそ、さまざまな解釈があり、さまざまな見方ができるのである。

だが、おもしろい、良くできた歴史小説は、逆に、わたしたちのものの見方を固定してしまう。それ以外の見方があることを忘れ、「井伊直弼=支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者」という図式ができてしまうのだ。

本来わたしたちは「新撰組」を題材にした小説と、「坂本龍馬」を題材にした小説を両方楽しむことができる。政治的な主張としては正反対、片方で「良い」とされていることが、片方では「打破すべきもの」とされているにもかかわらず。

つまり、読者は「支離滅裂」なのではなく、「新撰組」を読むときと「坂本龍馬」を読むときでは、歴史を別の角度から眺めている。さらに別の作家の手による明治維新ものを読めば、同じ歴史的出来事が、また意味を変えていく。
意味がそうやって変わり続けるからこそ、わたしたちは何とか「正しい像」を得ようとして、さらに熱心に読書の幅を広げていく。それは同時に人間を知ることにもつながっていく。

今年は龍馬の年だったらしく、坂本龍馬を模した人形のストラップまで登場した。確かに「龍馬=風雲の志士」というイメージは、わたしたちに広く受け入れられているのだろう。

それでも、そうではない見方もあるのではないか。
イメージをひっくり返すような。
自分を感動させるような新しい解釈が。
そんなものであり続ける限り、歴史小説はどこまでいっても楽しい読書経験になっていくのではあるまいか。


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