実際のどろぼうというのは楽しいものでもなんでもないが、話に出てくる「どろぼう」は、楽しい。
子供のころ、「どろぼうがっこう」という絵本がすきだった。りっぱなどろぼうになるために、どろぼうがっこうに行く子分とくまさかせんせいのお話である。このどろぼうがっこうのえんそくというのが……という話で、「熊坂長範」という名前を知ったのもここからだ。
小学生のころ、学校に泥棒が入ったことがある。
学校に行くと、シャッターがしまったままで、なかに入れない。ほかの子と一緒に昇降口の前で待っていると、そうしているあいだにも続々と集まってくる。そこに「どろぼうが入ったんだって」という情報が、どこからともなく流れてきた。わたしたちはみんな、まるで本の主人公にでもなった気分で、自分たちがすっかり踏み荒らしてしまった地面を見下ろして、ここに足跡があったかもしれない、などと想像をたくましくした。
やがてシャッターも開き、ふだんより三十分ほど遅れて、わたしたちも教室のなかに入っていった。わけもわからないまますっかり興奮して、教室でわいわい騒いでいたら、先生がやってきた。空き巣が入り、職員室が荒らされていたことの報告があり、先生も指紋を採られた、などと言っていた。いま考えてみれば、先生の方も興奮していたのだろう。わたしたちがもう空き巣事件に夢中になってしまったことは言うまでもない。休憩時間に「手がかりを探すんだ」と職員室へ向かうと、おなじことを考えたのだろう、ほかの子供たちに大勢会った。
その後、犯人がつかまったという話も聞かなかったから、結局つかまらなかったのかもしれない。戸締まりの大切さをやかましく言われたぐらいだ。
内田百の随筆に「泥坊三昧」というものがあって、百が三代つづけて泥棒に入られた家に、引っ越したことが綴られている。泥棒の話を聞いてもかまわず引っ越してきたものの、しばらくは日が暮れて薄暗くなってくると、いよいよ今夜来るのではないか、と胸騒ぎがしたという。
勝手口の電灯をつけっぱなしにしておくと泥棒も気が引けるのではないかと考えて、つけっぱなしにしておく。便所の電気もつけっぱなしにしておく。ここらへんまでなら、だれでも考えそうなことだが、そこは百先生、「泥坊入口」と書いた立て札を立てておいてはどうか、と考えるのだ。
泥棒は、自分が来ることをしっていたのかとぎょっとして、いい気はしないだろう、というのである。
さらに、「泥坊さんこちらへ」と誘導し、さらに「泥坊通路」「泥坊休憩所」と作っていったらどうか、と考える。だが、やりすぎては、「自分が怖いのだろうと見透かされて、かえって泥坊の思うつぼになるかもしれない。せいぜいが勝手口の内側に「泥坊入口」と一枚でいやな気がして、帰るだろうと考えるのである。
わたしは泥棒の心理はわからないのだが、果たして看板が出ているくらいで何か思うのだろうか。入ってやろうと決心して、準備万端整えている職業的泥棒(?)なら、そんな看板ごときでビクともしないだろう。
以前のところはなにしろ最上階だったので、あまり泥棒ということを考えたことはなかった。出かけるときも空気の入れ換え、とばかりに、窓を開け放って出かけていたものだ。それが、外壁の塗装工事で足場が組まれたときに、何階か下の部屋に空き巣が入ったという。足場だけでなく、その外側にスクリーンも張るために、空き巣としても外から見られる心配(?)がないのかもしれなかった。
さっそく注意が呼びかけられた。やがて作業が終わって、足場も解体されたが、かといって安心はできないという。特に最上階は危ないのだそうだ。泥棒が入るのは、一階からとばかりは限らない、屋上からロープを使って登山の要領で降りてくるのだと聞いた。
取られるほどのものがあるわけではないが、それでも空き巣に入られるのは恐ろしい。しばらくはベランダに面した側で寝るのも気持ちが悪かったものだ。
マンションの自治会では、それを機に、挨拶運動を始めた。そこは古い型の建物だから、オートロックもないし、どこからでも入れる。それでも、住民が相互に顔見知りで、気軽に話ができるような関係にあることが、何よりも「犯罪防止」に効果があるということらしかった。それまでは、エレベーターに一緒に乗り合わせても、うつむいて目を合わさないようにして、挨拶を避けるような身ぶりをされることも多かったのに、「住み良いマンションは挨拶から!」などという標語がでかでかと目の前にあるせいか、何となく自然に「おはようございます」と言い合うようになった。それがどこまで犯罪の抑止に効果があったのかどうかわからないが、エレベーターが一階につくまでの、何とも言えない緊張感がなくなっただけでも、よほど気分の良いものだった。
毎日、些細な犯罪から重大な犯罪までが報道され、ひったくりや空き巣などが身近に起こったりすれば、生活の安全が脅かされるように感じる。オートロックどころか、城塞のようなマンションもあるらしい。「以前の日本人は、水と安全はタダだと思っていたが、オウム事件以降、そうではなくなった。安全は金で買うものだ」という言葉を聞くこともある。
だが、「自分だけが安全」「自分の家族さえ安全ならそれでよい」という発想では、結局その人はどこにも行けなくなってしまう。狭い城塞の内側から一歩外へ出てしまえば、ありとあらゆることが起こる可能性があるのだ。むしろ安全を求めるなら、自分だけが安全、自分のごく狭い身内だけが安全、という発想ではなく、社会全体の安全を考えなくてはなるまい。
自分がほんとうに求めるものは、自分が人に与えることによってしか、手に入れることができない、というのはほんとうだ。
子供のころ、「どろぼうがっこう」という絵本がすきだった。りっぱなどろぼうになるために、どろぼうがっこうに行く子分とくまさかせんせいのお話である。このどろぼうがっこうのえんそくというのが……という話で、「熊坂長範」という名前を知ったのもここからだ。
小学生のころ、学校に泥棒が入ったことがある。
学校に行くと、シャッターがしまったままで、なかに入れない。ほかの子と一緒に昇降口の前で待っていると、そうしているあいだにも続々と集まってくる。そこに「どろぼうが入ったんだって」という情報が、どこからともなく流れてきた。わたしたちはみんな、まるで本の主人公にでもなった気分で、自分たちがすっかり踏み荒らしてしまった地面を見下ろして、ここに足跡があったかもしれない、などと想像をたくましくした。
やがてシャッターも開き、ふだんより三十分ほど遅れて、わたしたちも教室のなかに入っていった。わけもわからないまますっかり興奮して、教室でわいわい騒いでいたら、先生がやってきた。空き巣が入り、職員室が荒らされていたことの報告があり、先生も指紋を採られた、などと言っていた。いま考えてみれば、先生の方も興奮していたのだろう。わたしたちがもう空き巣事件に夢中になってしまったことは言うまでもない。休憩時間に「手がかりを探すんだ」と職員室へ向かうと、おなじことを考えたのだろう、ほかの子供たちに大勢会った。
その後、犯人がつかまったという話も聞かなかったから、結局つかまらなかったのかもしれない。戸締まりの大切さをやかましく言われたぐらいだ。
内田百の随筆に「泥坊三昧」というものがあって、百が三代つづけて泥棒に入られた家に、引っ越したことが綴られている。泥棒の話を聞いてもかまわず引っ越してきたものの、しばらくは日が暮れて薄暗くなってくると、いよいよ今夜来るのではないか、と胸騒ぎがしたという。
勝手口の電灯をつけっぱなしにしておくと泥棒も気が引けるのではないかと考えて、つけっぱなしにしておく。便所の電気もつけっぱなしにしておく。ここらへんまでなら、だれでも考えそうなことだが、そこは百先生、「泥坊入口」と書いた立て札を立てておいてはどうか、と考えるのだ。
泥棒は、自分が来ることをしっていたのかとぎょっとして、いい気はしないだろう、というのである。
さらに、「泥坊さんこちらへ」と誘導し、さらに「泥坊通路」「泥坊休憩所」と作っていったらどうか、と考える。だが、やりすぎては、「自分が怖いのだろうと見透かされて、かえって泥坊の思うつぼになるかもしれない。せいぜいが勝手口の内側に「泥坊入口」と一枚でいやな気がして、帰るだろうと考えるのである。
わたしは泥棒の心理はわからないのだが、果たして看板が出ているくらいで何か思うのだろうか。入ってやろうと決心して、準備万端整えている職業的泥棒(?)なら、そんな看板ごときでビクともしないだろう。
以前のところはなにしろ最上階だったので、あまり泥棒ということを考えたことはなかった。出かけるときも空気の入れ換え、とばかりに、窓を開け放って出かけていたものだ。それが、外壁の塗装工事で足場が組まれたときに、何階か下の部屋に空き巣が入ったという。足場だけでなく、その外側にスクリーンも張るために、空き巣としても外から見られる心配(?)がないのかもしれなかった。
さっそく注意が呼びかけられた。やがて作業が終わって、足場も解体されたが、かといって安心はできないという。特に最上階は危ないのだそうだ。泥棒が入るのは、一階からとばかりは限らない、屋上からロープを使って登山の要領で降りてくるのだと聞いた。
取られるほどのものがあるわけではないが、それでも空き巣に入られるのは恐ろしい。しばらくはベランダに面した側で寝るのも気持ちが悪かったものだ。
マンションの自治会では、それを機に、挨拶運動を始めた。そこは古い型の建物だから、オートロックもないし、どこからでも入れる。それでも、住民が相互に顔見知りで、気軽に話ができるような関係にあることが、何よりも「犯罪防止」に効果があるということらしかった。それまでは、エレベーターに一緒に乗り合わせても、うつむいて目を合わさないようにして、挨拶を避けるような身ぶりをされることも多かったのに、「住み良いマンションは挨拶から!」などという標語がでかでかと目の前にあるせいか、何となく自然に「おはようございます」と言い合うようになった。それがどこまで犯罪の抑止に効果があったのかどうかわからないが、エレベーターが一階につくまでの、何とも言えない緊張感がなくなっただけでも、よほど気分の良いものだった。
毎日、些細な犯罪から重大な犯罪までが報道され、ひったくりや空き巣などが身近に起こったりすれば、生活の安全が脅かされるように感じる。オートロックどころか、城塞のようなマンションもあるらしい。「以前の日本人は、水と安全はタダだと思っていたが、オウム事件以降、そうではなくなった。安全は金で買うものだ」という言葉を聞くこともある。
だが、「自分だけが安全」「自分の家族さえ安全ならそれでよい」という発想では、結局その人はどこにも行けなくなってしまう。狭い城塞の内側から一歩外へ出てしまえば、ありとあらゆることが起こる可能性があるのだ。むしろ安全を求めるなら、自分だけが安全、自分のごく狭い身内だけが安全、という発想ではなく、社会全体の安全を考えなくてはなるまい。
自分がほんとうに求めるものは、自分が人に与えることによってしか、手に入れることができない、というのはほんとうだ。
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