陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

木綿以降の事

2008-08-02 23:18:10 | weblog
「ドライメッシュシャツ」というのがすごくいい、というのを聞いて、試してみた。確かに風をよく通して、それ一枚でいると、木綿のTシャツと比べて、着ているだけで、“ああ、涼しい”という感じがする。ただ、肌にふれる感触がもうひとつ好きになれないのが難点だった。

古くなった木綿のTシャツの肌ざわりが好きだ。もう形など崩れてしまって、すそやえりも伸びてしまっている。全体に薄くなって、くたっとしていて、色もぼけてしまって、その格好ではゴミ出しにも行けそうにないようなTシャツなのだが、そのぐらいになると、ほんとうに肌に当たる布の感触が心地よい。休みの日に家でぐだぐだしているとき専用のシャツ(単に古くなっただけだが)がもう何枚もたまっているのだが、どれも捨てられないのだ。

柳田國男の『木綿以前の事』は連句の紹介から始まっている。
  分にならるる嫁の仕合   利牛
 はんなりと細工に染まる紅うこん   桃隣
  鑓持ちばかり戻る夕月   野坡

 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家をするはずの二番息子の処へ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷(あわせ)か何かをきょうは着ているというので、もう日数も経っているらしいから、これは不断着の新しい木綿着物であろう。次の附け句は是を例の俳諧に変化させて、晴れた或る日の入り日の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来る鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。
(柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫)

木綿が普及したのは16世紀以降、戦国時代後期から綿布の使用が普及したという。だがそれから百年近くが経っていても、まだ「木綿」というのは「江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、連想する習わし」だったのだという。

木綿にもこんな時代があったのかと思うと、隔絶の観がある。いまのわたしたちにとって、コットンという素材は、一番身近で日常的なものだろう。

木綿が普及する前には、人々は麻の着物を着ていた。いまのわたしたちからすれば、リネンのスーツやシャツは手触りも独特だし、暑い時期には気持ちがいいけれど、手入れもちょっと厄介で、値段もコットンにくらべれば高い、晴れの服という気がする(のはわたしだけか)。だが、麻しかなかった時代に木綿が入ってきたときは、人びとの生活に大きな影響を与えたのだ。ひとつにはその肌ざわり。もうひとつは、染めの容易さという点で。
すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚(はだ)を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類の親しみを大きくした。すなわち我々には裸形の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃(こまや)かになって来たことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。

皮膚感覚、という言葉がある。そういう言葉ができたのも、木綿がわたしたちの生活に入ってきて、柳田のいうように、「常人の肌膚を多感にした」からなのだろう。

幼稚園の頃だったろうか。毛糸の手編みのセーターを着せてもらったのだが、それがチクチクするから着ない、といってぐずったことがある。寒いから、上に着なさいとどれほど言われても、その肌にあたる感じがいやで、どうしてもがまんができなかったのだ。
こたつに入った母が編んでくれているのを楽しみにしていたセーターだった。ふだん、わたしが着ていたのは、紺だとかグレーだとかのくすんだ色が多かったのだが、そのセーターはやわらかなピンク色だったのだ。それでも、実際に着てみると、チクチクして、どうにもがまんができない。自分の感覚なのに自分でどうすることもできないのが悔しくて、おそらくそれで腹を立てていたのだろうと思う。

反対に、おそらくお下がりのパジャマだったと思うのだが、柔らかくなったフランネルの肌ざわりがとにかく心地よくて、捨てなさい、と言われても、ひざやひじが丸く突き出しているようになっても、ずっと着ていたような記憶がある、

この衣類が皮膚にふれる感覚というのは、なかなか侮れないもので、おろしたてのシャツの襟元にあたる感じになじめなかったりすると、それだけのことで一日中イライラしがちだったりする。こう暑くなると、ドライメッシュシャツは実に具合がいいはずなのだが、やはり肌に当たる感覚になじめないのである。

これも慣れれば平気になってくるのだろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿