陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「天才」って何?

2010-11-24 23:27:33 | weblog
電車に乗っていたら、後ろの席の話し声がいやに大きい。振りかえると、制服姿の高校生がふたり、話をしているところだった。

クラスメイトだか同じ塾に通う生徒だかの「アオキ(仮)」君が天才か、努力家か、ふたりのあいだで意見の一致をみないらしい。対立にならないように、冗談めかしてはいるものの、議論が熱を帯びるにしたがって、徐々に笑い声も減っていき、言葉にも微妙にトケが顔をのぞかせるようになってきた。そのうち論証も種切れになってきたか、

おまえな、何も知らんやろ、あいつ、ほんま頭ええねんで。
ちゃうて。むっちゃ勉強してんねんて。あいつくらい勉強したら、おれかてあのぐらいの成績が取れるって。

ということの繰りかえしになってきた。

つまらなくなったので、わたしはさきほどまで読んでいた本に戻り、活字を追っていると、しばらくしてまた急に大きな声が聞こえてきた。どういう話の流れか、今度はゴルファーの石川遼が、「ほんまもんの天才」か、「ほんまもんではない」か、という話になっている。

聞いていて、何となく奇妙に思ったのは、双方ともいわゆる「天才」と呼ばれる存在にはいくつかの条件があって、それをクリアすれば晴れて「天才」と呼べる人として認定されると思っているらしいことだった。意見が分かれるのは、その項目がふたりの間でずれているからなのだ。

確かにわたしたちは、誰それは「天才」だと気安くいう。ゴッホは天才画家だ、いや、セザンヌの方がもっと天才的だ、いやいや、天才画家というなら、ピカソを置いてほかはない……などというように。

この場合にしても、みんな「天才画家」と呼ぶためには、いくつかの条件があって、その条件が人によってちがうから、意見が異なるわけである。

だが、そんな条件の元になっている「天才」って、いったい何なのだろう。

わたしたちは勝手に、世間的に評価も高く、自分がすばらしいと思う画家を「天才画家」というカテゴリーに分類しているだけではないのか。

モーツァルトは天才だった、いやいや、ベートーヴェンが、いや、それを言うならバッハだろう……という議論にしても、彼らが天才の資質を備えているのではなく、逆に、彼らの存在を通して、わたしたちは「天才作曲家」というカテゴリーを創り出したのではないだろうか。

すばらしい作曲家、すばらしい画家、偉人、傑出した人びと。
そういう人びとたちを寄せ集め、共通点を抽出し、「だから天才なんだ」という論証になるようなものを見つけだす。わたしたちが「天才」と呼ぶ、その言葉は、そうやって生まれたのではないか。

わたしたちが規準とするような、「これぞ天才」と言われるような人がどこかにいて、その人を元に、比較対照するわけではない。「天才」というのは、人に張る、ただのラベルに過ぎない。わたしたちは、ある人のある特徴をとらえて、この人は天才だ、いや努力の人だ、などと分類するが、その分類に、客観的根拠があるわけではないのだ。

「天才」という資質が、偉大な記録や作品を産み出すわけではない。まして、ある科目で飛び抜けた成績を取らせるわけでもない。

そうではなくて、わたしたちがある記録や作品や点数をとらえて、「天才」というカテゴリに分類する、というだけの話なのである。

以前、ここで書いたことがあるが、いわゆる「性格」にしてもおなじ事だ。「やさしい」という性格があるわけではないのだ。わたしたちはある行為をとらえて、それを「やさしい」行為に分類する。そうして、そんな行為を取る人を、やさしい、と呼ぶだけなのである。

性格は、行為を引き起こすわけではなく、引き起こされた行為を見て、わたしたちがそれをいくつかのカテゴリーに分類し、そこからさらに行為をした人をも分類しているのだ。

それと同様に、結果を見て、そこからさかのぼってその原因を作った人を、「天才」と呼んだり、「努力の人」と呼んだりしているだけなのである。

見ず知らずの高校生に、君たち、原因と結果を取り違えているよ、とは言わなかったが、堂々巡りの話を聞きながら、そんなことを考えてしまったのである。