陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「同じ」という名の困難

2010-11-15 23:26:23 | weblog
中学時代の家庭科の授業で、先生が、家のお母さんのおみそ汁が毎日同じでも飽きたりしないのは、お母さんが料理のプロじゃなくて、毎日少しずつ味がちがっているからよ、と言っていたことを覚えている。

みそ汁の味がちがうのは、中に入れる具が、豆腐とネギのこともあれば、アサリやシジミ、ジャガイモとワカメのこともあり、季節によってはナス、あるいはカボチャ、タマネギなどさまざまにちがっているからではないか、とそのときは思ったのだが、のちのち気をつけてみていると、確かに、そう言われてみれば、油揚げとネギのみそ汁が続いても、微妙に味がちがっていたりして、なるほど、だから飽きないのかなあ、と改めて思ったこともある。

実際、自分で料理をするようになってずいぶんになるが、わたしの場合、几帳面というより、自分の料理の腕をあまり信用していないので、いつも料理の本の通りに、小さじ一杯に至るまできちんと計量し、時間も測ってやっている。ところがそこまでやっても、日によって味は決して同じではない。だからこそ、毎日毎日、みそ汁を作り、魚を煮たり野菜を煮たり肉を炒めたり、ほとんど変わりばえのしない食事を続けていても、飽きることはないのかもしれない。

外で食べるものにしても、売っているケーキや和菓子などにしても、その店の同じものは、いつ行っても同じ味である。当たり前の話ではあるが、これというのは、実は結構、すごいことなのだろう。

「味つけ」という言葉があるが、味を決めるのは調味料だけではない。醤油大さじ二杯、酒大さじ三杯、みりん大さじ一杯を使っても、同じ大根が季節によってまるで味がちがうし、味のしみ具合もちがう。

パスタ専門店に行くと、スパゲティが大釜でゆであがるたびに、店の人は一本口に入れて固さを確かめている。たかだか麺の固さなど、時間さえ見ていれば十分のようにも思うのだが、そんなに単純なものではないのかもしれない。素材などの不確定要素の強い味ともなれば、いったいどれほどのことを考慮に入れなければならないのだろう。

店によっては、創業以来の味を守っていることを看板にしているところもある。そんな店では、「同じ味」を日々出し続けていくための「秘伝」があるのだろう。

ちょうど、昨日と今日のわたしが同じではないからこそ、「同じ」ことをするために、その日、その日の特別な努力が必要なように。