陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

コウモリとして生きるとは

2010-11-14 22:59:34 | weblog
以前、病院に行ったときのこと。処置室で点滴を受けることになった。腕を台に載せたまま、じっとしているわたしの周囲を、看護師さんたちが忙しそうに行き来している。そこへ、看護師さんがふたり、その部屋に入ってきた。

ひとりは新しくその病院にやってきた人、もう一人はその人に、部屋のことや物がある場所について説明をする役目であるらしい。わたしも顔なじみの看護師さんは、新入りにあれやこれやと手早く説明を続けていく。

こんなふうにざっと説明しただけで、あらかた頭に入っていくなんて、さすがプロだなあ、などと、聞くつもりもないままぼんやり聞いていると、新入りがしきりに、この病院はいい、わたしが前にいた病院なんかは……と比べて、別の病院をひとしきりけなしては、ここを持ち上げている。ああ、そうなのか、ここはいい病院なんだ、働く人が言うのだから間違いないなあ、と、なんとなくわたしまでいい気分になってしまった。

すると、その人に説明をしていた看護師さんの方が、わたしはちょっと行かなくちゃならないから、あとはこの人に説明を聞いてちょうだい、と、別の若い看護師さんに案内を委ねた。

赤いセルのメガネのかわいい若い看護師さんは、自分よりかなり年上の新入りに向かって、カジュアルな口調で説明を始めた。メガネ嬢は「さっき、あの人に『$¥*!は△□$するように』って言われたかと思うけど、気にしなくていいから。そんな昔のやり方なんてやってる人なんて、いないから」と、微妙にトゲのある口調である。どうやら先輩に対して、微妙に含むところがあるらしい。すると新入りさんはそれに合わせて声を潜めるようにして「わたしも聞きながらちょっと変だな、って思ってたの」と言う。それからふたりはあたりをはばかるように「さっきあの人はこんなこと言ってたけど」「それって昭和のやり方よね」「勉強しないから古いのよ」と、先ほどまで話を聞いていた看護師さんの悪口を言い始めた。

そういえば、こういう子は中学や高校のころからいたなあ、と思い出して、なんとなくおかしくなってしまった。AのところではBの、BのところではAの悪口を言うような人である。当時は、バカだなあ、AとBが話をしないとでも思っているのだろうか、ふたりが話でもしたら、その瞬間に自分の立場なんてなくなるのに、と思ったものだ。近しいところにいるふたりなのだから、多少の反目があったところで、米ソの冷戦構造のようにはなりはしないのである。こんなことをやる子は、ちょっと先のことも見通せない、目の前の点しか見えない子なのだろうなあ、と思っていたものだった。

だが、その決して若くはない新入り看護師さんを見ているうちに、そうではないのではないか、と思ったのだった。少なくともその人は、そんなに意地悪そうには見えなかった、というより、ごくごく人の良さそうな、そうして、どことなく小心そうな人だったのである。

AのところではBの、BのところではAの悪口を言うような人というのは、AやBに悪感情があるというより、ただただ目の前にいる人を喜ばせようとしているだけなのかもしれないなあ、という気がしたのである。

コミュニケーションをしているときのわたしたちは、多くの場合、半ば無意識のうちに、相手が聞きたい話、興味のある話を選んでしているものだ。どれだけ自分が話したいことがあったとしても、ちょっと話したところで、相手が気のなさそうな様子を見せてしまえば、話したかった気持ちも、冷や水を浴びせられたように、立ち消えになってしまう。「KY」なんていう言葉ができるはるか前から、人と話をするわたしたちは、空気を読んできた。

相手が聞きたい話、というのは、自分を相手側に置いて、「あの人だったらこんな話に興味があるだろう」と想像する話である。実際のところ、それが当たっているかどうかは蓋を開けてみるまでわからないから、コミュニケーションはむずかしいし、逆にうまく当たればうれしいし楽しい。

司馬遼太郎が書いた若き日の豊臣秀吉は、みんなに愛想の良い言葉を投げかける人物で、まだ言葉のわからない赤ん坊にまで、お愛想を言うような場面がどこかにあったような気がする。それをたぶん「天性の人たらし」という言葉で表現していたように思うのだが(ここらへんははなはだアヤシイ記憶だけで書いている)、「人たらし」が「天性」のものであるのは、相手に自分を好きになってもらおう、とか、相手に取り入ろうなどと考えての行為ではなく、ただただ相手を良い気持ちにしたい、自分と一緒にいることで楽しい気分になってほしい、というサービス精神の発露であったからこそだ。

それと同じように、悪口を言う人も、実は秀吉と同じで、「自分の相手をしてくれる人に良い気持ちになってほしい」「楽しい気分になってほしい」から、悪口を言っているのかもしれない。

つまり、Aを褒めようと思えば、Aをただ褒めるやり方と、それと対照的な位置にあるBをけなすやり方があるわけだ。そうして、「その髪型、似合ってるね」という代わりに、「あの子、凝った髪型にしてるけど、全然似合ってないよね」と言うのである。

悪口を聞いて、相手を良い気分にしてやりたいと考える、というのも、なんだかな、なのであるが、とはいえ、わたしたちだって人のことは言えないのである。

料理が得意な人は、どうしたって料理の話をしてしまうものだが、それも多くの場合、自分の腕を自慢したいわけではなく、相手も同じように料理に興味があるだろう、少しでもおいしい料理を相手にも作ってもらいたいと思っているからこそ、そんな話をしているのだ。

そう考えてみると、行く先々で悪口を言って歩いているように見える人も、別段、悪意の塊というわけではないのだろう。それどころか、実は、自分に自信のない(というのも、何かに自信があれば、おそらく相手にもそのことができるようになってほしくて、そのことをつい話してしまうものだろうから)、気の小さい人ともいえる。

例の看護師さんだって、新しい職場で、すでにある人間関係の中に入っていかなければならない緊張感から、そんな振る舞いをしていたとは言えないだろうか。

悪意からではなく、相手を良い気持ちにしてほしくて悪口を言っているような場合、本人はそのことに気がついているのだろうか。相手の微妙な口調に反応して言っているだけではあるまいか。だからこそ、「AのところではBの、BのところではA」といったことができるのかもしれなかった。

二股膏薬、阿諛追従、おべっか使い……、そうした人を悪く言う言葉には、枚挙に暇がないほどだ。イソップにも「卑怯なコウモリ」の話がある。もちろん、何らかの意図、目的があってそんなことをする場合もあるだろう。だが、それ以上に、ほんとうは卑怯でも何でもなく、ただ、相手に対するサービス精神で、そうやっている場合だってあるように思う。

これまでそんなことをしないで来られた人は、ある意味で、運が良かったのかもしれない。人に相対したとき、誰かの悪口以外に差し出すものがあったのだから。