陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

公開する価値、しない価値

2010-11-10 23:09:25 | weblog
ここ数日、ちょっと忙しくて更新できなかったのだが、例の尖閣諸島での衝突事件のビデオをめぐって、ニュースサイトに

「海保に激励電話相次ぐ=「よく公開」「犯人捜すな」(時事通信社)
「映像見たかった」 海保に“支持”殺到(産経新聞)

などという見出しが並ぶのを見て、なんだかなあ、と思ってしまった。今日になって、名乗りを上げる人まで出てきて、これから先、どうなるか皆目見当がつかないけれど、なんだかなあ、という思いは深まるばかりだ。

以前、「うわさ話の値段」というログを書いた。情報はお金になる、というのではなく、情報というのは、お金とよく似た性質を持っているのではないか、ということを書いた。情報はお金と同じで、持っているだけでは何の役にも立たない。何かと交換することによって、力を発揮するが、いったん使ってしまうと、その力はなくなってしまう、という話だ。

そこでは、ある組織で上の人物の不行跡を知ってしまった数名が、その情報をどう使うかあれこれ算段した、という実際にあった出来事を、事実関係を多少変え、かつ曖昧にして書いている。曖昧に書きすぎて、何が何だかわからないかもしれないが、出来事の中味はこの話には関係ないので、法律には抵触しない程度のよからぬ話、ぐらいに思って、良かったら読んでみてください。

ともかく、当時、人の上に立つ人間があんなことをしておいて、素知らぬ顔をしているなんて許せない、処罰されるべきだ、そのためにどうしたらいいか、とあれこれ考え、匿名の手紙を出そうか、と言い出した連中が身近に出てきて、そのときもやはりわたしは、なんだかなあ、と思ったのだった。

話の規模はずいぶんちがう。もしかしたら、そんな卑近な話題と、今回の事態はまるでちがう、という人もいるかもしれない。だが、根本にあるのは、それとさほどちがわない義憤、正義感ではあるまいか。

そもそもビデオなど出る前から、日本側の対応に問題があったと考えていた人は、おそらくは皆無に近かっただろう。にもかかわらず、それが公開されなかったのは(そのことが適切かどうかの判断はさておき)、何らかの政治的配慮があったことはまちがいない。

そうして、政治的配慮というのは、それが良かったかどうだったかの判断に、多くの場合、時間がかかるものだ。あるいは、目立った動きもない、結果的に何も起こらないのが「良い配慮」であると言った方が正確かもしれない。何も起こらないのが「良い配慮」、困った結果を引き起こすのが「間違った配慮」であるとしたら、わたしたちの目に映るのは「間違った配慮」ばかり……ということにはならないだろうか。

だからこそ、政治レベルでの解決というのは、わたしたちにはわかりにくい。わたしたちの目にははっきりふれないまま、何だかよくわからないうちに終わってしまった、というのでは、どうもスッキリしないし、カヤの外に置かれているような気もしてくるだろう。

自分たちの手の内にある「情報」が、そういうよくわからない政治的決着と交換されようとしていることに危機感を覚えた人がいたとする。その人は、もっとちがうものと交換しようとした。その人が何を求めていたのかはよくわからないけれど、情報をおおやけにすることによって、もっと大勢の人に知らしめることによって、もっと「価値あるもの」と交換しようとしたのだろう。

だが、それがほんとうに「政治的配慮」より価値のあるものだと、現時点で誰に言えるのだろう。

自分の手の内にある情報をどうするか。
それは、その人にかかっている。けれど、より価値のあるものと交換しようとしても、その価値には値札はついていないし、状況によって刻々と変化していく。