陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

尊敬だの何だの

2010-11-02 23:18:22 | weblog
先日、こんな話を読んだ。
書き手が大学のある授業に出たところ、担当教授が開口一番、「先生を尊敬するように」と言ったのだとか。書き手は、その瞬間、「この先生はダメだ……」と思ったのだという。

尊敬の念というのは強制されるものではない、自然に湧き上がるものなのに、この先生ときたら……というわけである。

ただ、これを読みながら、ほんとうにその先生の真意は、そこにあったのだろうか、という気がした。

ちょっと前にも書いたが、「自分はすごいぞ」と自慢したい人は、「自分はすごい」という結論は、聞き手に出させようとする。

大前提:X大に合格する人は頭が良い。
小前提:自分はX大に合格した。
結論:自分は頭が良い。

という三段論法の、小前提の部分だけを言うのだ。
「おれってさ、X大卒だから」
「ぼくは学校時代、数学が得意だった」
「わたしはセンター試験は理科と英語が満点だったの」
「勉強なんか全然してないのに、五教科とも九割以上取れた」
もちろん、人によっては単に事実を事実として言っている場合もある。だが、結論部分を省略しているが、ただただ「自分が頭が良い」と言いたいだけの場合も少なくない。

「向こうから来る男の子がみんな、あたしのことをジロジロ見るの」という言葉は、「美人は男性から注目される」という大前提をふまえた小前提の部分であり、彼女がほんとうに言いたいのは結論にあたる「わたしは美人だ」という点である。

「無着色」とか「無添加」という表示も、そもそも表示義務のある添加物を使用していないのだから、意味のない表示である。だが、「無着色(無添加)の食品は健康に良い」という大前提と、「ゆえにこの製品は健康に良い」という結論を省略しているのだ。

「わたしは賢い」「オレはイケメンだ」という結論を直接言う代わりに、そこに至る筋道だけを敷いておき、結論は聞き手が必然的に導き出させようとする。こうしたレトリックは、わたしたちにとっておなじみのものである。

「自分を尊敬しなさい」と言う人は、果たして相手を説得して、自分を尊敬させたいのだろうか。もしそうなら、それとは異なる小前提を言うのではないのか。むしろ、

大前提:尊敬する人の言うことは聞かなくてはならない
小前提:先生とは尊敬すべき人である
結論:先生の言うことは聞かなくてはならない

という三段論法の小前提ではないのだろうか。つまり、その先生の真意は「自分がこれから教えることを頭に叩きこんで、使えるようになれ」ということだったのだろう。

「先生を尊敬するように」という言葉の真意は、おそらく自分を尊敬しなさい、というところにはない。自分の言うことをよく聞いて、教えられた通りに勉強しなさい、ということなのだ。「尊敬は強いるものではなく……」というのは、おそらく的はずれの批判なのだろう。