陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

非がある側の判定に意味があるんだろうか

2010-11-06 23:20:04 | weblog
今朝、goo のトップからブログに入ろうとして、たまたまこんなページに目が留まった。

「ダメダメ噛まれる」子供が愛犬に触ろうとしたら…」

犬を連れていたところ、小さな子供が手を延ばしてきた。そこへ、その親とおぼしき人物が、「ダメダメ噛まれる、噛まれる!」と静止したという。その言葉に飼い主は、気分を害したというのである。

弟が小さなころ、犬に噛まれたことがあったわたしなどから見れば、その親の気持ちは非常によくわかる。飼い主がどう感じるかなど、意識に上る前に、子供を止めようと必死だったにちがいない。

そのときは、母と一緒に弟を連れて近所の病院へ駆け込んだのだが、お医者さんはわあわあ泣いている弟の手当てをしながら、「犬というのは、よほど年寄りの犬でないかぎり噛むものなんだよ。だから、つぎに犬に会っても気をつけなきゃいけない」と言いきかせていた。わたしはこわごわ、それでも興味深く一部始終を観察しながら、お医者さんの話を聞いて、なるほど、これからは自分も犬に気をつけなくては、と思ったのだった。

そのページには、親としての意見、ペットを飼う側の意見の双方が紹介してあった。中には「ワンコに対して子供以上の感情を持っています。」という愛犬家の言葉まで引用してあり、「友人関係は人間とのあいだに成り立つのである」(『ニコマコス倫理学』)と言ったアリストテレスは、こんな言葉をみたら卒倒するだろうなあ、などと思ったりもしたのだが、ここで引いたのはそれぞれの見解の当否が言いたいのではない。

わたしが引っかかったのは、最後にまとめとして書いてある

「このチワワの飼い主と、触ろうとした親子、どちらに非があると思いますか?」

という言葉である。

ふたつの立場があり、ふたつの考え方がある。それぞれに「一理」があるから、自分の考えを主張しているわけだ。

だとしたら、そこで非がどちらにあるかを考えて、いったい何になると言うのだろう。むしろ、考えるべきは、どう意見を寄り合わせ、一致点をどこに見出すか、ではないのか。この場合なら、愛犬家と子供連れと、両方の人びとが、どうすれば事故もなく、気持ちよく過ごすことができるかどうかしかないはずだ。

なぜこんなことを言っているかというと、ほんとうはペット問題などではなく、尖閣諸島のことが頭にあるからなのだが、すでにそのことについては大勢の人が考えているし、わたしよりちゃんとしたことを書ける人がたくさんいるような話題に、わざわざわたしがふれることもあるまい。第一、いまの段階で唯一絶対の解答が出せるような問題でもないだろう。ただ、その上でわたしが思うのは、「どちらが正しいか」と言っても意味などないのに、どちらが正しいか、というレベルで語ろうとしている人が、なんだか多くはないか、ということなのだ。ビデオをYou Tube にアップした人のほんとうの意図は、わたしなどにはわかる由もないが、なんとなく、ほら、中国の方が悪いだろう、とその証拠を見せたかったのではないか、という気がしてならないのだ。

考えるべきは「どちらに非があるか」ではなく、それぞれ異なる立場を持った両者が、折り合っていける地点を探すことだろう。
犬が悪い、子供が悪い、親が悪い、と言い合っても、何の解決にもなっていかないことは言うまでもない。子供に「犬は噛むものだ」と教えることや、人が大勢集まる場所に犬を連れて行かないことといった、それぞれが譲れることを譲り合うことでしか、それぞれの立場にある人が共存することはできないのだ。

寺田寅彦が、断片のように書きつけた文章を集めた「柿の種」という随筆集のなかに、こんな文章がある。
 人殺しをした人々の魂が、毎年きまったある月のある日の夜中に墓の中から呼び出される。
 そうして、めいめいの昔の犯罪の現場を見舞わせられる。
 行きがけには、だれも彼も
「正当だ。おれのしたことは正当だ」
とつぶやきながら出かけて行く。
 ……しかし、帰りには、みんな
「悪かった。悪かった」
とつぶやきながら、めいめいの墓場へ帰って行くそうである。
 私は、……人殺しだけはしないことにきめようと思う。


わたしも、「人殺し」だけはしたくない。実際の「殺し」だけでなく、メタファーとしての「殺し」も。