陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ストレス、ありますか

2010-11-04 23:12:12 | weblog
その昔、引っ越しを手伝いに行ったことがある。

食器を新聞紙にくるみながら箱詰めしていたところ、食器棚の奥から、紐でゆわえた状態の茶碗や皿がたくさん出てきた。その家の主に、これはこのまま箱詰めしましょうか、と聞いてみると、もらい物なのだが、もらったきりしまい込んで、いまのいままで忘れてしまっていた、という。もっと早く気がついていたら、このあいだやったフリーマーケットに出すこともできたのに。

それから、いいことを思いついた、とばかりに、わたしの方に向き直った。
「これ、あげる。このまま持って帰って」
そう言われても、毎日使っている茶碗や皿は、当然ながら、すでに持っている。おまけに、毎日使うものだけに、できれば自分の気に入ったものを使いたい。しかも、客を日常的に迎えるという生活をしているわけではないわたしには、予備も必要ない。しかも、わたしはあまり物を持ちたくない。おそらくそんなことを考えて、見るからにいらない、という顔をしていたのだろう。相手もそれを察して
「ストレス解消に割っちゃってもいいから」と言うのだった。

そう言えば、昔、腹を立てて皿を何枚も叩きつける映画を観たことがあるような気がするが、ほんとうに皿を割ったぐらいでストレスが解消されるものだろうか。皿を割ると、後かたづけが大変だ。大きな破片は、紙にくるんで「割れ物」と書いてゴミに出さなくてはならないし、細かい破片は掃除機を使わなければ危ないだろう。後かたづけのことを考えるだけで、ストレスが溜まりそうだ。

そうは思ったが、どうしても持って帰ってもらいたそうな相手の顔を見て、わたしは仕方なしにそれを引き取った。その皿や茶碗は、しばらく家の食器棚の奥に眠っていたが、今度は自分の引っ越しが決まったときに、ゴミの日に出したのだった。

ところで、その食器を引き取りながら、考えたことがある。
果たして自分にストレスがあるのだろうか。
そのときもそう思ったのだが、いまのわが身を振り返っても思うのだ。どうも、「ストレス」という言葉に該当しそうなことがらが、わたしには思いあたらないのである。

もちろん、わたしもいくつかの問題をいまも抱えているし、気に掛かっていることもある。心配なことも、腹立たしいこともあれば、会うと思っただけで、ため息が出てしまいそうな人もいる。頭の中で、よせばいいのに過去にされたあれこれのイヤなことを、棚卸しするがごとくに思い返して、ふたたび悔しい気持ちをよみがえらせたあげく、後悔してしまうこともある。

だが、どれもストレスというのとはちがうような気がするのだ。解決すべき問題だったり、自分が成長することによってしかクリアできない問題だったり、つきあう上で慎重さを要する相手だったり、で、どう考えても「ストレス」とは性質のちがうことがらだ。自分に解決を要求することがらは、皿を割ったぐらいではどうにもなるまい。

以前、病院に行って、ストレスはありますか、と聞かれて、ストレスはありません、と答えて笑われたことがある。どうもわたしはストレスの感受性が、人よりかなり鈍いのかもしれない、と思ったのだが、ともかくそのとき聞いた話をもとに、「陰陽師的ストレス度チェック」を書いた。転んでもただでは起きないのである。ちょっとちがうか。

まあ「ストレスはありません」ときっぱり答える人は、あまり病院には来ないらしい。考えてみれば当たり前の話ではあるのだが。

辞書を引けば「物理的・精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ、また、それに対する生体の防衛反応」(『明鏡国語事典」)と出てくるストレスであるが、これでいくと、ありとあらゆることがストレッサーに成りうる。ストレスを根絶しようと思えば、生きるのをやめるしかなさそうだ。

ストレスというのを、未だにわたしはよくわからないでいるのだが、皿を割って解消できるようなものなら、別にあってもかまわないような気がする。昔のログでは、人間関係の潤滑油、と書いたが、要は会話のちょっとした口火だったり、あるいは自分の忙しさの自慢だったりに使うべきタネなのだろう。

いや、こんな話を書いたのは、いまさっき、皿を落として割ってしまい、舌打ちしたいような気持ちで片づけて、ほんとにこんなことでストレスが解消できる人がいるのだろうか、と人生何度目かで思ったからなのだが。