hiyamizu's blog

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川村湊「村上春樹をどう読むか」を読む

2009年04月26日 | 読書2
川村湊著「村上春樹をどう読むか」2006年12月、作品社 発行を読んだ。

村上春樹は、芥川賞をもらい損ねたことでわかるように、日本の作家、批評家のかなりな部分が評価していないように思える。私自身も、面白く読む気持ちが半分、フェイク(まやかしもの)と思う気持ちが半分だ。
私にとって、日本文学の将来の方向などはどうでも良く、フェイクであろうと面白いことが一番なので、楽しく読んできた。しかし、考えてみれば、なぜ村上春樹を評価しない人がいるのか、あるいは、そのように評価されているのか、村上春樹に関する評論を3冊ほど読んでみた。

今回はその最後の第3弾。



村上春樹は、1979年文壇登場以来、喪失感漂う同世代の青春をポップな感覚と洒脱な表現、柔らかな叙情性で定着させ、今や国際的に評価されている。これに対し、著者は各小説の細かい点をあげつらって、強引な批判を加える。

例えば、以下だ。

「グローバル化進展中の国(中国、ロシア、東欧)では、村上春樹の小説は、高度資本主義社会下での個人の生き方、ライフスタイルの教科書かモードブックのように読まれている。マンションの一室に住み、冷蔵庫に缶ビールが満たされ、GパンとTシャツとスニーカーで暮らし、会社勤めはせずに自室で“文化的雪かき”のような仕事で収入を得ている独身男・・・」

「この(9・11)大事件に対して、村上春樹ははきりとした反応を示したことがない。アメリカに仕事部屋を持ち、多くの自作をアメリカで翻訳出版し、また多くのアメリカ文学を自分で日本語に翻訳している彼が、「アメリカ」での歴史的な大事件にほとんど反応していない・・・」

「毎日新聞に『神宮球場の外野席で・・・』と題した文章で、・・・神宮の生ビールが東京ドームより百円安いといったことを書いている間、アメリカ軍(とイギリス軍)はアフガニスタン攻撃を開始し・・・」

「村上春樹の小説は、・・・『新世界』を目指す物語なのであり、・・・。それは彼が自分の作品世界とすべき『場所』を持たない・・・」「それが世界に受入れられた原因の一つだ。」



以上のようにイチャモンともいえる批判を加えた後で、「おわりに」で著者は言う。

村上春樹をどう読むかではなく、私は、村上春樹はいつ『文学』になるか、を問うべきだったかもしれない。彼の小説の言語は、身体性から限りなく離れた記号的なものであって、それは意味をつるつると咀嚼し、嚥下し、消化して、後には何も残らない、限りなく透明に近い文章なのだ。村上春樹はそれを『文体』だと勘違いしているようだ。・・・
こんなわかりやすく、こなれやすいものが『文学』であるはずがない。そんな声に応えて彼は、作品のここかしこに罠や落とし穴や迷路をこしらえて、小説をませに言語のゲームと化そうとした。それが新しい文学の誕生であり、・・・とは思えない。

これもあまりの言い様だ。深刻さがないと文学でないのだろうか。以上に続けて、著者は「私は従来の『文学』にとらわれているのかもしれないが」というようなことを言っているのだが。



川村湊(かわむら・みなと)は、1951年北海道生まれ。法政大学法学部政治学科卒業。1982~86年韓国・東亜大学助教授を経て、現在、法政大学国際文化学部教授。文芸評論家。1980年「異様なるものをめぐって─徒然草論」で群像新人文学賞受賞、1995年「南洋・樺太の日本文学」で平林たい子文学賞受賞、2004年「補陀落―観音信仰への旅」で伊藤整文学賞。他の著書に、「異郷の昭和文学」「戦後文学を問う」「満洲崩壊」「妓生」「補陀落」等。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

私も、村上春樹の小説が、哲学的とも、含蓄あるものとも、社会への異議申立てであるとも、人間愛にあふれているものとも思わない。しかし、同時に、外面だけの言葉の遊びだけとも、ファッションだけとも思わない。確かに、いきなり異様な話が出てきて、ホラー的な場合がある。その場合でもカフカ的と言えば言えるし、変な隠喩を想定しないでも、そのまま飲み込んでそれなりに面白く先に読む進めることができる。

今後の新しい文学の方向とも思わないが、一つの個性的文学であることは間違いないと思う。そして、村上春樹の文壇・既存メディア無視、無国籍性、一方では、インターネットで丁寧に質問に答えるなど、自分の生き方を貫く姿勢に好感、あこがれを覚える。



似た題名の本に、「世界は村上春樹をどう読むか」(編集:柴田元幸、藤井省三, 沼野充義, 四方田犬彦、2006年10月、文藝春秋発行)がある。この本は、17カ国、23人の翻訳者、出版者、作家が一堂に会し、それぞれの国で村上春樹がどのように読まれているか、意見を交換したシンポジウムの記録集だ。

シンポジウムの後で沼野充義氏はこう述べたという。
村上春樹が世界でかくも受容されているのは、彼が全てを露わにせず、解釈を読者に委ねているからだろう。三島由紀夫や川端康成のように、「日本的なもの」や特定の思想をはっきりと提示し、読者の役目がそれを受け取るか否かだけになるならば、このようなシンポジウムは成立しえまい。もし成立にこぎつけたとしても、それはどれが正当な解釈か、といった論争に発展するばかりで、今回のように多様な読みを許容するものではないだろう。ハルキは自らは何も語らず、常にひっそりと隠れている。


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