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電車など公共の場で、「みんなに笑われちゃうよ」「ほら、人が見てるよ」「お願いだから静かにして」などと若いお母さんが小さな子に一生懸命怒っているのをときどき聞く。社会性を身につけさせることや、我慢を教えることも必要なのだろうと思う。
けれども、しつけのためというよりは周囲の人の手前があって過剰にしかっている、といったシーンにぶつかると痛々しく感じてしまう。
略
小さい子が駅の改札で、「スイカ」を当てるのをやってみたいらしくて、もたもた通っている。お母さんが「早くしなさい」と困っているけど、後ろに並んでいる私は、「ゆっくりやってください」と思う。
大人の論理を押し付けることないんじゃないのかなあ、と思うのだ。子どもは、小さな大人ではない。
子どもは、子どもの論理で生きている。そうして、子どもも社会の一員なのだ。
人生には、年代ごとのきらめきがある。幼年時代は大人になるためにだけあるのではなく、そのときだけの喜びを味わうための時代でもある。
――――引用終わり―――――
私も思う。子供は大人の未完成品ではない。子供時代はその人にとって非常に貴重で、人生の大きな部分を占める。歳をとり最近とみに年月が過ぎるのが早く感じるが、小学校時代の6年間はとても、とても長く感じたものだった。そして、少なくとも子供としては衝撃的な事件が多く起こった。
また、自分で言うのも気が引けるが、最近は年寄りが多いせいもあり、社会の中でかなり重きを置かれているように感じる。しかし、子供は、一人ひとりは甘やかされていても、社会の中での子供の位置づけはけして重要視されていないように思える。
子供の居ない社会は考えられないのだから、無理な面はあるが、大人から見て望ましい子供でなく、子供自身の代表意見を何らかの形で社会に述べる仕組み、機会はつくれないものか。小学校でのクラス会、生徒会はこの意味で機能しているのだろうか。教育制度を議論する場に、何らかの形で子供自身の意見は反映されているのだろうか。
子供達は大人に癒しを与え、夢を抱かせ、思い出させることで、社会に大きな貢献をしているが、そのためだけに存在するのではない。子供達も社会を構成している構成人員であり、子供達自身幸せに過ごす権利がある。
オーストラリアやカナダで、無料で利用できる広々とした公園がどこにでもあるのを見ると、日本の子供達がかわいそうになる。豊かな社会のためには、教育だけでなく、子供自身が楽しく遊ぶ環境も必要だろう。
50年以上前の子供としては、貧しかったあのころの方が子供には恵まれた環境だったように思える。