hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

ナイアガラの滝(1)

2007年09月29日 | インポート
エリー湖から流れてきたナイアガラ川は、川の真ん中のゴート島で二つに別れ、カナダ滝と、少し下流のアメリカ滝になる。両者とも直後にまたナイアガラ川となり、オンタリオ湖に流れ込む。アメリカ滝はカナダ滝より1mほど高く、水が流れなくなってしまうので、写真遠くに見える橋のような水門で水量を調節して、1 : 9 流れるようにしている。



カナダ滝は、落差57m、馬蹄形で幅670m。



アメリカ滝は、滝壺に落下した岩石が堆積しているので、落差20mから30mほどで幅は260m。写真右側の小さな滝をブライダルベール滝と言い、落差55m、幅15m。



ダブルデッキ・バスでナイアガラ半日観光ツアーにいった。



まず、テーブル・ロックと呼ばれるポイントでカナダ滝を真横から見る。昔はテーブルのように滝のほうへ突き出していたが、滝に侵食で崩れ落ち、名前だけが残った。



すぐ傍の建物からエレベータで下に降り、黄色いポンチョを着てカナダ滝の裏側を見る。ダイアナ妃、モンローや、ケネディなどの見学時の写真がある。期待してトンネルを進むと、なんと、ただの霧が見えるだけ。

       

がっくりきて戻り、途中を曲がると、滝を横から見られた。すごい迫力だが、ビショビショになり、メガネもカメラも水浸しでまともな写真が撮れない。

       

この場所を後で行く船から見たのが、下の写真。右の崖の真ん中に空いている穴がこの場所。



この後の霧の乙女号 Maid of the Mistでの写真は次回。


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トロントからナイアガラへ

2007年09月28日 | カナダ東部

トロント(Toronto)
カナダ最大の都市で、オンタリオ州の州都である。553mと世界一の高さであったCNタワーは一週間前にドバイに建築中の建物に抜かれて世界で2番目になった。写真は飛行機から見たトロント。CNタワーがかすかに見える。




高速道路
カナダ・オンタリオ州の高速道路は、会社所有の有料道路が1本あるだけで、他は州営で無料。ただし、手入れが十分でなく凸凹が多い。401号線は広いところでは20車線ある。



ウェランド運河(Welland Canal)
カナダのオンタリオ州にある全長43.4 km の運河。この運河でナイアガラの滝を迂回してエリー湖とオンタリオ湖を船が行き来できる。ナイアガラの滝の高さは54 mだが、この運河の標高差は約100 mあり、これを8個の水門で解消している。


ナイアガラ Niagara Falls(町について。滝は次回)
ナイアガラの町(アメリカ側には行かなかった)の繁華街は、お化け屋敷などの見世物小屋風のイベントもの、ファーストフードなどが立ち並び、華やかなりし頃の昔の日本の温泉街を思い出した。とくにClifton Hill と、交差するVictoria Avenue は夜12時ごろまでにぎやかでネオンがまぶしい。
        


ワイン
ナイアガラ地方はカナダ一番のワインの産地で大小40ものワイナリーがある。とくに凍ったぶどうからつくるアイスワインは有名だ。試飲ができるワイナリー・ツアーもあるが、アイスワインだけは有料だ。なにしろ、1/2の大きさで数千円なのだから。アルコールに縁のないわれわれはワインは今回もパスする。人生の大きな楽しみが欠けているような気がする。


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成田からトロントへ

2007年09月27日 | カナダ東部

9月25日に成田からトロントまでエアカナダのBoeing 777 (B777-300) に乗った。

白鳳が居た
成田ではどこかの航空会社のカウンタへ並ぶ列に頭一つ飛び出した何人かがいる。近づいてみると浴衣すがたでちょんまげだ。お相撲さんだった。モンゴルに行くのだろう。

エスカレータのところで、下から登ってくる白鳳とすれ違った。TVで見る顔と同じだ(当たり前)。奥さんが手を振ると、お付の人と話しながらチラッと見上げて、軽く会釈をした。「出発の日から幸先い良いわ」と奥様はご機嫌。
私は、「朝青龍だったら、口をへの字にしたまま、無視しただろう」と思った。格闘技の戦士らしい朝青龍の方が私の好みなのだが。

機上映画
エアカナダのBoeing 777の席で見られる映画の数だけは多い。しかし、日本語吹き替えは“ Ocean’s Thirteen” のみだ。ANNとの共同運行なのになんたることか!

「映画」の中の、「ハリウッド」という分類項目には、“Ocean’s Thirteen”、”Pirates of Caribbean”、”Georgia Rule”の他は、”Shrek The Third”, “Surf’s UP”の2つのアニメのみ。”Pirates of Caribbean”は既に見ているので、“Ocean’s Thirteen”と”Georgia Rule”を見た。

前者はジョージ・クルーニー、ブラッド・ピットなど千両役者はそろっているのだが、お定まりとはいえ、あまりにもすべて旨く行き過ぎで「どんどん、やれば」という気になって力が抜けてしまう。

後者は、乱暴なティーンエージャーの娘が、アイダホの祖母(ジェーンホンダ)の農場に送られ、やがて・・・と、いう映画だが、久しぶりのジェーンホンダも評判ほどではなく、「いいんじゃない」という映画だった。もっとも英語なのでこまかいところわからずの感想です。

気流状態が悪く、離陸後3時間も食事が出ず、何回も、日、英、仏の3ヶ国語でアナウンスが入るので、映画の中断が長くうんざり。おまけに、病人が出て、医者を探したりの大騒ぎ。

他に眺めた映画は、「AvantGarde」が、”Lookout”, “Waitress”, “Kenny”で、「Classic」が、”The Time Machine”(2回目)など。

ほぼ予定どおりにトロントに着いた。

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秋のキリギリス

2007年09月24日 | 海外

夏には蟻としてせっせと働いたので、冬も間近な秋になった今はキリギリスになって生活を楽しみたい。私は今、秋のキリギリスである。厳しい冬を前につかの間の秋を楽しんでいる。

9月11日のブログにも書いたが、明日9月25日から10月3日まで、ナイアガラ、ケベックから「赤毛のアン」の故郷、プリンスエドワード島へ行く。今回はツアーなので、いつもよりあわただしいが、日程がほぼ決まっているので、安心だ。
世界一美しい島が楽しみだ。時間があれば、現地から写真などアップしたい。

では、行ってきます。

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私の読書記録

2007年09月23日 | 読書

退職前
1998年ごろから2005年までの私の読書記録を見ると、7年近くの82箇月で1041冊の本を読んでいる。月平均12.7冊を読んでいることになる。その後も丹念に記録をとってあり、2001年までは週3冊のペースで本を読んでいた。テーマや著者を決めて何冊も読んだり、手に入る本は何でも濫読したり両方の読み方をしていた。

買い物ついでに土日に図書館に行き、5冊ほどの本を借りてくるのが日課になっていた。
勤めていたときは、短い時間に集中して読書し、それが気分転換になっていたようだ。


退職後
退職してからは読書三昧になるかと思っていたが、思っていたほど本は読まない。朝から晩まで本を読んでいることなどとてもできないし、本を読むと集中してしまう癖があり、長時間の読書は体力、気力的に無理になっている。

退職した2005年には113冊、2006年は約60冊とむしろ読書量は減少している。退職後は、年に3ヶ月以上海外にいるので、その分を差し引いても、それぞれ、12.5冊/月、6.7冊/月で大幅減である。今年は、読書記録をつけるのさえ止めてしまった。

海外でものんびりしているので、本でも読むかと思って最初の長期滞在時に本を数冊持参したが、まったく読まなかった。海外の川べりのベンチや、芝生に寝転んで余裕をこいての、ちょっとわざとらしい読書をしているイメージがあったのだが、パースや、バンクーバーの見事な自然はただぼんやりと見ている方が良い。

家に居るときも、食事など家事の手伝い、庭仕事などでバタバタしていて、落ち着いて読書する雰囲気になかなかならない。たまに、ゆっくり本を読むかと思っても、寝転がると、ついついそのまま寝てしまう。集中力が衰えているようだ。そのくせ、ネットでいろいろ調べたり、他人のブログを読んだり、数時間も続けてから、目がぼんやりして止めることも多い。TVも思っていたほど見ない。一日一時間程度だろうか。TVの映画もあまり見ないかわりに、ネットでの映画はときどき見る。読書、TVがネットに移ったのだろうか。

荷物を減らし身軽になるため、ここ10年くらいほとんど本は買っていない。図書館を利用している。
近年、横浜市の図書館サービスが向上し、図書館のホームページにアクセスし、本を検索、予約し、借りられるようになるとメールが来て、駅にある出張所で受取れるようになった。きわめて便利であるが、予約は一人6件までで、人気の本の予約数は数百件になることもあり、延々とまたされる。したがって、予約枠は常にほぼいっぱいで、結局図書館に行っていたときより借りる本は少なくなっている。
本はやはり手にとってパラパラ見て選ぶのが一番よいようだ。思わぬところで面白い本に遭遇したり、興味なかった分野の面白みが分かったりする偶然の出会いが図書館にはある。

ずっと家に居座って3年になろうとしている。奥さんが何か言い出す前に一人で図書館にでも出かけることにするかな。



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西川美和「ゆれる」を読む

2007年09月22日 | 読書

「ゆれる」ポプラ社を読んだ。監督デビュー作「蛇イチゴ」で映画賞を総ナメにした西川美和が4年ぶりに挑んだ書き下ろしだ。監督・脚本:西川美和、出演:オダギリジョー、香川照之で2006年に映画化され、各種の賞を受賞した。


東京で写真家として成功した外見もかっこいい弟。さびれた田舎の実家で父親とガソリンスタンドを営んで地味に暮らす従順でおとなしい兄。対照的な兄弟、だが二人は互いを尊敬していた。
弟が母の法事で久々に帰省し実家に戻る。ガソリンスタンドの社員になっていた兄弟の幼なじみの女性、千恵子と弟が一夜を過ごした翌日、3人は渓谷へと向かった。
そして、渓谷の吊り橋から千恵子が落ちてしまい、兄が殺人罪で逮捕される。事故だったのか、事件なのか。裁判が進むにつれ猛の心はゆれる。

自分勝手で父親とそりが会わず、母の葬儀にも帰らなかった弟は、昔から兄をかばってきた。おとなしい兄は、何事も心にしまい、我慢、我慢の連続。そして、「事件、事故を契機として」と、昔からある兄弟の間の愛情と嫉妬の話と言ってしまえばそれまでである。しかし、1章ごとに異なる登場人物の語りで進められていくので、各人の心情が良く分かる。こんな心理を映画で表現できるのだろうか。

小説としては、今一歩ものたりない。各人は良く描けているが、厚みが少ない。残念ながら私は、映画は見ていないのだが、小説と映画の両方を見てみると、より面白いかもしれない。


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母 (7)死

2007年09月21日 | 個人的記録

母が10月末の深夜に死んだ。93歳、老衰で、特に苦しむことなく逝った。もう5年前のことである。

毎日のように病院通いをしていた妻によれば、それまでは食事も、だんだんゆっくりになってはいたが、一人でスプーンを口に運び、受け答えもできていた。
その日は昼飯は食べたようだったが、呼びかけても反応が少なく、眠っているようだったので、そのまま帰って来たと言う。

夜23時ごろだったろうか、2階にあがって寝始めたとき、寝付かれない妻が起きて、導眠剤を取りに階段を降りて行くときにちょうど電話がなった。厳しい顔で戻ってきて、病院から「様子がおかしいから病院へ来て欲しい」と言われたと言う。「何なんで?」と思いつつタクシーを呼び,すぐ着替えて、15分ほどの病院へ掛けつけた。

ナースステーションのそばのいつもの病室へ行くと、看護婦さんが出てきて、「深夜なのでバタバタすると他の人に迷惑となるから個室に移しました」と言いながら、ちょっと離れたところの個室に案内する。ドアが半分閉じられていて、中にいた別の太めの看護婦さんが出てきて、「いまお医者さんが来て説明しますからちょっと待っていてください」と言われて部屋へ入れてくれない。のぞくと、酸素吸入マスクをかぶっていて、「もう駄目なのかな」、「一体どうなっているのか。まさか?」とも思う。

小柄な医者がやって来て、部屋の中に案内された。母を見ると、ピクリともせずに横たわっている。なんだか母のような気がしない。“もっとも最近どんどん痩せてきたからな。子供の頃と人生最後の頃は急激に変わるんだ”と思う。医者がムニャムニャとしゃべっている。
「11時ごろから呼吸が止まっています。タンがからんだのを取ることができなかったからね」

今度ははっきりした声で「それではこれから死亡を確認しますから」と言う。心電図の平らになった線と脳波がどうのこうのと言ってから、「よろしいですか?0時21分ご臨終です。死因は老衰ですね」と威厳のない声で告げる。なんだか死因も、そして今死亡なんてことも納得できないが、事実は事実として認めないと、と頭がきっちりしない。

「タンが取れなかったつて言うのは一種の医療ミスじゃないの」と一瞬思ったが、93歳だし、しかたないかなと思う。最近、母はいつも「もう十分よ。何にもできなくなっちゃって、早く死にたいのよ」と僕に何度も言っていたのを思い出す。

看護婦さんと妻がしゃべっている。
「着替えの洋服は持って来ていませんよね。」
「急だったもので。こんなことになるとは思ってませんでしたので。今日来たときはなんでもなかったんですよ。眠っていると思っていてそのまま帰ったので」何でも自分のせいだと思ってしまう妻はオロオロしている。「誰もあなたに、あれ以上面倒を見るべきなどとは言えないよ」と思ったが、何も言わない。

「お年寄りは急変することがありますからね。それでは身体をきれいにしますので、ちょっと部屋を出ていただけますか」
「はい」
事が一段階ずつ進んでいく。

「ご遺体はこの病院に出入りしている葬儀屋さんに預けるように連絡しましょうか?このまま病院に置いておくことも、申し訳ありませんができませんのでね。それともご自分でご自宅に運びますか?」と、いかにもしっかりした看護婦が聞く。
妻と顔を見合わせながら、「こんなことになった場合は、自宅近くの葬祭場、○○祭典に決めているのですが?」と話す。看護婦さんは、「そうですか」、すこし間をおいて、「すでに互助会など葬儀屋さんが決まっている場合もありますからね。それでもこちらは結構ですよ。では、連絡をとってご相談ください」と言う。
「家に帰ればわかるのですが、電話番号が今わからないので、どうしようかな」と言うと、「では、こちらで調べて、電話をかけてみましょう。○○祭典ですね」と意外にあっさりと看護婦さんが言い、奥へ姿を消す。

妻と二人、ただ突っ立ったままでいると、しばらくしてからさっそく掛けつけた葬儀社の男の人が、もう一人の若い人を連れて挨拶にくる。母は簡単な棺おけに入れられた。地下だろうか、いつも使わない出入り口にバンが止められていて、後ろから棺おけが積まれる。いつのまにか、そばにさきほどの医者と看護婦さんが来ている。車が出るとき皆一斉に手を合わせてお辞儀をする。すべてが、流れるように進む。

結局その晩は、一晩葬祭場に母を預かってもらうことになった。
午前2時頃、家に帰ってから、妻は一睡もできなかったらしい。私が、ぐっすり寝てしまったのを、「自分の親が死んだのに。信じられないわ」と未だに非難される。

翌朝10時頃病院へ行って死亡診断書と入院中の身の回りの荷物を受取った。帰りに葬儀社へ寄り、係員のいかにもやり手の女性が、我が家の菩提寺に電話で相談しテキパキと通夜と、告別式の日程を決定する。

写真の載ったノートを見せ、いろいろなオプションから葬祭のメニューを決定する。母の希望でもあったように、簡単に簡単にと思っていても、敵はプロ、そうはならないようになっている。3,4段階のレベルがあっても、一番下は、どうみてもこれではと言う内容になっていて、選択できない。どれもこれも、一番下と一番上を避けることになり、皆さんこうしていますと言われると、結局普通どおりの、想定よりも華美な式になってしまった。


最初に母がおかしいと思ったのはいつだろうか? 横浜に引越した直後、母は80半ばだったが、歩いて数分のコンビニに行き、帰り道に迷ってしまい、自分で電話して来たり、近所の人に連れてこられたりしたことが数回あった。しばらくすると、一人で行き帰りできるようになり、慣れるのに時間がかかっただけだなと思った。
それまでもあったのだが、92歳になったころからもの忘れがひどくなった。何かと言うと女房を呼んで、物を探させる。そのうち、物が無いといって探すと、まともなら入れないようなところにあることが出てきた。吐血して入院してからは、あれよ、あれよというまにおかしくなっていった。しかし、正常なときと、おかしいときが波のようにやってくるので、家族はついつい希望的に考えてしまう。

年老いるとはどうゆうことなのか、哀しくも、むなしくも、悔しくも、しっかり見させてもらった。母のように、多趣味で意欲旺盛でも、身体が利かなくなると、何もすることができなくなる。
あきらめが早いだけがとりえの私は、早めに判断して、家族に負担をかけたくないと、それだけを思う。

最初に戻る、母(1)

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母 (6)老健へ入所

2007年09月20日 | 個人的記録

母は4月に家から車で15分くらいの新設の介護老人保健施設(老)に入所できた。92歳と高齢で、とても症状が安定しているとは言いがたいが、施設長の面接もクリアーし運よく入所できた。

施設は新しいので便利にできていて、きれいだった。職員の方もほとんどが新人だったが、あかるく元気だった。母も皆でテーブルを囲んでの簡単なゲームにも加わり、ようやく落ち着いたかなと思った。

母は、「トイレに連れてってもらうのが男の人だと、本当にいやなのよ。そう言っても、「仕事ですから大丈夫ですよ」って言うんだけど、いやなのよ。分かる?」とこぼした。夜も相変わらす問題を起こすようで、ベッドの部屋を追い出されて、フロアーに畳を敷いて寝ていたこともある。
しかし、この老に居た時が、親戚の人がたずねてきたりして、一番落ち着いていた時期だった。

しかし、7月に、3ヶ月ごとの見直しが行われ、健康に問題ありとされ、老を出て、近くの病院へ入院することになった。

足がむくんで腫れている以外は、食欲もあり、もはや、歩くことはできず、車椅子だったが、身体には大きな問題はなかった。ただ、生きる意欲はもう残っていなかった。

妻は2日に一回は見舞いに行っていたが、あるとき3日目に行ったら、「あら、久しぶりね」と言われたらしい。「しっかり、覚えているんだわ」 とびっくりしていた。
私が行って昔話などを持ちかけても、あまりのってこず、「●●、忙しいんだろ、早く帰っていいよ」という。気遣っているのかと思ったが、妻が来て帰るときには、「もう、帰っちゃうの?」と半分泣きそうになるという。

まだ学生だった息子がときどき妻を病院まで車で送っていった。母が息子に、「○○(息子の名前)、K子さんみたいな人、見つけなさいね」と言ったという。妻は、「もう、これで苦労が飛んでしまった」とウルウルして私に話した。

そして、いよいよそのときが来た。

続き、母(7)

 

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母 (5)救急車で入院

2007年09月19日 | 個人的記録

退院した92歳の母を自宅で介護していた。

この日も母は、朝5時に起きて、相変わらずバタバタしていた。女房が行ってみると、紙オムツの上にパンツを3枚重ねばきし、片方の足に靴下を2枚はき、もう片方は何もはいていなかった。
夜は夜で、12時頃音がするので部屋へ行ってみると、布団を半分たたんで、座り込んでいた。助けながら立ちあがらせ、トイレに行かせた。何のかのと話をしたがるのを、遅いからとか、俺も眠いからと言って、寝かせつけた。このとき、以前吐血したときと同じ色のシミがシーツにあるのに気がついたが、極少量なのと、以前のものがまだ残っていたような気がして、そのままにした。


夜中の1時ごろ、バタンと大きな音がした。起きていて使用中のパソコンを終了している間に、またゴッツンという音がしたので、あわてて掛けつけた。部屋の出口の所で頭を押さえていた。触るとこぶが出来ていて、本人が少し痛いというので、痛いなら大きな問題はないと思い、そのまま寝かせた。その時、吐血の跡が、掛け布団の襟カバーに手形くらいの面積で付いているのを発見した。2階にあがり、目を覚ました女房に吐血があったことを知らせ、明日前に入院した病院に行くことにした。このあと、女房は寝られず、起きてしまった。

朝5時に病院へ電話したら、9時に電話するように言われ、9時に電話したら、当直の先生が、今日は休日で検査ができないから、救急車を呼んで、他の病院へ行くように言われた。119へ電話すると、10分ほどで救急車が来た。

救急車に乗ると、隊員の方が搬送先の病院を求めて、電話している。どの病院も、92歳と年齢を聞くと、ベッドが空いていないなどと断ってくる。隊員の方は八方手を尽くしてくれたが、受け入れてくれる病院を探すのに、45分もかかってしまった。
今すぐという緊急性のない状況ではあったが、電話してから10分ほどで来て、家の前で45分も停止したままであった。懸命に学び、必死に働き、そして日本で年取ると言うことは、こう言うことなのかと暗澹たる思いだった。

結局、車で30分ほど離れた病院が受け入れてくれて、入院することになった。転んで頭を打った話しをすると、医者はそちらの方が心配ですねと言った。CTスキャンの結果は「内出血などはなく問題ない、もちろん歳ですので萎縮してますが」との事であった。

入院したが、夜中にウロウロしたり、他の人のカーテンの中をのぞいたりするようで、看護婦さんから「他の人が寝られなくて困っています」と苦情を言われた。次のとき病院へ行ったら、車椅子に縛られていた。そのうちに、病室にはおらず、ナースステーションに居るようになった。ただ、じっと座っているだけで、ご飯も口をこじ開けるようにやっと食べさせるような状態になってしまった。どうもウロチョロするので薬漬けにされているように思えた。
どの病院も断られてようやく入って病院なので、怒りを無理やり納めた。女房にお願いされて、医者に心づけをした。

病院内を車椅子を押して見て周り、咲き始めた桜が見える窓のところに行った。「ほら、桜が咲いているよ。きれいだね」と言ったが、なんにも言わない。
早く退院させたかったが、足にむくみが出て入院が長引いてしまった。

不運が重なったがようやく朗報が飛び込んできた。家から車で15分くらいの新設の老(介護老人保施設)に入所できることになったのだ。開所前に申し込んであったのが良かったようだ。

続き、母(6)

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母 (4)施設探し

2007年09月18日 | 個人的記録

92歳の母の介護に疲れ、預かってくれる施設を探し始めた。

ホームヘルパーの方に近隣の介護老人保施設、特別養護老人ホームなどを教えてもらい施設を実際に見てみることにした。介護事業を運営しているNPOへ急遽お願いして、ヘルパーさんを頼んだが、空きが無く、看護婦さんにこの間、母を看てもらった。

介護老人保施設(老)Aは、次回本人を連れてきて面接の結果によるが、特別室なら月12万円余計にかかるが、1つ空いていると言われた。他を探してからとして申し込まなかった。そもそも入所しても3ヶ月間だけで、審査結果によりもう3ヶ月延長できるかどうかという話だった。


一度入ればいつまでの居られるという特別養護老人ホーム(特養)B,C,D を回って、申込書を置いて帰る。いずれも数100人待ちで、入所は絶望的だ。施設を見て回るとだんだん気持ちが暗くなってくる。


夕方、来週から週2回デイサービスを受ける施設の人が来て、母の様子をいろいろ聞きに来た。「歯を治すと、身体も、心もしっかりするかもしれませんよ」といわれ女房は期待を持ってしまった。この間、母はうつらうつらしていて、夜7時半に寝てしまう。朝5時に起き、何度も寝るように言ったが、とうとう完全に起きてしまい、結局家族全員起きてしまった。

翌日、老と特養7箇所へ申込書を郵送した。どこもかしこも100人以上の待ち行列で、しかも90歳過ぎのいつ入院するか分からない母は審査で跳ねられる可能性が高い。


午後、車に車椅子を積んで母とスーパーへ行き、簡単にはけるスカート、滑らない靴下、食事時のエプロンを購入した。車椅子で売り場を回ったが、綺麗な柄の洋服を見て、何か言っている。さらに、人間国宝の人の作った着物を見せて、「良い柄だね」というと、同調し感心したようなことを言う。やはり、良いものを見せる事はどんな人にとってもすばらしいことのようだ。

ちょっと目を離すと、外出の支度をしている。それが、オムツの中に下着などを詰め込んだり、めちゃめちゃである。ようやく夜9時に寝て、ほっとして、今夜こそはと私たちはぐっすり寝た。


3時頃、ふと目を覚まし不安になって階段を降りると、トイレの電気がついていて、ドアを開けても誰もいない。無事一人でトイレを済ましたかと安心する。母の部屋を見ると、ドアの隙間から電灯の光が見えている。あわてて、ドアを開けると、掛け布団を取り払い、敷布団の上に洋服を着て座っている。「お母さん、どうしたの?」と呼びかけると、「ああ!」と悲しそうに小声で叫び、「よかった」というようなことを言った。書いていて今でも辛くなるが、鬼気迫るといった感じで、カーデガン、チョッキなどを数枚、しかも片手ずつしか通さずに互い違いに着ていた。シャツの両手の部分に両足を入れていた。起きて誰も居ないのでパニックになったのであろうか。


布団を敷いて、今は夜の3時で、他の人は皆寝て居ることを繰返し、繰り返し言い聞かせて、寝かせようとしたが、何のかの言っては、上半身を起こし、時間をかせぎ、寝ようとしない。背中をたたきながら、話しかけて、ようやく寝かせつけた。これが小学校から女学校までほぼ全甲を勝ち取った人なのだろうか。

次の日私は会社へ出かけ、午前中は、女房が絵を見ながら話し相手をした。午後、ちょっと目を離したすきに庭に出て転んでしまった。自分では起きる事ができず、非力な女房は起こすのに苦労した。そのあと、昼寝をし、入浴し、おやつを食べた。夕食後、布巾など汚れ物を自分で洗っていた。

かねて頼んでいたからデイサービスの迎えの車に乗り、出かけ、16時ごろ帰宅した。なんだかとても調子が良さそうだった。帰ってきてから、女房が施設に電話すると、「何か一人でやっているので、何ですかと聞くと、自己流の体操だと言うので、皆で教えてもらって、体操しました」との話であった。思わず喜んで、「なんだ大丈夫か」などと希望を持ってしまう。

ところが、思いもかけず、救急車で入院することになってしまった。

続き、母(5)

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母 (3)家で介護

2007年09月17日 | 個人的記録

92歳の母が食道の潰瘍で血を吐き、入院し、20日あまりで退院した。

家の中は伝い歩きできるが、外は歩けないので、介護保険で安く車椅子を買った。土日のどちらかは車椅子を押して近所を散歩する。「畑に苗植えたね。サトイモかな」など話しかけても、反応が少ない。昔とは別人のようだ。

母は夜中に何回か起きてトイレに行くのだが、ときどき転んでしまう。家に戻って1ヶ月ほどしたときだった。倒れて起きあがれず、「K子さん、K子さん」と叫んでいた。私が気がついて、起きて1階へ降りて行って、助け起こした。女房は、寝つきは悪いが、寝てしまうと起きない人で、また起きられない人なので、この役目は私の役割となった。この頃これが続いたのは、多分、髞状態なので強い眠り薬を飲んでいたせいでトイレに起きるとき身体がきかないのだろうと思い、メンタル・クリニックへ行き、抗鬱剤を弱くしてもらった。しかし、薬のせいばかりではなかった。

退院後、約2週間たった。女房によると、どうも調子の良い日と悪い日があるそうだ。調子の悪い日は、歩くのもやっとで、何をしゃべっているのか良く解らない。それなのに、知らぬ間に庭に出て転び、玄関の戸を開けられず、ただドンドンと叩いていたそうだ。
「昨日は一人でトイレに起きて、問題もなかったが、今日は、夜トイレに行くときに、また倒れそうだから、あなたは起きていた方が良いかもしれないわ」と女房から言われたので、お得意の夜更かしを許可していただいた。何事もなく、深夜になって寝床に入っても、何か下で物音がしているような気がして眠った気がしない。

母の食欲は相変わらず旺盛で、食間にもバナナ、お菓子など注意してもすぐ忘れて食べてしまう。ご飯を食べるのにやたらと時間がかかる。昼飯は2時間かけて食べた。これでは大変なので夕飯はおかゆにした。

突然、母が居間に入って来て、「2階に○○(甥)が来ているのになんで私を呼んでくれないの?」と言う。「誰も来てないよ」と言うが、一人で階段を上り2階へ上がってしまう。部屋を探して、「どこにいるの?」と、まだ信じない。こんなことが続き、そのうち、知らないうちに自分ひとりで2階へ上がり、降りられなくなる。
階段を転げ落ちてもこまるので、なんだか、母を閉じ込めるようでいやだったが、階段に上り口に年寄りには持ち上げられない柵を作った。まるでいたずらする子供のための柵だなと思った。

車でメンタル・クリニックまで母を連れて行き受診した。「何かやっても叱ると痴呆が進みます」と先生に言われた。プライドがある子供なんだと思っていても、ついつい、「もう勘弁してよ」と思ってしまう。ボケていても、きっと、そんなこちらの態度は敏感に読み取るのだと思う。


クリニックへ行った晩も、4時に起きて布団をあげて、起きる支度をしていた。大きな物音で私達が部屋へ行き、なんとかまた寝かせる事が出来た。

ともかく、何するか分からないので、昼間は女房が付きっ切りだし、夜は私が寝ながら耳を澄ましていて熟睡できない。このままがんばって介護しても、悪くなるのをわずかでも遅らせることができるかどうかで、良くなることはないだろう。子供の世話と違って希望がないのが辛い。世の中にはもっともっと厳しい状況で長くかんばっている人も多いと思うが、まだ退院後、2ヶ月も経ってないのに、ほとほと参ってしまった。


女房からは言い出せないだろうから、私から、「もういい。施設を探そう。しょっちゅう行けばその方が互いにいいんじゃないか」と言った。女房は哀しそうな顔をしたが、反対はしなかった。

しかし、そう簡単にはいかなかった。空きがある施設を見つけるのは絶望的だった。

続く、母(4)

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母 (2)病院、そして退院

2007年09月16日 | 個人的記録

92歳の母が食道の潰瘍で血を吐き、入院した。

1月4日の入院から1週間ほどたって、会社の帰りに病院へ寄ると、ベッドに腰掛けていて、様子がおかしかった。やたらとさびしがり、少しパニック状態になっていた。その後も毎日のように女房が面会に行っていたが、やたらと家に帰りたがり、何となくおかしいままであった。

20日ほど経って、女房が昼過ぎに面会に行って夕方家に帰ったら、夕飯時に病院から家に電話があった。「病人が興奮状態なので家族の人が誰か来てください」と言われ、女房は再び病院へ行った。
家から着信があったのを知って私も会社の帰りに病院へ寄ると、女房もまだ居て、ゴチャゴチャ言っている母の手をしっかり握って、「大丈夫よ」と、だだっこをあやすようにしていた。


母はめまいがして、吐き気もあり、昼飯も少しだけしか食べられず、夕飯はまったく手を付けていなかった。本人は完全にもう死んでしまうと思いこんでいて、両の手で女房と私の手をしっかり持ち、今にも死ぬような事ばかり言う。ここに息子が居ないのが不満で、女房が「試験中だから」などと言うと、「何言ってるの」と言わんばかりである。さらに、「妹に連絡したのか?」などと言う。
興奮状態を見て看護婦さんからも「家族の方ができれば泊まって欲しいんですが」と言われた。導眠剤だけでも飲めば、落ち着くのではと夜8時ごろまで待って飲ませてみたが、少しも変らず、あきらめて私が泊まる事にした。女房は9時ごろようやく帰宅した。

入院着を借りて、ただの板と思えるベッドというよりマットのエキストラベッドに寝た。母も少し落ち着いて、眠り、12時ごろ起きたときは、めまいや吐き気は収まり、けろっとした調子で、「あんな状態だったら、死んだと思うわね」などと他人事を言っている。夜中何回かトイレに起き、トイレまで手を引いて行ったが、特に問題はなく、朝を迎えた。背広を着て、そのまま会社へ出勤した。髭が剃れず、会社でもあごを撫ぜて落ち着かなかった。

翌日、女房が午後からでかけ、相談して数日で退院ということになった。母は相変わらずの調子で、「あと何日寝ると家に帰れるの?」などすっかり女房へ甘えてしまっていた。このときは、約20日でともかく退院できた。

しかし、家へ帰ってからが、互いに地獄だった。

続き、母(3)

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母 (1)入院

2007年09月15日 | 個人的記録

父は80歳まで元気で普通に生活していて、旅行先で突然死亡した。私は当時30代で、老いと死いうものを自分のものとして実感できなかった。私が60歳になろうとするとき、母は93歳で亡くなった。このときは、老いてゆき、死に至る母を見て自分自身の将来を見た。
個人的で、暗い話だが、年老いた母について何回かに分けて書いてみたい。

母は私たち家族3人と同居していたが、90歳までは本当に元気だった。足が丈夫で急ぎ足でどんどん歩いていった。子供のころは学校はじまっていらいの秀才と言われていたようで、生活苦の中で懸命に働き、そして年とってからも、日本舞踊、墨絵、詩吟など熱心に学ぶ努力家だった。

90歳になってからは毎月のようにどんどんと身体が弱ってきて、自分で作っていた昼飯も女房に頼むことになり、本を読むことも、墨絵も、詩吟も自分が納得するようにできなくなり、毎回出席していた老人会へも欠席しがちになってしまった。このころから、何にもすることがないと、嘆くようになった。いくらのんびりすれば良いといっても、働き者で、勉強家なので、何もしない状態に我慢できず、嘆いてばかりだった。一方では、「何も心配することもない今が一番幸せだわね」とも言っていた。

90を過ぎてからだろうか、物をどこに置いたのか忘れることがたびたびとなった。「K子さん、○○がないのよ。どうしても、どこにもないの。不思議ね」と毎日のように女房のところに駆け込んでくる。一緒に探してみると、何と言うことない場所にちゃんとある。「あった、あった。やーね、どうしてわからなかったのかしら」と当人は笑っている。
そのうち、一日何度ともなり、当人も不安になり、「おかしいわ」と繰り返す。ときどき、考えられない変な場所にあったりする。女房から話しを聞いた私はこのときは、「ぼけたのかな。でも90過ぎで良いほうじゃないの」とか言って、仕事に逃げて他人事だった。

老人会が開かれる自治センタへ毎月通っていたが、歩いて数分の距離なのに帰りに道に迷い、知らない人に送られて家に帰って来た。会社から帰って、その話を聞いて、「しっかり者のおふくろが、まさかボケたんじゃないだろうな」と思った。本人もショックなようなので、母の部屋へ行って、「今日、道に迷ったんだって?この辺の道はクネクネしてるからね。一度間違えるとわけわかんなくなるよね」と話しかけた。あまり反応がなかった。以後、老人会へは、お友達に迎えに来てもらうか、女房が送り迎えするようになった。そのうち近所へも出かけることは少なくなっていった。
そういえば、土日にときどき母を連れ出して近所を散歩することがあったが、以前は花など咲いていると、うれしそうにしていたが、反応が鈍くなったような気がした。

「することもないし、もういつ死んでも良のよ。尊厳死なんて当たり前よ。安楽死よ、安楽死。誰かしてくれないかしらね」と毎日のように嘆く。女房も、「そう言われても、どうしたら良いかなんて分からないし、毎日暗い顔して言われると、私も気分が暗くなってしまうわ」とぼやいていた。今考えると、どうみてもうつ病になっていたのだと思う。

夜中に何回もトイレに起きる。「とっても辛いのよ。分かる?」と何回も言われた。私はそれより夜中に転ぶのが心配だった。深夜、ドンと音がして、行ってみると、部屋からトイレまで数メートルしかない廊下で転んでいる。

それまでまったく知らなかったのだが、知人の勧めで介護認定を受け、介護保険で廊下、トイレ、風呂場に手すりをつけた。自己負担額が少ないのもありがたいが、なによりケアマネージャーにいろいろ相談できるのが心強かった。大げさだが、国家のありがたみを始めて実感した。


そして、6年前の暮れ、92歳のときのことだった。
「お母さんて、ときどき口の周りに何か付けている」と、女房が言っていた。シーツも茶色に汚れているようで、血かなとも思ったが、お菓子をいつも食べていて、口の周りが汚れているし、本人もとくに何処が痛いと言うわけでもないので、新年に入ってから以前入院したことがある病院にでも行ってみるかということになった。

翌年1月2日の深夜、母の呼ぶ声で目が覚め、下へ降りて母の部屋へ行くと、布団に寝たままで、枕元が数10cmの広さでチョコレート色になっていた。特に苦しそうでもなかったので、シーツ、寝巻きなどを取替えて、その時はそのまま寝かした。翌日、病院も休みに入っていたが、どうみても、血を吐いているとしか思えなかったので、電話して、病院が始まる1月4日に病院へ行った。

胃カメラ検査の結果により、胃には異常がないが、食道に潰瘍があることがわかり、たいしたことではなかったが、食事のこともあり、入院することとした。今回は、特に入院をいやがることもなく、素直に従った。夜中の寝言がうるさいことや、以前の白内障手術の入院で興奮状態になり、他人に迷惑をかけたことから、本人は高額なため嫌がったが、個室にした。1週間ほどは特に何と言う事も無く、食事も美味しいなどと言っていて、女房が毎日見舞いに行っていたせいもあるのだろうか、落ち着いていた。しかし、この入院があの波乱の引き金となったのだった。

続き、母(2)

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「赤毛のアン」を読む

2007年09月11日 | 読書

あと数ヶ月で高齢者に仲間入りするおじいさんが「赤毛のアン」を読みました。

奥様がカナダのプリンス・エドワード島に行きたいと言い出し、9月終わりから9日間カナダ東部へ行ってきます。ナイヤガラの滝やケベックにも寄りますが、赤毛のアンの家などがあるキャベンディシュがメインの旅行です。旅行案内書には、「恋人の小径」、「お化けの森」など何と言うことない散歩道や木々の間の道、モンゴメリのお墓、田舎の郵便局が写真付で示されています。わけも分からないところで3泊しても仕方ないので、「赤毛のアン」を読むことにしました。

子供のころは本など買ってもらえなかったので、子供向けの本はほとんど読んだことがなく、わけも分からず「漱石全集」や、船橋聖一のなまめかしい本などを読んでいました。この歳になってから「赤毛のアン」を読むとは思いませんでした。

「赤毛のアン」は、原題が「Anne of Green Gables」で、カナダのプリンス・エドワード島の田舎で育ったルーシー・モンゴメリーが1908年に発表した小説です。Green Gablesはアンが住む家の名前です。

ついつい想像をたくましくして夢想の世界に入ってしまい大失敗するアン。不幸な生い立ちと環境にめげず元気いっぱいで、おしゃべりをどうしても我慢できないアン。魅力的な女の子像の創造に成功していて、その成長過程が良く表現がされています。孤児のアンをひきとった冷静な母代わりのマイラなど周囲の人々の描き分けも見事です。どうしても、いまだに(?)しとやかさを要求されることが多い女性には、活発、おてんばで、それでいてロマンティックな憧れをもつアンの物語は人気があるのでしょう。

私も若者のときにこの小説を読んでいれば、女の子のロマンティックな憧れをすこしは理解できて、そして、・・・かもしれなかった。などとあらぬことを考えてしまいました。
いやいや、そうではなく、毎日のように奥様から、「まったく人の気持ちがわからないんだから」などと言われないようになっていたかもしれません。

この本を読んで、アン関連施設の観光も興味を持って見られるようになるだろうし(?)、世界でもっとも美しい島と呼ばれるプリンス・エドワード島も愉しみになってきた。

赤毛といえば、勤めていたとき、海外から打ち合わせに来た人の中に赤毛の女性がいた。ニンジンのように鮮やかな朱色だった。気をつけていたのだが、われわれの視線を感じたのか、「髪を染めているわけではないんです。アイルランドには赤毛の人がけっこういますよ」と言っていた。



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台風の思い出

2007年09月07日 | 昔の話


昨日の台風9号にはまいった。夜中中、雨戸がガタガタし、ガラス戸を激しくたたく雨音が間欠的で、途中で目が覚め、寝付かれず、インターネットの映画を2本も見てしまった。久しぶりに大きな台風が関東地方を直撃したのではないだろうか。

子供のころ台風が来るといえば父親が、開き戸にしんばり棒をかったり、木の雨戸に板を打ち付けたりしていたのを思い出す。時々雨漏りがしてあわてて洗面器を置いたり、また、台風の夜は停電にも良くなった。居間に集まった家族がローソク一本の光のもとで過ごしたのも今は懐かしい。家の前の道もよく川のように水がながれていた。新聞でも各地で川が氾濫して洪水になった写真がよく載っていた。
子供のころには、東京にも毎年もっと台風が来ていたような気がする。最近に比べると、台風の影響や被害が大きかったので印象が強いためだろうか。

明治以降、最悪の被害をもたらした台風は伊勢湾台風のようだ。1959年(昭和34年)9月26日、潮岬付近に上陸、近畿・中部地方を襲った。死者・行方不明者は5千人、負傷者約4万人、全壊家屋36千棟、床上浸水15万棟、船舶被害13千隻と甚大な被害をもたらした。そういえば、昔の台風の上陸地点は、足摺岬と潮岬が多かったような気がする。
伊勢湾台風の被害の多くは、3.5mにもなった高潮によるものだった。名古屋港の貯木場から流出した大量の木材が高潮に乗って名古屋市南西部の住宅地を襲い、多くの人命、家屋が失われた。

私は当時高校2年生で、修学旅行で奈良・京都へ行く途中、伊勢湾台風直後の名古屋を通った。まだ新幹線はなく東海道線だったのだが、窓からゴロゴロならぶ材木が見えた。あわててデッキへ行き、支え棒に捕まりながら顔を出すと、名古屋は水上都市化していて、材木が一面に浮かぶ中に壊れた家屋がいくつかあり、ひざまで浸かった人々がなにやら作業していた。修学旅行に行くのに、何か居心地が悪かった。



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