hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

村上春樹『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』を読む

2012年01月31日 | 読書2
村上春樹著、大橋歩画『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』2011年7月マガジンハウス発行、を読んだ。

52編のエッセイ集で、村上さんの日常で起こったこと、変な疑問などがユーモアを持って気楽な調子で書かれている。

まえがきで村上さんはこう言う。
長編小説『IQ84』を三年がかりでようやく書き終えて、肩の荷がおりたというか、「久しぶりにエッセイをまとめて書いてもいいかな」という気持ちになりました。
小説を書くときには、小説家は頭の中にたくさんの抽斗(ひきだし)を必要とします。ささやかなエピソード、細かい知識、ちょっとした記憶、個人的な世界観(みたいなもの)・・・、小説を書いているとそういったマテリアルがあちこちで役に立ちます。でもそういうあれこれを、エッセイみたいなかたちでほいほい放出してしまうと、小説の中で自由に使えなくなる。


書店の小説コーナーに行くと、「男性作家」の棚と「女性作家」の棚が分かれていることが多い。外国ではこんなことがないし、村上さんにも意味が分からない。
僕の小説の読者は昔から一貫して、だいたい男女半々です。そして女性読者にはきれいな方が多いです。いや、ほんとうに。


各話の最後に、「今週の村上」というコーナー(といっても一行)がある。例えば、
「婚約破棄」と聞くといつも捨てられたコンニャクを思い浮かべるんだけど、下らないですね。
「かっぱらいに注意」という看板。誰かがマジックで「らい」を塗りつぶしていた。暇な人がいる。
水洗トイレに「大小」というレバーがあるけど、あれは「強弱」じゃいけないんでしょうか?


「あとがき」は、「挿絵をさせてもらって」と、30枚以上の挿絵を描いている大橋歩さんが書いている。何人もの編集者から「どうしてあなたなの?」と聞かれるという。

初出:「anan」2009年10月21日号から2010年3月3日号、2010年3月24日号~2011年3月23日号



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

村上ファンや春樹さんの生き方が好きな人には五つ星だ。私は村上さんの小説は、とくに長いものはほとんど読んでいない。それより、村上さんのエッセイが好きだ。村上さんのオープンな性格、率直な物言い、ライフスタイルに共感する。組織・パーティ・ブッシュ嫌い。本好き、外国に住むほうが気楽など。ただし、私は、体育系は嫌いで、村上さんのように自己を律することはできない。なんて、村上さんと私を比べても詮無いことだが。

月に一回前後のペースである新聞休刊日に抗議している。
「お互いときどき交代で休みをとりましょうや」というなら、百歩ゆずってありかもしれないと思う。・・・新聞社は「新聞配達の人をやすませるためだ」と言うが、そんなの就労条件を考慮すればいいことであって、・・・。
みたいなことを書くと、新聞社にねちねちいじめられるというのは、物書きの世界では常識です。・・・前にこの手のことを書いたら、新聞社の偉い人がすぐに飛んできて、レクチャーみたいのをぶっていった。要するにソフトな脅しだ。

これも私はまったく同感だ。休みが増えたときに購読料を下げなかった。ようするに各社横並びの談合値上げだ。もっとも私は、休刊日のたびにブツブツ言って、奥さんが「また言ってる」と笑うだけなのだが。




以下、私のメモ

僕が大学生の頃、「三十歳をすぎたやつらを信用するな」という言葉がよく口にされた。Don’t trust over thirty、大人なんか信用できないぞ、という意味だ。・・・僕らが二十歳だった頃にはきっと、自分たちが三十を過ぎたら、今の大人とは全然違う種類の大人になるんだと堅く信じていたのだと思う。そして世の中は確実に良くなっていくと思っていた。だってこれほど意識の高い、理想に燃える我々が大人になるんだから、世界が悪くなるわけはないだろう。悪いのは今そこにいる大人なのだ。やがて戦争は消え、貧富の差も縮まり、人種差別もなくなるだろう。真剣にそう考えていた。
・・・僕らはやがて三十歳を超え、そのおおかたは昔ながらの退屈でぱっとしない大人になった。・・・
残念ながら、というべきだろう。そんな楽観的な時代はそのときで終わってしまった。今「これから世界はだんだんよくなっていく」と信じている若い人を見つけ出すのは、ごく控えめに表現して、相当な困難な作業に違いない。・・・
今では何ごともなかったような顔をして、マイペースで健康的に個人的に、淡々と日常生活を送っている。自分自身のことなんだけど、なんかもうひとつ信用しきれないところがある。



この人生においてこれまで、本当に悲しい思いをしたことが何度かある。それを通過することによって、体の仕組みがあちこちで変化してしまうくらいきつい出来事。言うまでもないことだけど、無傷で人生をくぐり抜けることなんて誰にもできない。でもそのたびにそこには何か特別の音楽があった。というか、そのたびにその場所で、僕は何か特別の音楽を必要としたということになるのだろう。
 ある時にはそれはマイルズ・デイヴィスのアルバムだったし、ある時にはブラームスのピアノ協奏曲だった。またある時それは小泉今日子のカセットテープだった。音楽はその時たまたまそこにあった。僕はそれを無心に取り上げ、目に見えない衣として身にまとった。
・・・
小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にまたもっと深いところで誰かと担(にな)いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。
僕の書く文章がこの世界のどこかで、それと同じような役目を果たしてくれているといいんだけどと思います。心からそう思う。


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川上弘美『神様2011』を読む

2012年01月29日 | 読書2

川上弘美著『神様2011』2011年9月講談社発行、を読んだ。

2編よりなる40ページ足らずの短篇集。前編は、川上弘美のデビュー作である「神様」がそのまま収められている。後編は、大震災、原発事故以降の設定で、「神様」にごく一部を追加している。

神様
隣に引越してきたくまは、同じ階の住人に引越し蕎麦と葉書を渡してまわる。「ずいぶんな気の遣いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう」
その後、くまと川原まで散歩に出て帰るという話で、くまが人間並に登場するが、その点を除けば、何でもない日常がほのぼのと描かれる。昔気質のくまが生きていくことの辛さをなんとなく漂わせる。万物に宿る神、例えばトイレの神様と同じように、くまの神様の話なのだ。

神様2011
一見平和な日常が描かれる「神様」の中に、防護服、ガイガーカウンターなどが挿入されている。

例として、出だしの部分で、「神様」にはなく、「神様2011」に挿入されている部分を( )で示す。

春先に、鴫を観るために、(防護服をつけて)行ったことはあったが、暑い季節にこうして(ふつうの服を着て肌を出し、)弁当まで持っていくのは(「あのこと」以来、)初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。



最後の部分にも、「眠る前に少し日記を書く」次に、「総被爆線量を計算する」という行為が付け加わっている。

「神様2011」には、「神様」のなにげない日常にも原発事故がしっかり異常な影響を及ぼしていることが描かれている。
川上さんは、「あとがき」でこう述べている。

原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。





初出  『神様』:中公文庫、「神様2011」「あとがき」:「群像」2011年6月号



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

ほんわかした「神様」の日常の中に、いままで馴染みがない放射能が突然忍びこんでしまったことがわかりやすく、不気味な形で示されている。そのアンバランスが面白く、日常ってなんだ?とあらためて思う。

あとがきで川上さんがウランについて解説しているのがわかりやすい。さすが理系??



川上弘美の略歴と既読本リスト



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浅田次郎『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』を読む

2012年01月27日 | 読書2

浅田次郎著『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』2011年12月文藝春秋発行、を読んだ。

ここ20年弱に各媒体に執筆した未刊行エッセイを集めたエッセイ集。
粋な芸者だった祖母、筋金入りの博徒の祖父、事業家でありながらギャンブラーの父、生き別れた美人の母、といった家族の話や、一時は13匹も飼っていた猫や犬の話、また、執筆中の生活や作品の話など巧みな筆さばきで語る。
中でも40年以上続いている競馬の話は熱く、「道楽とは言い切れまい。つまり人生である。」と言っている。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

家庭環境からして個性的で、ご本人も16歳から自立し、自衛隊員、暴力団準構成員?、競馬関連、アパレル販売会社経営など多彩な人生を送り、子供の頃からの目標である小説家人生を39歳からスタートする。作家になってからも、毎日4時間で1冊本を読み、週2日競馬場へ行くことを欠かさない。
浅田作品の愛読者と、こんな浅田さんに興味がある人、競馬愛好家以外は面白くないかも。私は数十年前まで競馬ファンだったのでなかなか面白かったが。



浅田次郎の略歴と既読本リスト


以下、メモ

冬は午前6時、夏は5時に起床してただちに書斎に入り読み書きを始める。午後2時から6時までは読書し、1冊の本を読み切る。本人は遅読の方だと言っている。
小説家を志した中学生の頃から今まで、1日1冊の本を読んでいる。

週に5日書くことと読むことに費やし、残る2日は競馬場に通う。

日本には年間200以上の新人文学賞があり、すべてに数百から千編を超える応募がある。合計応募数(人数)はおよそ10万ということになる。その中で小説家として残ることができるのはほんの1、2名だ。

俗にお涙作家と呼ばれる私が、執筆中に自ら泣くかという疑問は・・・私自身が泣くはずはない。正しくは、ぼんやりとストーリーを考えているときなどには読者と同様に熱い滾(だぎ)りを感ずる。ただし原稿用紙に向き合ったとたん、あらゆる人間的感情は消えてなくなる。



時代が下るほどに、普遍的な日常の描写ですら他人事となる。ストーリーの面白さや小説の完成度とはべつに、文章の醸しだす臨場感という点で、新しい時代の作品は古典に見劣るのである。・・・
ことに、小説を小説から学ばず、主として映像表現から学んだ世代にはこの傾向が顕著で、描写がキャメラワークであるから即物的かつ冗長になり、いきおい読者は退屈な長編小説を読まされるはめになる。・・・
こうした考えに至ってからというもの、私は小説を書くとき、頭の中に映像を置かぬようになった。具体的にはどういう感覚で書くかというと、必ず登場人部のかたわらに立つのである。主人公になりきるのではなく、登場人物のひとりとなって現場に参入する。・・・「ことの顛末をたまたま見届けてしまった任意の人物」である。・・・表現技術を持った作家の魂をこちらに残して、肉体を向こうに飛ばす。想像するのではなく、体験するのである。



第1章 プラットホームにて
第2章 二人の母
第3章 骨のかけら
第4章 器用貧乏
第5章 ダビドフのパイプ
第6章 小説家という聖域
第7章 競馬場で会おう!
第8章 英雄の足跡

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上田早夕里『リリエンタールの末裔』を読む

2012年01月25日 | 読書2
上田早夕里著『リリエンタールの末裔』ハヤカワ文庫JA1053、2011年12月早川書房発行、を読んだ。

差別と貧困の中で空を飛ぶ夢を追い続ける少年の「リリエンタールの末裔」、人の心の動きを装置で可視化する「マグネフィオ」、海洋無人探査機のマニュピレータと人の感覚の一体化の不思議「ナイト・ブルーの記録」、正確無比な航海用時計(マリン・クロノメーター)の開発に挑むジョン・ハリソンの執念を描く書き下ろし中篇「幻のクロノメーター」。
解説:香月祥宏 カバーイラスト:中村豪志

リリエンタールの末裔
背中に鉤腕(こうわん)を持つ高地の民の少年が、鉤腕持ちが差別を受ける社会の中で飛びたいと願い、努力を続ける。空を飛ぶことは、現実社会からの開放であり、新型グライダーに乗って空を舞うシーン、遙か上から見た海上都市の描写が美しい。
本のカバーに、睡蓮をモチーフにした海上都市が見事に描かれ様々な想像をかきたて、夢に出てきそうだ。(中村豪志画)
オットー・リリエンタールは実在した航空パイオニアの1人で、ハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する試験を行った。1896年試験飛行中に墜落して死亡。

マグネフィオ」 
社員旅行のバス事故で、和也は脳機能障害となり、未だに好きな菜月の顔を認識出来なくなる。また、菜月の夫で、友人の修介も外部からの呼びかけにまったく反応できない状態となる。和也は人工神経細胞の脳への移植を受け、修介は心の状態を磁性流体で表現する「マグネフィオ」に接続される。

ナイト・ブルーの記憶
海洋無人探査機のオペレータ霧島は、ベテランの操作を機械に学習させるためにシステムに接続される。やがて、逆に機械の反応が霧島にフィードバックされ、霧島自身が影響され皮膚感覚が変化するようになる。

幻のクロノメーター
実在の18世紀の伝説的時計職人ジョン・ハリソンが職人魂で数々の障害を乗り越えて、マリン・クロノメーター(60日間の航海で2分以内の誤差の正確な航海用時計)を開発する。「謎の石」が、・・・。



上田早夕里(うえだ・さゆり)
1964年兵庫県生れ。神戸海星女子学院大学卒。
2004年『火星ダーク・バラード』で小松左京賞受賞
2010年『華竜の宮』が日本SF大賞受賞(2011年)



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

私が良いと思ったのは、「リリエンタールの末裔」と「幻のクロノメーター」。いずれもSF的要素は少なく、強固な意思で夢を実現するまでの過程が良く書けている。SF的面白さ、意外さはいまひとつ。


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内藤陽介『年賀状の戦後史』を読む

2012年01月23日 | 読書2
内藤陽介著『年賀状の戦後史』角川oneテーマ21、2011年11月、角川書店発行、を読んだ。

「虚礼である」と「欲しがりません勝つまでは」の精神で昭和15年から廃止されていた年賀郵便は、終戦後、昭和23年末に再開された。破滅的な国家財政の一つの救い手として、また、戦災のため生き別れになった人々の身元確認手段として再開された。
その後、官製年賀ハガキは、ピークの1989年度が約42億枚が発行され、以降減少しているとはいえ2011年1月にも35億枚以上、一人平均30通受取っていることになる。この、時代を反映している年賀状や、図柄採用経緯など年賀郵便切手からみた戦後史を語っている。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

私は年賀状愛好家というより、単に意地になって40年近く版画刷りの年賀状を出し続けている。また、切手収集というレベルではないが、単に切手集めを小学生の頃から近年まで楽しんでいた。
年賀状の歴史と現状」についてこのブログに書いたこともあり、私の「版画の年賀状」21枚や、「自薦の版画年賀状」を公開したこともある。

そんな私でも、この本は多少退屈だ。著者の専門が切手ということもあり、年ごとの年賀郵便(切手)の図柄採用経緯に多くのページを割いていて、同じような話が続く。興味持つひとは少数だろう。

内藤陽介
1967年東京生れ。郵便学者。
東京大学文学部卒。切手の博物館副館長などを経て、郵便学(郵便資料を用いて、国家と社会、時代や地域のあり方を読み解く研究)分野での著作・講演活動をおこなっている。
著書に『外国切手に描かれた日本』『切手と戦争』など。




以下、切手図柄の話以外の話題を列挙する。

1950年(昭和25年)、寄付金付きお年玉年賀はがきは当時の郵政大臣小澤佐重喜(さえき)(小沢一郎の父親)が始めた。
最初の宝くじの商品は特等ミシン、1等純毛洋服地、3等学童用コウモリ傘。

時の郵政大臣が職権を発揮して地盤固めのために自分の地元選挙区の郷土玩具をデザインに採用した。いわゆる大臣切手は昭和30年代―40年代。

1961年(昭和36年)、郵政省が生産性向上運動(マル性運動)を導入すると、全逓(全国逓信労働組合)は順法闘争として作業能率低下や時間外労働拒否で激しく抵抗し、年が配達が遅れることもあった。

郵政省案の郵便料金値上げが国会でなかなか決定せず、年賀状印刷が間に合わず、年賀状だけ従来料金ということが何度もあった。

1964年(昭和39年)、万国郵便連合で切手にはローマ字による差出国の国名表示をすることに決まった。日本ではNIHONかNIPPONか、なかなか決定できず、切手製造の必要から郵政省が強引にNIPPONに決定し、閣議了承された。

1965年(昭和40年)短期間で処理する必要がある年賀はがきのためもあって、郵便物自動読取区分機などが開発開始された。1968年から郵便番号制度が導入された。




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高野秀行『異国トーキョー漂流記』を読む

2012年01月21日 | 読書2

高野秀行著『異国トーキョー漂流記』集英社文庫た58-5、2005年2月集英社発行、を読んだ。

裏表紙にはこうある。

「私」には様々な国籍のユニークな外国人の友だちがいる。 日本に「自分探し」にやってきたフランス人。大連からやってきた回転寿司好きの中国人。故国を追われたイラク人etc…。 彼らと彷徨う著者の目に映る東京は、とてつもなく面白く、途方もなく寂しく、限りなく新鮮なガイコクだ。
 愉快でカルチャーショックに満ち、少しせつない8つの友情物語。



作者は外国人と街を歩くと、これまで毎日のように目にして何とも思わなかったものが、ことごとく違和感と新鮮味を伴って、強烈に迫ってくる。そのときに浮かび上がる光景は「東京」ではなく、異国の「トーキョー」だった。

「トーキョー・ドームの熱い夜」
アフリカのスーダンからやってきた盲目の留学生マフディー。彼は日本語の勉強のために聞いたラジオのプロ野球中継で、熱狂的なプロ野球ファンとなり、やけに詳しくなった。
高野さんはマフディーを東京ドームへ連れて行く。しかし、興奮した彼は肝心なラジオを忘れた。そこで、高野さんが実況し、何でも記憶しているマフディーが解説するという「実況解説ごっこ」をして盛り上がる。
高野さんは、一度もボールに触ったことがないというマフディーにボールをプレゼントし、カーブなどの握り方、投げ方を教えたいと思うのだった。

「あとがき」
外国に旅に出ると、いろいろとユニークな人間に出会う。
親切だけど頼りにならない人。面白いんだけど全然かんちがいしている人。頭も性格もいいんだけど現地の標準からスレまくっている人。日本に興味を持つのはいいが片言のみょうちくりんな日本語でせっせと話しかけて困らせる人。こっちを甘くみているのだが本人のほうがよほど甘い人・・・。



高野秀行 略歴と既読本リスト



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

ともかく笑え、温かくなる。変わった外人達を、差別感、優越感なく、見世物的でなく、ユーモアをもって語っていて笑え、なるほどねと考えさせられる。オープンマインドな著者が、外人に自然な距離感で 接しているので気持よい。




<目次>
はじめに
第1章 日本をインド化するフランス人
第2章 コンゴより愛をこめて
第3章 スペイン人は「恋愛の自然消滅」を救えるか!?
第4章 開戦!異国人バトルロワイヤル
第5章 百一人のウエキ系ペルー人
第6章 大連からやってきたドラえもん
第7章 アリー・マイ大富豪
第8章 トーキョー・ドームの熱い夜
あとがき
解説 蔵前仁一

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毛髪が不自由な人

2012年01月19日 | 個人的記録

毛髪が抜け落ちた状態を「ハ」で始まり「ゲ」で終わる言葉で言うことが多い。私に言わせればこれは差別用語である。言われた人が不快になる身体的表現は婉曲に表現すべきだ。たとえば「毛髪が不自由」との表現はどうだろうか。「え! からかわれているようで、かえって不快だと?」

私自身は若白髪というやつで、40歳過ぎで「ロマンスグレー」、50歳で「きれいな白髪」と言われてもよい状態になった。
同じような若白髪の人が会社にいて、共感を覚えていた。ある日その人が真っ黒に髪を染めて出社した。「いや、娘が授業参観には髪を染めないといやだと言うものでね」と答えていた。かなり剛毅な人だったが、娘さんには勝てないのだなと思った。

その後、誰も言ってくれないが、ほとんど「銀髪」になってきて、「よし、よし」と思っていた。
60歳近くなると、髪をとかすときの抜け毛が少なくなってきているのに気がついた。「しっかりしてきたな」と思ったが、考えてみたらどうも抜けるべき毛が少なくなったためのようだった。つまり母数が小さくなったのだ。
そういえば、風呂上りに鏡で、髪がぺたりと張り付いた己が頭を見て、ゾットしたことがあった。おまけに、坊主頭にしていた親父の前のほうには毛がなかったことも思い出し、白髪のつぎは薄毛かと、暗澹となった。

60歳過ぎると知識が豊富になったためか、ひたいが秀でてきた。ときどき、ひたいに髪が一本ヒョロヒョロと生えているのに気が付いた。昔、髪の毛が生えていたところの残り毛であることが、いとおしく、哀しく、よりによって黒い毛なので目立ち、処置に困った。

この頃から育毛剤を使い出したが、説明に壮年性ハ◯に有効と書いてあるものはあるが、老年性ハ◯に有効のものは見当たらない。年寄りはあきらめろということなのか。
最初は前頭部に集中的に育毛剤をつけていたが、こんな負け戦の戦場で戦っていては一気にズルーとやられると思い、戦線を後退させて「ここから後は絶対に」という場所に鉄壁のマジノ線を築き、集中的につけるようにした。鉄壁が、トタン板になり、板塀になり、やがて、ススキがなびく、つわものどもが夢のあとになってしまった。
この頃から、風呂上りには、いの一番にドライヤーをかけるようになった。モタモタしているとそのままで乾いてしまうからだ。

現在では、前頭部と後頭部だけは、要するに側頭部を除く全体ともいえるのだが、可愛い赤子のような状態に近づいている。今や、薄毛さえうらやましく思える状態だ。奥様はこれを、「ひよひよ」と呼ぶ。
唯一の心の支えは、奥様が「そうなったら私が毎朝、布でピカピカに磨いてあげるわよ」と言ってくれていることだけだ。



2007年11月6日の「頭髪が不自由な人」を書き直しました。

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飛鳥圭介『おじさん図鑑』を読む

2012年01月17日 | 読書2
飛鳥圭介著『おじさん図鑑』2007年10月のべる出版発行、を読んだ。

おじさんたちの日常における失望、怒り、悲哀、妄想などを自虐的笑いにつつんで描いている。

例えば、こんな風だ。
「あら、これ買おうかしら」妻が笑いながらおじさんにチラシを差し出した。手にとってみると、そこには大きな字で、
(おじさんのあとでも平気!)
と書かれてある。トイレ脱臭剤なるものの宣伝チラシだった。おじさんの目が怒りに燃えた。・・・


「今や日本は江戸時代と同じく、世襲時代と言ってもいい時代になったのではないか。・・・世の中は沈滞するいっぽうなんじゃないかなあ」とおじさんが嘆く。
妻も大賛成だ。
「そうよ。スタートラインがちがうなんて、冗談じゃないわよ。そんな不公平なことがまかり通っていいわけがない。それじゃあ、うちの子たちが、あんまりかわいそうじゃないの、ねえ」
ねえ、といわれても困る。おじさんはいささかムッとした。


各地の地方新聞で連載し、全国の地方紙14紙で週一回の読み物として人気となり、単行本化されたものだ。



飛鳥圭介 あすか・けいすけ
1948年静岡市生れ。コラムニスト、東京在住の通信社役員。
法政大学社会学部社会学科卒
日本百名山のうち八十ほど制覇された登山家でもあるそうです。



私の評価としては、★★(二つ星:読めば)(最大は五つ星)

パラパラ読めて、ユーモアあふれ面白いのだが、飲み屋でくだまくオヤジみたいで少々なさけない。笑ったあとでちょっぴり哀しくなる。おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな。

わざわざ買って読むほどの本ではない。


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クリスマスの想い出   

2012年01月15日 | 個人的記録
もう20年以上前のクリスマスの朝のことである。贈り物を見て喜ぶ顔が見たくて待ちきれず、まだ寝ている息子を起こしに行った。
息子はベッドの上で起き上がると周りを見渡して、「ない」と小さな声で言う。
「僕、いい子じゃなかったからかな」と言うと、泣き顔になった。いつも、泣きだす前に泣き顔になり、への字の口のまま止まって、一瞬置いてから、泣き声と涙が一気に出てくる。
あせった女房と私は、あわてて、「ベッドの下も探してごらん」と言う。
こんなときだけはすばやい息子は、ベッドから首を出して下をのぞき、リボンでくるんだ袋を見つけると、「あった!」と言って、飛び降りた。
袋をやぶり、前から欲しかったおもちゃを取り出して、「どうして、サンタさんにわかったのかな」と、ニコニコ、ニコニコ。さっきの泣き顔のあとかたもなく全身で喜んでいる。
私と女房も顔を見合わせ、二人ともニコニコ、ニコニコ。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」の書き始めに、「不幸な家庭はさまざまだが、幸せな家庭はどれも同じである」と言うのがあったと思うが、まさにこれが、平凡でどこにでもある幸せな家庭の典型だと思った。
息子はもうこのことを覚えていないだろうが、私は、クリスマスのたびごとに思い出しては、ニヤニヤしている。クリスマスはまさに親のためにこそあるのだ。


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リシャール・コラス『旅人は死なない』を読む

2012年01月13日 | 読書2
リシャール・コラス著『旅人は死なない』2011年11月集英社発行、を読んだ。

作家で、世界を飛び回るシャネルの日本法人社長の小説で、女性ファッション雑誌連載作だが、お洒落な話ではなく、鋭いビジネスの話でもない。モロッコ、日本、パリと世界中を舞台に、時代をまたがったスピリチュアルとも言える孤独な主人公の19編からなる短編小説集だ。

「ボワイヤージュ、ボワイヤージュ!」
何もない静かなモロッコ南部で育った主人公は慌ただしい日本に住み猛然と働く。そして休暇の必要を感じて、アメリカの荒野の先住民の住まいを訪ねる。

「縁(えにし)」
ドイツ軍へ対抗する地下組織に加わった男は敵におわれてモロッコに逃れる。そこで操縦士の訓練を受ける前に、ベルベル人の理容師に散髪され、彼は顔をじっと見つめ祝福を与える小石を男に渡す。長年が経過し、男は息子とともにモロッコで理容師に再会する。そしてその石は今・・・。(実話)

あとがき
頭の中で旅すること、僕はそれをごく若いときに知った。・・・
旅するとは、自分自身から、自分の偏狭な精神から抜け出すことだ。旅人は死なない。というのは、旅人は、自分の日常(ルーチン)とはちがう場所で、ちがうときに、ちがう人生を作り出すことができるからだ。


初出:女性ファッション雑誌SPURLUXEで3年間、SPURで1年間連載した15編に、新たな書き下ろし4編を加えている。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

フランスに生れ、モロッコで育ち、パリ大学を出て、ハーバードでも学び、日本に40年住み、世界を股にかけるビジネスマンで、4冊の本を出したコラスさんの話は、バラエティがありすぎる。感動的な実話、SF、ファンタジー、日本の古い農家や冷戦時のスパイの話などだ。それぞれの短編は面白く、もうすこし書きこんでくれたら良い中篇になりそうなのにと思う。



リシャール・コラス Richard Collasse
1953年フランス生まれ。バカロレアを取る前の18歳の時、日本を初めて訪れ、日本に恋し、1975年パリ大学東洋語学部(日本語)卒業。
1995年ハーバード大学アドバンスト・シニア・マネジメント・プログラム修了。
1975年在日フランス大使館勤務。
1985年シャネル入社。1995年からシャネル日本法人代表取締役社長。
1909年『SAYA』(フランスで出版)で「みんなのための文化図書館賞」受賞。
著書に、日本語版『紗綾 SAYA』(ポプラ社)、『遙かなる航跡』など。



以下、私のメモ
「叶わぬ夢」
弟の主人公は兄が寺を継ぐものと思っていて、憧れのカメラマンになり、成功し、さらにニューヨークへ渡る。急な知らせを受けて日本に戻ったときには、すでに父は死んでいた。そして、(ここからネタバレなので白字)
跡継ぎとなった兄から「父は弟の私に寺を継いで欲しかったのだ」と聞く。弟が父の遺品を整理していると、封筒の中に、初めて雑誌に掲載された山道を巡礼する僧侶の写真が出てくる。書き添えられていたのは、「すべての夢が叶わぬわけではない」。弟は別の形で父の夢を叶えていたのだった。ちょっぴり兄がかわいそうではある。

「旅人は死なない」
富、名声、すべてを手に入れたが、満たされない想い、孤独感に苦しむ主人公。ヤクザになった親友の助けで、名前も国籍も住所もすべて架空の人物になることができた。そして気ままな旅に出て違う人生を楽しむ。アフリカのサヘル砂漠を横断するときにテログループに誘拐されてしまう。そして。


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ピーター・メイル『南仏プロヴァンスの12ヶ月』を読む

2012年01月11日 | 読書2
ピーター・メイル著、池央耿『南仏プロヴァンスの12ヶ月』河出文庫メ-1-1、1996年4月、河出書房新社発行、を読んだ。

ロンドンを引き払い、南仏に夫婦で移住した英国人のピーター・メイル。素朴で個性的な地元の人々との交流し、多彩な料理と豊かな食文化、オリーブ、きのこなどが取れる自然、ワイン作りを楽しむ南仏プロヴァンスでの生活がユーモアいっばいで楽しく紹介される。
土地に根を張り、素晴らしい食べものとうまい酒と愉快な友人との時間を愉しみながら生活する魅力あふれる人々がここにいる。契約納期、約束がちっとも守られない、人間関係が濃密など田舎生活の困難さも著者夫婦は工夫やユーモアで乗り越えてしまう。
ライフスタイルが変わる1月~12月までの12章。イギリス紀行文学賞受賞作で、英米で100万部の大ベストセラー。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

田舎生活の憧れる人には種々の困難な点も含めて参考になるし、南仏での実際の生活が実に良く書けている。しかし、多くの人には多少退屈なのではないだろうか。

彼らが南仏に移り住んだと聞いた人が、ほとんど知らない人も含めて、次から次へと馴れ馴れしく電話を掛けてきて泊まっていく。あちらは年一度でも、こちらは毎週だ。多少楽しくはあるが、半分以上は大変で迷惑だ。

家の改造が途中で止まったままで関連工事をする職人達が来ない。催促しても「そのうち、近いうち」というばかり。そこで奥さんが考えた策が素晴らしい。職人達を招いて工事の完成を祝うパーティーを開くのだ。ただし、出席は必ず夫婦同伴のこととする。夫がどんな仕事をしているのか見たことがない妻たちは好奇心をくすぐられ、自分の夫が仕事を遅らせた張本人であることは望まないだろう。この招待状を受け取った夫はあわてて工事に駆けつけ、工事は一気に進む。



Peter Mayle(ピーター・メイル)
1939年ロンドン郊外生れ。ロンドンとニューヨークを行き来する有能な広告マンとして15年間働いた。
1973年に発表した画期的な性教育の本「ぼくどこからきたの?」が世界的な大ベストセラーとなり、小説を書くためにプロヴァンスに妻と犬を連れて移り住む。200年を経た石造りの農家を買いとって、そこでの暮しに馴染んでいく過程を月々の気候の移り変りに沿って12編のエッセイにまとめたのが本書である。たちまちミリオンセラーとなり、プロヴァンス・ブームをひき起こした。続編『南仏プロヴァンスの木陰から』がある。

池 央耿 (イケ ヒロアキ)   
1940年、東京生まれ。国際基督教大学教養学部人文科学科卒。翻訳家。主訳書には、本書の他に『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』『E.T.』『アバラット』『エデンの彼方』ほか多数。



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明治神宮宝物殿前へセンチメンタルジャーニー

2012年01月10日 | 行楽
中学から高校にかけて、毎日のように明治神宮の宝物殿前へ来た。最寄りの駅、代々木上原から参宮橋は2つ目だが、中学の時は自転車で来て、ニッケの木に登ったり、明治神宮の隣のワシントンハイツを金網ごしに眺めたりしたものだ。高校の下校時には歩いて明治神宮を横断して参宮橋の友人宅に上がりこむのが日課だった。

西参道の左側には熊笹が、



右側にはドコモの機械棟兼アンテナがそびえ立つ。



参宮橋には出ずに右に曲がり宝物殿前に行く。



宝物殿前には昔はなかった国旗掲揚台とさざれ石が。昔なら、右翼として抗議されただろうに。



さざれ石は長年月で雨水などに溶け出した石灰分が小石を凝結して少しずつ大きくなってできるとの説明があった。そんなことより、林の傍にあった艶やかな青色で宝石のような大きな石を探してウロウロしたが、見当たらなかった。
ともかく、宝物殿前に広がる開放感ある芝生の空間をご覧あれ。







池際にあった石が割れていた。若い女性がパワーポイントだと騒いていた。



本殿方向へ行く道にかかる橋のたもとからドモコのビルがかすかに見えた。



高校生の頃、この橋に寄りかかっていた進駐軍(古っ)の兵隊さんから英語で時間を聞かれた(掘った芋いじるな??)。私は得意満面で、“It is ten minute to three PM”などと教科書通りに答えたのだが、少しも解ってくれず、腕を取られて時計を見られてしまった。以来、英語学習の意欲をなくし、これが私を英語音痴にした原因なのだ??

参宮橋口へでると、交差点の向こうに首都高4号線とオペラシティが見える。



これもまた懐かしい東京乗馬倶楽部がまだあった。



よく柵にあごをのせて、縁のない遠い世界をいつまでも見ていたものだった。今の入会金が200万円、年会費9.6万円だから、やはりお金持ちの楽しみだ。
いかにもお嬢様が御乗馬なされておられました。



典型的庶民の我々は、参宮橋駅から小田急線に。線路は代々木八幡まで真っ直ぐ伸びる。



お昼過ぎに帰宅したが、この日も10,000歩。
3が日で3.5万歩。よく歩いたと自分を褒めてあげたいが、確実に摂取カロリーの方が多いだろう。


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明治神宮に初詣

2012年01月09日 | 行楽
3日ならもうすいているだろうと明治神宮にお参りした。原宿駅前はこの程度。



9時58分、一斉に警官が出てきて、交通規制。



明治神宮の入口はテントが張られて、献血を呼びかける声が響く。



横には、「悔い改めなさい。」「キリストの血は罪を清める。」との看板を掲げた人が。



私はエホバの証人の節制された態度にはむしろ好感を持っているのだが、わが子への輸血拒否だけは納得できない。一番苦しいのは親だろうから他人が非難できるのかという話はあるが。この場合は、信者ではない人が他人のために血を提供しようとしているのに、反対の看板を掲げるのはどうかと思う。ただ黙って立っているだけとはいえ。

3日の午前10時、南参道の入口もこの程度の人だ。



途中、東門から御苑に入ろうとしたが、中で1時間待ちと云うので諦めた。ここは江戸時代の初めから大名の加藤家、井伊家の下屋敷の庭園だったが、明治に入り皇室のご料地となった。特に6月の菖蒲は有名だ。親戚の叔父さんが電車の中で、「ねえ、お母さん、菖蒲園に行こう、しょう(ぶ)べんに行こう」と何回も云うので、叔母さんが参ったと言っていたのを思い出した。



左に曲って大鳥居をくぐると、右側には日本酒の樽が並ぶ。



左側にワイン樽がならぶ。看板には、「『和魂洋才』を旨として近代化を進めた明治天皇は特に葡萄酒を好まれた。仏ブルゴーニュ地方の醸造各社から献納されたものです。」との説明があった。



頭上に垂れ幕があり、生まれた年と厄年が書かれていたが、昭和26年以降だけで、私のような昭和10年代の者は厄年なんか気にしてもしょうがないらしい。どうせそうでしょうよ。



参道の脇には明治時代を解説する大きな絵があった。



突き当りにオーロラビジョンが設置されていて、本殿内の様子が映し出されている。



数十年前、元旦に来たときには、おそらく今年も、このあたりは止まっては少し動く渋滞だった。この映像を見ながら心を落ち着かせようというのだろう。

いよいよ南神門をくぐれば、本殿だ。



本殿内も空いている。



白い布が広げてある御社殿前のお賽銭受け場?に苦もなく近づける。元旦なら帽子を脱いで胸の前に差し出せば、数百円は儲かるはずなのだが。



東門を出るとおみくじやお札売場が並んでいて、原宿へ戻れる。



我々は、参宮橋に至る西参道へ向う。
こちら側でもおみくじやお札を売っていて、おみくじを結ぶ針金はいっぱいだ。



このあと、子供の頃、私の遊び場だった宝物殿前については次回。


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混雑するデパートとカフェ探しに疲れて

2012年01月08日 | 行楽
2日は各デパートの開店日。10時ちょっと前に新宿伊勢丹についたが、ほとんどの入口は閉まっていて人が並んでいる。しかし、店内には既にお客の姿が見える。正面口を開けて早めに福袋以外の客を中に入れていたのだ。
さっそく正面口に回り、婦人服売場へ。福袋はあっという間に売り切れたが、品物をあさる御婦人方がいっぱいで、戦場に置いてきぼりの私は通路をじゃまにならぬようにあっちにいったりこっちによけたり。レジもかなり並んでいるが殺気立ってはいない。
相変わらず各ブランドから派遣の店員が自分の島だけを売り込んでいる。こんな体制ではデパートは落ちていくばかりだろう。


戦果を抱えて表参道に戻る。ホテルの朝飯バイキングで頑張りすぎてまともな昼飯は食べられないと、246青山通りにあったはずの「アンデルセン」を探す。昔よく行ったはずなのに場所が思い出せない。といっても何十年前なのだが。
表参道から外苑前方向へ246の南青山側を歩いて行く。見当たらないので北青山側を戻り、表参道交差点を過ぎて渋谷方向に歩く。青学を過ぎて宮益坂の上に来ておかしいと南青山側に渡ってからまた戻る。なんと、表参道交差点のすぐ手前にアンデルセンがあった。記憶はもはやあてにならない。しかも、店は閉まっていた。

ならばと、表参道ヒルズへ行って簡単な昼飯が食べられるところを探すことに。



赤坂にもあって、毎週前を通り過ぎるだけの「TORAYA CAFE」に入る。
「野菜のスープと全粒粉スコーン」1050円を二人でシェアーし、



あとは、かすかにあずきの味がする「あずきジュース」と、



さすがに美味しい煎茶、のみ。



2時?にはホテルに戻り、箱根駅伝のゴールを見て、昼寝。
夜はホテルのレストラン。












元旦は、14,000歩。
今日2日も12,000歩。よく歩きました花丸!


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表参道ヒルズで夕飯

2012年01月07日 | 行楽
元旦の夜、ホテルのレストランは満席、開いているレストランを求めて歩き出し、表参道ヒルズまで来てしまった。



明治神宮帰りの人が寄るからだろう、元旦から中の店はおおかた開いていた。



「やさい屋めい」という店に入った。



予約なしなのでカウンター席に案内された。カウンターには野菜が積まれている。「日本の畑伝道師」なる人が選び抜いた野菜や果物だそうだ。



「生搾り 生姜エール」750円、「元気ジュース(人参)」500円、「お通し」650円×2



「カブのスープ」は、毎度のことながら、ほとんど飲んでしまった。



「今月の元気野菜 農園バーニャカウダ」

これが、新鮮でコリコリしていた美味しかった。





「ふるさと御膳」3800円×2



その中味は、
アロエの辛子酢味噌



わさび豆腐



かぶら蒸し



長芋の磯辺揚げ



梅干の天ぷら



「ほっこり〆のごはん」「お漬物・お野菜汁」



「甘味」「水菓子と健康茶」 これも食べてしまった。



さて翌2日はデパートが開く恐怖の日だ。

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