柳美里著『ファミリー・シークレット』2010年4月、講談社発行、を読んだ。
この本を書くきっかけはこうだ。
著者の柳美里には、小学生の息子がいる。彼は洋蘭が好きで、宇宙や化石にも関心をもつ男の子だが、自分の髪の毛を切ってしまったり、平然とウソをつく。
「あまりに嘘つきなので(そして次から次へと嘘をつきつづける)朝7時から15時までひっぱたきまくり、学校休ませ、罰として朝食も昼食も与えていません。・・・」
・・・
この記述と息子の顔写真を巡って、2ちゃんねるが“祭り”なったのだが、わたしのHPは何度も“炎上”しているので、別段気に病むことはなかった。
しかし、地域の児童相談所の福祉司が児童虐待を疑い、柳美里さん宅を訪れる。
実の親から虐待を受けていた柳美里は、自責の念と、「再演」(虐待の連鎖)を止めることはできないのかと怖れ、臨床心理士のカウンセリングを受け、26年ぶりに父に会うなど自分自身の過去を見つめ直す。
柳美里(ゆう・みり)
1968年在日朝鮮人の家庭に生まれ、やがて両親が別居。
小学生時代、「バイキン」と呼ばれいじめに遭い、近所の同級生の父親に性的虐待を受ける。
「母は生活用品を盗み、父は犬を盗んだ」というような環境で盗癖を持つ。
母親の夢の山手のお嬢様学校を素行不良で中退。自殺未遂と鬱病。
劇団「東京キッドブラザース」に入団。
1997年『家族シネマ』で芥川賞受賞
1999年『ゴールドラッシュ』で木山捷平文学賞受賞。
2001年死を目前にした東由多加さんの子どもを生み(本書の息子)、書いた『命』がベストセラー。
私の評価としては、★★(二つ星:読めば)(最大は五つ星)
著者が虐待されたり、わが子を虐待したりする様子が詳細に語られる。いったい、どんな気持ちでわが子を虐待できるのか知りたいと思って読んでみたが、途中で耐えられず、とばし読みしてしまった。
厳しい虐待の様子が書かれているので、気の弱い人にはお勧めできない。わが子の振る舞いにイラつき、ついヒステリックになってしまうお母さんがついエスカレートするのと、虐待とはやはり違うと思った。
著者のように子どもの時に虐待された心の奥の傷が、わが子のウソなど悪い行為によってパクリと開き、虐待の連鎖になってしまうようだ。
著者の子どもは、明らかにすぐばれるウソを繰り返す。これなど、母の顔を見ながらわざと悪いことをしているように思える。悲惨な連鎖を引き起こすように仕向けられているような気がして哀しい。
以下のような話、じっくり読む気になれますか?
秋葉原通り魔事件の犯人の母親は作文を書く小学生の息子のとなりに座って、一文字でも間違えたり、汚い文字を書いたりすると原稿用紙をゴミ箱に捨てて書きなおしを命じ、「この熟語を使った意図は?」などと訊ねて「十、九、八、七・・・」とカウントダウンをはじめ、〇になるとビンタをした・・・
神戸連続児童殺傷事件を起こした当時十四歳だった少年は、小学三年のときに母親のことを作文に書いている。「お母さんは、・・・しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、・・・。・・・そしてひっさつわざの『百たたき』がでます。お母さんは、えんま大王でも手がだせない。まかいの大ま王です」
そして、柳さんの母も、
母はキャバレーに出勤する前に、算数の問題を解くわたしのとなりに座り、間違った答えを書くたびに、ハタキの柄で、鉛筆を持つわたしの右腕を打った。打ち過ぎて、竹が割れて線状になり、腕は血が滲んでミミズ腫れになったが、母は、わたしが正解を出すまで許してくれなかった。
さらに柳さんも何回説明しても算数ができない息子にキレて、どなる。
「馬鹿ッ! なんで、おまえはそんなに馬鹿なんだ! 頭も悪い! 性格も悪い! なんの取柄もないパッパラパーのアホ野郎め!・・・おまえの顔なんか見たくねーんだよ!」
こんなことをするのは異常で、別世界のことと思えるのだが。
残念ながら「知性は感情の支配する領域には手が届かない」(アリス・ミラー『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』)のであり、自分は自分の感情の外に立つことはできない-。
・・・
「子どもを教育すればその子は教育を学ぶのです。子どもに道徳のお説教をすればその子は道徳を説教することを学びますし、・・・子どもを傷つければ子どもは傷つけることを学び、子どもの魂を殺してしまえば、子どもは殺すことを学ぶのです。そうなったとき子どもはただ殺す対象に関して選択の余地が残されるだけです。自分を殺すか、他人を殺すか、それとも両方か」(同前)
しかし、柳さんは以下のように書いて、虐待の連鎖を断ち切ろうとする。
「本人は過去を忘れても、過去は本人を覚えている」
トラウマには、自分の身に起きたことを無意識に繰り返してしまう「再演化」という性質があるそうだ。
わたしは、自分の内に同在する被害と加害を書くことによって変容させて、小説や戯曲のかたちで意識的に「再演」してきた。
小説や戯曲の中に、加害者でもあり被害者でもある自分を匿(かくま)ってきたのだが、わたしは、過去に見つかってしまった。逃げるものなら、息がつづく限り、逃げていたいが、息子を産み、自分の家を建てたときから「再演」の幕が開いていたのだろう。
しかし、わたしは、この芝居に出演したくない。
この芝居を、息子に「再演」させたくない。
わたしは、母と父から受け継いだこの芝居に幕を下ろすために、「虐待」という問題に関わるつもりだ。
私は、文学の力を信じようと思う。