hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

11月中旬の井の頭公園を歩く

2012年11月30日 | 日記
まずは七井橋から井の頭池の東側を眺める。紅葉も目立たないし、桜の季節でないと迫力がない。



西側の御茶ノ水池をみると、ボートが。





どうやらメンテの人たちのようだ。



井の頭池は湧水の量が少なくなって水質が悪くなり、噴水や水質改善に努力している。

白鳥の足踏みボートが人気で、普通のボートは狛江橋の脇にまとめられている。



最近ところどころに花壇が作られた。ぐるりと囲み白い花がチラチラしているのはトレニア・サイクロンで、外側は葉が白いラミウムだ。



交番の脇の道を南へ、黒門の方へ歩く。



住宅の間を行くと黒門が見えた。



この家は黒門さん?



住宅街の間の細い道が、かっては井の頭公園の弁天堂への表参道だった。



立派な石柱も




地図でご覧ください。(上が南)



ここから東方向へ歩く。このあたりは車がスレ違い困難なほど細く、複雑な道が続く。
北側に竹林が見えた。



迷いながらも何とか駅へ。
自宅に着くと、9300歩。しかし、これでも260Kcal、ハンバーグ1個分。昼飯で軽く取り返した。トホホ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川洋子『とにかく散歩いたしましょう』を読む

2012年11月28日 | 読書2
小川洋子著『とにかく散歩いたしましょう』(2012年7月毎日新聞社発行)を読んだ。

46編のエッセイのほとんどが日常の生活の中なのだが、なんらかの形で本に関わる話と、飼っていたラブラドールの愛犬の話が大部分だ。

毎日jpのインタビュー」で小川さんはこう語っている。
連載を終えてみると、改めて自分の生活、人生に「本」がすごくいろいろと関わってるんだなあ、と。仕事以外でもね。それは再確認しました。


昔読んだ本を久しぶりに読むと、違った内容でびっくりすることがある。(「本の模様替え」)
実物の本とは別に、私一人だけのバージョンが記憶の本棚にしまわれている。・・・私の書いた小説も誰かの心の中でこんなふうに模様替えされているのだろうか。この想像は私を幸福な気分にする。


著者の愛犬は、ラブラドールのラブだ。(「とにかく散歩いたしましょう」)
家族が事故で病院に担ぎ込まれるなど非常事態が起こり、
疲れきって家に帰ると、ラブがお利口に待っていた。ご飯ももらえず、散歩にも行けないままずっと放り出されていたのに、文句も言わず、・・・「何かあったんですか。大丈夫ですか」という目で私を見上げ、尻尾を振ってくれた。散歩に出ると、・・・いつも以上に元気に歩いた。その時々の不安を私が打ち明けると、じっと耳を傾け、「ひとまず心配事は脇に置いて、とにかく散歩いたしましょう。散歩が一番です」とでも言うかのように、・・・グイとリードを引っ張った。


初出:「毎日新聞」2008年6月10日~2012年3月14日、月に一度の「楽あれば苦あり」を改題



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

どこにでもある日常のひとこまから、しみじみとした人の温かさを気づかせてくれるエッセイだ。
著者は、まちがいなく大変努力し、そして成功した小説家なのに、あくまで謙虚で、日常生活では人柄が良く、ちょっと慌てん坊なお喋りな小母さんに見える。これまでのエッセイを読んでも、そんな日常の小川さんと、素晴らしい小説がストレートにつながらなかった。
しかし、このエッセイを読むと、本当に本好き、お話好きである点と、何か小川さんの心の深い所から湧いてくるものが優れた小説に結実していると思えてきた。


小川洋子は、1962年岡山県生れ。
早稲田大学第一文学部卒。1984年倉敷市の川崎医大秘書室勤務、1986年結婚、退社。
1988年『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞
1991年『妊娠カレンダー』で芥川賞
2003年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、2006年に映画化
2004年『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞
2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞
その他、『カラーひよことコーヒー豆』、『原稿零枚日記』『妄想気分』『人質の朗読会 』など。
海外で翻訳された作品も多く、『薬指の標本』はフランスで映画化。
2009年現在、芥川賞、太宰治賞、三島由紀夫賞選考委員。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランツ・カフカ『絶望名人カフカの人生論』を読む

2012年11月25日 | 読書2

フランツ・カフカ著、頭木弘樹訳『絶望名人カフカの人生論』(2011年11月飛鳥新社発行)を読んだ。

絶望的なカフカの日常の嘆きで満ちた本だ。

将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。将来に向かってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。


これがラブレターの一部だというのだから徹底している。

ミルクのコップを口のところに持ちあげるのさえ怖くなります。そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、起きないとは限らないからです。

ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない。





私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

常にあらゆるところで「前向き」が求められる現在、貴重な後ろ向き発言が並ぶ。そのほとんどが、絶望的言葉で、これほど徹底していると、ネガティブも気持ちが良い。

心を病んだ人などはまずこんな本を読むと、心をすこし静めることができるのではないだろうか。そして、時が経てば、遠くに灯りが見えるようになるだろう。

それにしても、「駄目だ、駄目だ」と思いながら、職場では有能な仕事人で、なにより革新的作品を残したカフカは不思議な人だ。
万里の長城』のあとがきで池内紀さんが書いてように、結核になるほど勤務後の長時間執筆して、絶えず努力した人なのだ。

仕事場にしたのは・・・およそ寒々しく、使い勝手が悪いので、借り手がいなかったしろものである。
勤めからかえると二時間ばかり仮眠をとり、夕食のあと、小さな包みをもって両親の家を出る。・・・夜ふけまで小説を書き、また翌日の出勤にそなえて市中の家にもどってくる。凍りつくようなプラハの冬に、どのような気持ちで執筆に励んでいたのか、感慨めいたことは一切述べていない。いずれにせよ、コッペパンに小さなノートの包みをぶら下げ、長い石段をのぼっていく姿は、二十世紀の文学的風景のなかで、もっとも美しい一つではなかろうか。





フランツ・カフカ Franz Kafka
1883年―1924年。チェコのプラハ生れ。両親ともドイツ系ユダヤ人。プラハ大学で法学を専攻。卒業後は労働者障害保険協会に勤めながら執筆に励む。結核で41歳で死去。
『変身』『審判』『城』『失踪者』、その他、『万里の長城』など。
最初の日本語訳『審判』が1940(昭和15)年出版されたが、6、7冊しか売れなかったらしい。そのうちの1冊を安部公房が買っていたのだそうだ。

頭木弘樹(かつらぎ・ひろき)
1965年生れ。筑波大学卒。カフカの翻訳と評論を行なっている。
筑波大3年のとき、難病の潰瘍性大腸炎となり、入退院を繰り返す生活が10年以上続いた。そんな日々に、信じていれば治る、といった明るい励ましの言葉は全く耳に入らなかった。支えてくれたのが、おそろしくネガティブな嘆きで満ちたカフカの日記や手紙だった。頭木さんは1998年に手術を受け、かなり健康を取り戻した







以下、私のメモ

バルザックの散歩用ステッキの握りには、「私はあらゆる困難を打ち砕く」と刻まれていたという。ぼくの杖には、「あらゆる困難がぼくを打ち砕く」とある。共通しているのは、「あらゆる」というところだけだ。

ぼくはひとりで部屋にいなければならない。床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、ひとりでいれば何事も起こらない。

ぼくは本当は他の人たちと同じように泳げる。ただ、他の人たちよりも過去の記憶が鮮明で、かつておよげなかったという事実が、どうしても忘れられない。そのため、今は泳げるという事実すら、ぼくにとってはなんの足しにもならず、ぼくはどうしても泳ぐことができないのだ。

「変身」に対するひどい嫌悪。とても読めたものじゃない結末。ほとんど底の底まで不安定だ。当時、出張旅行で邪魔されなかったら、もっとずっとよくなっていただろうに・・・。

僕は彼女なして生きることはできない。・・・しかし僕は・・・彼女とともに生きることもできないだろう。

二人でいると、彼は一人のときよりも孤独を感じる。誰かといると、相手が彼につかみかかり、彼はなすすべもない、一人でいると、全人類が彼につかみかかりはするが、その無数の腕がからまって、誰の手も彼に届かない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上未映子『人生が用意するもの』を読む

2012年11月22日 | 読書2

川上未映子著『人生が用意するもの』2012年8月新潮社発行、を読んだ。

日常をちょっと変わった視点で眺め、独特の小悪魔的文体で語る川上未映子さんの、3頁たらずのエッセイが60編ほど。
「オモロマンティック・ボム」(おもしろとロマンティックをその頭のなかでボムっと爆発する)の単行本3冊目。

初出:週刊新潮、日本経済新聞の2011年5月~2012年5月

1 世界のみんなが気になるところ

ところで耳垢って、あんまり取れないと「なあんだ」みたいな感じで期待はずれ&ちょっとがっかりした気持ちになって、ごっそり取れると「おお!」みたいな、うれしい気持ちになって、捨てるまでちょっとのあいだじっと見つめていたくもなるあの感じ、あれってなんでだろう?



2 3月の記憶
震災の暗い話や、原発事故で政府の発表する数値は信じられないというどこにでもある話。危険認識派の人々はどんどん疲弊していき、周りの理解を得られず排斥され孤立していく。

3 人生が用意するもの

本を出して著者が受け取れる印税は例外を除けば一律で定価の1割。・・・売れても売れなくても刊行から2ヶ月以内にとにかく刷った初版分の印税が振り込まれる。

担当の女性と一緒に個室に入って一大セッション、ブラジャー装着。脇や背中の肉をなんの躊躇もなくがっと掴み、カップに盛り入れ「おまえらは胸の肉である」と錯覚させる手腕はなかなかのもので・・・



4 ラズノグラーシエごっこ
例えば「私は目が離れている」と言い、相手にも同じ事をいってもらう。ラズ(ズレ=異和=うっ)が発動せず、乗り越えていることがわかる。一方、「わたしは可愛くない」「うん君は可愛くない」ではうっとなる。事実を認めてはいるが、まだなんとかしたいと思っていることがわかる。これが、ラズノグラーシエごっこ。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

震災、原発の話は暗くてパッとしない。その他も、なんという事ない軽い話で3頁たらずの短い話が続く。しかし、多くは、ちょっとした独特の視点、軽いノリの文体でそれなりに面白く読める。



川上未映子の略歴と既読本リスト


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』を読む

2012年11月19日 | 読書2

マブルーク・ラシュディ著、中島さおり訳『郊外少年マリク』(2012年10月集英社発行)を読んだ

パリ郊外の貧しい地区の団地に住むアルジェリア系の移民の少年マリクが、たくましく生きる5歳から26歳までの姿を描く。住宅街に住む者との格差、偏見、貧乏など厳しい環境の中で、仲間たちに囲まれて、サッカーを楽しみ、ときに悪さをしながらも、困難を笑いとばし、あふれるエネルギーを放ち、成長していく。

サッカーが好きで才能に恵まれても、激しい格差の中で抜け出せない。多くの友は悪の道に落ちる。友情や母親への思いを抱きながら、胸を張って生きるマリク。不思議なくらい悲壮感がないその姿を、短く畳み掛ける文で、軽やかに描く。

初出:訳者・中島さおりにより「文學界」2010年10月号に「五歳」「十一歳」「十三歳」の三篇のみ翻訳掲載。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

何かを抱えて育った男性にはとくにお勧めだ。
貧しい地区で悪ガキが仲間と共に、何人かは倒れ、何人かはなんとか生き延びて成長していく。5歳から26歳まで年ごとに22に細分化され、文は短く、簡潔で潤いや情緒はなく、淡々と記録映画風にマリク少年を描いていく。しかし、読み進めるうちに、遠いフランスの移民街の少年の話が、身近に、まるで自分のことのように思えてくる。
劣悪な環境で生き抜くマリクと仲間たちに乾杯!
そして、声高な主張ではなく、淡々と愛情とユーモアをもって描く著者に感謝。

この本は、『またやぶけの夕焼け』の著者の高野秀行のオフィシャル・ブログに紹介されていた。



訳者:中島さおり
1961年東京生れ。著書『パリの女は産んでいる』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。翻訳『ナタリー』
父母ともにフランス文学者。直木賞作家中島京子は妹。パリ近郊にフランス人の夫とバイリンガルの子ども二人と暮らしている。

訳者中島さおりのブログ「わすれもの」に、「訳者あとがき」が載っている。

当初、旧植民地からの移民労働者は工場労働者として歓迎され団地に入居した。しかし、1973年のオイルショック以来、解雇されたり、厄介者扱いされるようになった。団地は低所得層が集中し、ドラッグの密売などが行われる場所になる。マリクが生れ育ったのはそういう環境だ。


(郊外とはいえ、これがあのパリなのだ)

さらに、「わすれもの」には中島京子(芥川賞作家で訳者の妹)の「解説」が載っている。






以下、私のメモ。

小学校に入ったら、周りから一目おかれなきゃならない、さもないと悲惨なことになると前から言われていた。・・・
しかも母さんが、小学校入学の記念とかいって、・・・時代遅れのトータル・ファッションを押し付けるもんだからなおさらだった。おれはピエロみたいだったと思う。・・・横には、嫌だというのに・・・母さんをひっつけて。・・・おれはちょうど張り飛ばすのにもってこいの顔をした妙ちくりんなやつだったんだ。
――母さん、次はいっしょに来ないだろ、ね。
――あんたは優しい母さんを持って運が良かったのよ、ね。
 こんなくだらないことを言ったかと思うと、母さんはおれのおでこにでっかくチュッとやった。おれは嫌がっているという引きつった笑いをこれ見よがしにして、おでこを拭いてみせたけど無駄だった。
・・・
――チューしてくれないの? おネエチャン。
――母ちゃんいなくなったらさみしくないかい?
・・・俺は血祭りにあげられてしまった。・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野の空襲の跡を歩く

2012年11月15日 | 世の動向

11月3日(土)、フィールドワーク「中島飛行機武蔵製作所と武蔵野の空襲の跡を歩く」に参加した。

集合は武蔵野市役所。



主催の「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」から2時間半ほどのコースの説明がある。参加者は20名ほど。20代とおぼしき人が3名ほどいたが、60代以上が大部分で、語り継ぐ難しさがわかる。92歳の方もいて、頭がさがる。



まず、武蔵野市営グランドへ。グランド一杯にゴルフクラブを振りまわす人たちが広がる。



平和な光景だが、ここでも防空壕に250トン爆弾が落ちて約30名の人が亡くなったのだ。今の4中が当時中島飛行機の青年学校でその職員、学生が生き埋めになった。ここには高射機関砲が並び、一時は不発弾置き場となっていたという。中島飛行機に勤めていた方の当時の話を聞きながら、楽しげなグランドを眺めると、何か幻のように思えてくる。

クリーンセンター、要するにゴミ処理場からNTTの研究所へ向かう。間の道路の下には今も工場の地下通路が走っているはずという。



さらに進むと、道路が左に湾曲している。この左には、戦後、プロ野球も行われた(といっても16試合のみ)東京スタジアムという野球場があったためだ。



NTTの研究所を塀の外からのぞく。下の写真の建物は壁面が新しくなっているが中島飛行機のボイラー室で、現在は体育館として使われている。



2001年に取り壊されるまで、この研究所の2号館、3号館は中島飛行機の建物を改修したものだった。2号館の残っていたエレベーターはエンジンを運ぶための大きなもので、ドアは蛇腹で、完全手動だった。床面が近づくと上り下りのスイッチを入れたり切ったりして丁度良い高さに調節するのが、面白くもあったのを思い出す。
当時、ときどき不発弾が発見されて、午後からは休みなどとなり、ただただ浮かれて新宿などに繰り出したものだった。

都営緑町住宅の道路をふさぐようにシラカシの木がある。戦争を生き抜いたのに、最近立ち枯れてしまった。



中島飛行機の建物で、現在残る唯一のものが都営武蔵野アパート管理事務所だ。当時の変電室だが、改修されて面影はなく、保存対象になっていない。(その後、保存のために活動もむなしく、この建物は破壊されてしまい、現在、中島飛行機の当時の建物は全く残っていない。)



都立武蔵野中央公園、通称原っぱ公園は、当時武蔵製作所西工場だった。ここには「武蔵野平和の日」の説明板がある。日本ではじめて本格的な空爆を受けたのが中島飛行機のあった武蔵野市で、その日、11月24日を「武蔵野平和の日」としたのだ。
記念樹の説明板には、長崎の被爆地で枯れたあと芽を出した被曝クスノキの種から育てられた苗を植えたと書かれていた。



ここでも、当時爆撃を受けた方から生々しい話があった。写真中の写真は西工場で、空爆で破壊された箇所を指し示している。



このあと、武蔵境駅から中島飛行機への引き込み線の跡、現在は遊歩道を訪ねた。
米軍の空爆は1万メートル上空からのもので、工場周辺も被曝して多くの方が亡くなった。延命寺には檀家の方で戦死した方、戦災で亡くなった方を悼み、名前を刻んだ平和観音像が建立されている。



傍らには、250kg爆弾の不発弾があり、



エンジンの試運転に使われた木製のプロペラがある。



源正寺には、身元不明の遺体の供養のための「倶会一処」(くえいっしょ)の碑があり、



爆撃により破壊され、あえてそのままにしている墓石や、傷つけられた墓石がある。







戦争の悲惨さを語り継いでいくためにも、なんらかの形で愚かな戦争の跡を残して行く事は大切だと思った。また、実際に空爆を受けた方々の話を聞いて、幼いころに父母や親戚から聞いた戦災の話を思い出した。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛田守彦『戦時下の武蔵野 1』を読む

2012年11月12日 | 読書2

牛田守彦著『戦時下の武蔵 1中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』(2011年11月ぶんしん出版発行)を読んだ。

戦前、戦中の武蔵野市には、零戦のエンジンなどを製造する5万人が務める中島飛行機という工場があった。1944年11月24日、アメリカ軍は日本最初の空襲の目標地としてこの中島飛行機を選んだ。以来、9回、505機の爆撃で工場は破壊され、周辺も含め220名の方がなくなった。
この本は、戦争経験のない世代に、身近に残る戦争の傷跡を写真、被害者の話などを前にして、悲惨な戦争の現実を報せるためのものだ。

目次
Ⅰ 工場内の空襲犠牲者
Ⅱ 爆撃による工場内の被害状況について
Ⅲ 「米国戦略爆撃調査団」と中島飛行機武蔵製作所
Ⅳ 米軍資料に見る中島飛行機武蔵製作所への爆撃
Ⅴ 武蔵野町における市民の犠牲者
Ⅵ 親友の命を奪ったあの戦争
エピローグ 戦時下の体験を想像し、平和を守る力にしたい



牛田/守彦
1961年愛知県生まれ。1988年早稲田大学大学院文学研究科(教育学専攻)修士課程修了。現在、法政大学中学高等学校教諭、武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会幹事、戦争遺跡保存全国ネットワーク会員、武蔵野市平和施策懇談会・委員(2010年)
武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会

続編Ⅱは、三鷹市など周辺地域を扱うことになるそうだ。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

激しかった空爆の跡の痕跡は、話を聞いて、よく見ると、わずかだがいくつか武蔵野市に今も残っている。緑町近辺の人はもちろん、武蔵野市に住人には知っておいて欲しい情報だ。なんらかの形で若い人に伝えていかねがと思う。
広々として子ども達が駆けまわる原っぱ公園が、かっては巨大な軍需工場で今も地下には地下道が走っていて、激しい空爆で多くの人が亡くなったことを知っていて欲しい。

それにしても、はるか昔なのに、米軍の科学的な攻撃方法には恐れ入る。最初の空爆前に米軍が中島飛行機を撮影した写真や、空爆中の爆弾が落下していく写真の鮮明なこと。常に結果を吟味して次の攻撃に反映している。戦後に爆撃跡を詳細に調べる調査団を派遣して、爆撃の効果、効率を調べている。これらを公文書館に保存し、公開している姿勢は米国の良き面だと思う。被害を受けた側からも敵ながらあっぱれと言うしかない。
これに比べて日本軍のお粗末なこと。今も当時の隠蔽体質が残っているのが哀しい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長尾和宏『平穏死10の条件』を読む

2012年11月08日 | 読書2
長尾和宏著『平穏死10の条件 胃ろう、抗癌剤、延命治療いつやめますか』2012年7月ブックマン社発行、を読んだ。

「まえがき」から引用
80歳代、90歳代の在宅患者さんが毎日のように異口同音に仰るのは「早くお迎えに来てほしい」と「延命治療は絶対にイヤ」という言葉。ところが、そうした残り少ない寿命でも、思わぬ転倒・骨折で入院すると、短期間で認知症が進み、食事もままならなくなって、胃ろうを造って帰ってこられます。あるいは、住み慣れた我が家で死にたいと強く願っていたにもかかわらず、自宅に帰ることは許されずに結局、施設や病院で最期を迎えられる人も多くいます。病院にお見舞いに行くと、元気なときに本人が望んでいた最期の迎え方とは全く違う状態。虚ろな目でボーッと寝ている姿に言葉をなくしたことが何度もありました。
 いくら平穏死を強く望んでも、簡単には叶わない時代に我々は生きている・・・


病院で行われる死を先延ばしにするだけの延命治療を批判し、在宅での最期が可能であるなら、それが本人にとって最も幸福であるというのが、500人を在宅で看取った現役の町医者の主張だ。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

著者は、自宅での平穏死が最善という考えで、転倒しないこと、胃ろう開始は十分考えてから、尊厳死協会に入ることを薦めている。しかし、私は、自宅療養は家族の負担が大きく、実施に疑問がある。私自身は、妻や子供に感謝の言葉を残してから、病院で一人で死んでいく方が気楽だと思う。
また、私のように十分、年とった者が回復不可能になれば、延命治療をやめるのは当然だろう。現実にはグレーゾーンでの迷いや、急な病では未練が残ると思うが。



平穏死10の条件

1.平穏死できない現実を知ろう
終末期の患者が入院すると必然的に延命治療を受け回復する。そうなると、本人や家族が希望しても延命治療を途中で中止することは困難となる。医師が殺人罪で逮捕される可能性があるからだ。

2.看取りの実績がある在宅医を探そう
実際に看取りの経験がない医者が多いという。とくに病院の専門医には。

3.勇気を出して葬儀屋さんと話してみよう
4.平穏死させてくれる施設を選ぼう
5.年金が多い人こそ、リビング・ウィル(生前の遺言)を表明しよう
6.転倒→骨折→寝たきりを予防しよう

7.救急車を呼ぶ意味を考えよう
「救急車を呼ぶ」ということは、蘇生、それに続く延命治療への意思表示になる。在宅看取りと決めたら救急車を呼ばずに在宅主治医に電話して待つ。

8.脱水は友。胸水・腹水を安易に抜いてはいけない
9.24時間ルールを誤解するな! 自宅で死んでも警察沙汰にはならない!
10.緩和医療の恩恵にあずかろう



その他、メモ

●今では、自宅で亡くなる人は2割、病院が8割。40年前は逆。
●平穏死、自然死、尊厳死はほぼ同義語、安楽死は「人為的に死期を早める処置」で別物。
●胃ろうそのものがいいとか悪いではなく、いったん開始した胃ろう栄養を簡単には中止できない現実にある。
●死ぬとき人はどうなるか。
(ドラマのように、ガックリいくのを見たことはない)
 残された時間が週単位から日数単位になると

人はウトウト寝ている時間が長くなり、呼びかけると目を開ける(傾眠状態)。
食事や水分を飲み込みにくくなり、むせやすくなる。
辻褄の合わないことを言ったり、興奮して手足を動かしたりする(せん妄)。

 臨終のときが近づくと、
呼びかけへの反応が鈍くなる(意識低下)。
大きく息をした後、10~15秒間ほど息が止まり、また息をすることもある。そして、次第に顎を上下させる呼吸に変化する(下顎呼吸=最後の呼吸)。この時は白目をむいて、もう意識はない。
やがて、呼吸が止まり、脈が触れなくなる。



長尾和宏(ながお・かずひろ)
1958年香川県生れ。1984年東京医科大学卒。大阪大学第二内科に入局。
1995年尼崎市で開業。著者を含め計7人の医師が365日24時間態勢で外来診療と在宅医療に従事。
長尾クリニック院長、日本尊厳死協会副理事長





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野秀行『またやぶけの夕焼け』を読む

2012年11月04日 | 読書2


高野秀行著『またやぶけの夕焼け』2012年7月集英社発行、を読んだ。

小学4年生ら5人が、70年代、自然豊かな東京・八王子の田園を駆け回る。野球、虫捕り、火遊び、秘密基地、探検。5年生の団長カッチャンは「遊びじゃねぇんだ」が口癖の変人。小学生の日常の場所をほんの一歩踏み出しただけで、まったく違う風景に出会い、少年の心は震える、へんな所ばかり探検する高野秀行の原点ともいえる12の少年短編小説。

最初の1つ(表題作)だけ、あらすじをご紹介。

またやぶけの冒険
小4の主人公の阪野ヒデユキは、弟のユーリン、ひねくれ者のシゲオで、「またやぶけ」の土管(足をすべらせると、半ズボンの股が破け)に行くと、五年生で「すごく変なやつ」として知られるカッチャンが弟のミンミンと現れ、ドブ川の土管の先の探検に引き込まれる。コンクリートの用水路をさかのぼり、エロ本を見つけ、蟻地獄の沼を渡たり、新興住宅地の源流を探し当てる。そして、5人はカッチャン軍団となる。

以下の話は、最後に。

初出:「青春と読書」2011年5月号~2012年4月号を加筆、修正



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

ファミコンなどなかった時代に育った男の子なら懐かしさでニヤニヤしてしまうだろう。女の子には「バカね」で終わりだが。

主人公は、地味でおとなしい小4の阪野ヒデユキ。いたずら好きだが、心配性のお母さんの必殺のため息「はあっ」に一発でダウンする。
どこにでもついてくる小1の弟のユーリン。ひねくれ者で頑固なシゲオ。運動神経抜群でなんでも無茶なこと大好きで、興奮すると耳がバタバタするカッチャン。何かというと中国人の真似をするカッチャンの弟ミンミン。
個性豊かな少年たちがまだ野原があった八王子郊外でメチャをやる。



高野秀行 略歴と既読本リスト




以下、ネタバレぎみ。

復しゅうの鉄橋
軍団は、以前ストライキの時に横浜線の鉄橋を渡り、警官に捕まった。この復讐をするため、犬釘で鉄橋のレンガに穴を開ける。しかし、警官が現れ、線 k路の下に逃れたが、ちょうど通過した列車の轟音に体がビリビリする。

八幡様のクワガタ
1日1匹しか取れないノコギリクワガタを捕まえに、転校してきたばかりのマサトを誘い、午前3時に自転車で家を出る。パワフルなマサトがやさしい。

弟をスパルタする
僕はいつも弟のユーリンをプロレスなどで鍛えて(いじめて)いた。しかし、魚採りに行ったとき、ユーリンは魚採り名人のシゲオの方に付いて行ってしまう。夕方にようやく戻ってきたユーリンは、シゲオに魚の採り方を習ったが、秘密だと言って、得意気だ。

マタンキ野球場
軍団は僕の家の裏の空地でいつも野球していた。ある日、カンチャンの打った球が事僕の家のガラスを割る。そして、立派なフェンスができる。

幽霊とウソ
学校では「不思議な話」が流行し、僕も夕暮れ時にガード下で幽霊を見た気になる。学校で話すと、誰も信用しなかったが、幼馴染みの長谷川真理が味方になってくれ・・・。

結婚したい
カッチャンは僕だけを秘密基地に案内した。彼はこっそり少女マンガを読んでいたのだ。そして、僕は、恐れられているオトコンナンズの一人古田から告白されてしまうが、秘かに長谷川との結婚を夢見る。怪しんだカッチャンは、必殺技マウスクローで口を割ろうとするがこれだけはと、口に出さなかった。

サルになりたい
僕はゴルフボールを見つける。「プロゴルファー猿」に夢中だった僕らは、カッチャンの家の庭にゴルフコースを作り、クラブやコースの改善を重ねる。

ボニーの失踪
年末恒例の親戚同士の餅搗きに僕は犬のボニーを連れていく。遊びに夢中でボニーは行方不明になり、暗くなって・・・。

地底戦車をつくる
カマドで焚き火をしているうちに、解けているのが、鉛だとわかる。僕は鉛で地底戦車を作り、氷の上に置くと、静かに沈んでいくことを発見する。

僕らの縄文時代
城跡で見つけた縄文式土器を自分たちで作ることに挑戦する。できた土器をゴルフカップにすると、追い求めていたあの音がする。

カッチャン軍団、最後の冒険
カッチャンが来年中学生という6年生になったある日、いつものように遊びに行くと、彼の同級生がいて、もう軍団とは遊ばないと言われる。
僕だって、中学になったら部活や勉強でこんなことはやっていられないことはわかっていた。しかし、カッチャンと最後の冒険をしたいと作戦を練る。
僕らはドラコンができる距離のあるゴルフコースを探し出し、ドラコンでカッチャンが負けたら軍団は解散しないと約束する。しかし、練習を重ね自信満々の僕はOBを叩いてしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向田邦子『女の人差し指』を読む

2012年11月02日 | 読書2
向田邦子著『女の人差し指』文春文庫む1-23、新装版2,011年6月文藝春秋発行、を読んだ。

脚本家としてのTVドラマや、大好きな「食」、「旅」をテーマとしたエッセイ集。晩年、といっても亡くなったのは51歳、のエッセイが多く自由闊達な話運び、ちょっとした日常の機微を捉え、鮮やかな会話文が光る。

脚本家デビューのきっかけ、料理好きがこうじて妹と開店した小料理屋、アフリカなど旅行の旅の思い出、急逝で遺作となった「クラシック」などを集めている。
負けん気が強く、甘えるのが苦手で、おっちょこちょいだが、好奇心旺盛で、生き生きとした向田邦子が溢れ出る作品集だ。

本書は、雑誌掲載の小エッセイを集めて1982(昭和57)年に単行本となり、1985年に文春文庫で出たものの新装版。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

忙しく駆けまわり、なんでも一生懸命で、オッチョコチョイ。ちょっと蓮っ葉で、生きの良い言葉遣いをし、意気地なし面もあり、やさしい魅力的な向田さんが浮かび上がる。

さすがに話の背景は古く、若い人が実感を持てるか疑問でもある。しかし、昭和一桁生れの向田さんが若い時を語ると、10歳以上若い(若い、いい言葉だ!)私にはうろ覚えの幼い頃が浮かび上がり懐かしい。
しかし、例えば、多いことを「つくだ煮にするほどの」と表現する箇所が3つほどあるが、若い(まだ言ってる)私には多少違和感がある。

向田邦子のエッセイの魅力のひとつに、自在な話運びがある。いかにも女性の話なのだが、終わって見ると、きっちり締めくくられている。題名から関係ないところから始まり、どこへ連れて行かれるかわからないルートを通って、絶妙なオチで締めくくられる。
たとえば、最初の「チャンバラ」は、箸で始まり、ナイフとフォーク、固く握ることからようやくチャンバラになったと思ったら、女の子はチャンバラより日本人形と人形になる。突然、チャンバラに戻り、固く握ることからペンだこ、剣だこで終わる。



向田邦子(むこうだ・くにこ)
1929(昭和4)年東京生れ。
実践女子大学卒業。秘書、「映画ストーリー」編集者を経て、脚本・エッセイ・小説家。
「七人の孫」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」など人気TVドラマの脚本、『父の詫び状』『あ・うん』『家族熱』などの小説・エッセイを書く。
1981(昭和56)年8月22日台湾の飛行機事故で死亡(享年51歳)



邦子さんのお母さんは、お父さんがお賽銭を間違えてほうり込んだと聞くや、社務所にかけあってお賽銭のお釣りを頂戴したという。そのくせ、市電に乗って回数券の代わりに汲取券を出してしまったという。(汲取券って分かりますか?)

お母さんとは年寄りだからと手加減せず付き合っている。仕事中や来客中の電話だとはっきりという。
「いま忙しいから、略して言ってくれない」
「あ、そうお、じゃあ略して言いますけどねぇ」
「略して言うとき、いちいち断らなくてもいいのよ」
「本当だねえ、それじゃ略して言うことにならないものねぇ」
「そうよ、で、どうしたの」
「略して言うとね―――あとで電話する」
電話はガチャンと切れてしまうのである。

こんな会話文、男性には書けません。

「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」「吟味されたご飯。煮魚と焼魚。季節のお総菜。出来たら、精進揚の煮つけや、ほんのひと口、ライスカレーなんぞが食べられたら、もっといい。」と、妹の和子と東京都の赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。この店は邦子さんの死後も妹の和子によって続けられたが、1998年(平成10年)に閉店した。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする