hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

何もかもが待ち遠しかった日々

2023年09月21日 | 昔の話

 

目を細めて子供時代の遠い日を想うと、あの頃は、いつでも何かしら待ち遠しい気持ちで過ごしていたような気がする。

そもそも、毎日何かしら小さなことでもワクワクと過ごしていて、明日はもっと楽しいことが待ち受けているような気がしていた。

 

よそ行きを着て母に連れられて、新宿のデパートにお出かけするのはまさにハレの日だった。とくに何か買ってもらうわけでもないのだが、時として食堂で旗の立ったお子様ランチを食べるのはワクワクだった。
時々は銀座にも私の手を引いて出かけたらしい。突然、進駐軍の兵隊さんが「おお、ベイビー!」とか言って、私を抱き上げて高い高いをしたという。母は焦ってただオロオロするだけだったと聞いた。
小学校の遠足も楽しみだった。前の晩、母が苦労して手に入れたお菓子を詰めたバッグを枕元に置いて、少し早めに布団に入らされた。隣の居間の大人達の会話が聞こえ、いつもと違いなかなか寝付けなかった。行き先は新宿御苑、浜離宮など代々木上原の自宅から近く、とても遠足とは言えなかったのだが。

 

叔母さんに連れられて、いとこ達との海水浴はなによりの楽しみだった。小学校の夏休みの恒例で鎌倉由比ガ浜近くの叔母さんの知人宅へ泊りがけで出かけるのだ。
砂浜に大きなヤマを作り、周囲にらせん状の道を巡らせ、ボールを転がす。夜は、蚊帳の中でいとこ達とふざけっこをする。なんでもないことも一人っ子の私にはとくに楽しみだった。
帰りがけにお世話になったおばさんから「坊や、また来年来てね」と言われて、しばらく考えてから「僕、わかんない」と答えた。「普通、ウンでしょう」といまだにいとこ達にからかわれる。

 

今後に期待することもほとんど無くなった現在、もはや待ち遠しいことはない。このまま少しでも長く、この何事もない平穏な生活が続くことを願うばかりだ。
はるか昔の幼い頃の思い出を、牛の反芻のように時々呼び出しては、しみじみと懐かしんでいる。

 

 

 

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駅といえば別れ 

2023年09月09日 | 昔の話

 

別れでまず思い出すのは1957年のロマンチック・コメディー映画、ビリー・ワイルダー監督の「昼下がりの情事」だ。ゲイリー・クーパーが演じる大金持ちのプレイボーイが純情なパリ娘・オードリー・ヘップバーンと知り合い、互いに惹かれ合う。クーパーはパリを離れる際、女性との別れの修羅場になりがちな列車を避けていつもは飛行機にするのだが、あいにくこの日は欠航で、パリの駅での別れとなる。動き出した列車のデッキに立つクーパーに、世慣れた風を装い、ことありげに男たちのことを必死に言い募るヘップバーン。耐えきれず彼は彼女を列車に抱え上げる。観客の女性たちの溜め息が聞こえるシーンだ。

 

実際に目撃した切ない別れは九州の田舎の駅でのことだった。大学時代の友達数人でユースホステル利用の九州一周旅行中のことだ。停車した小さな駅のホームをデッキに立って眺めていると、詰襟を着た中学生が心細げに立っている。そばにはちょっと背中が丸い母親がいて、「頑張るんだよ」と心配そうに声をかける。たった一人で遠く離れた地に就職するのだろう少年は、いかにも固い顔で、ただ「うん」と不安に震えるような小声で答えた。
今思えば、団塊の世代の中卒の労働者が“金の卵”と呼ばれ、高度成長を支えた、まさにその始まりの頃の光景だったのだ。

 

このシーンを思い出すと今でも胸が詰まる。あの心細げな少年は無事勤め先に定着できただろうか? 今、70歳ぐらいだろうか? いろいろあったにしても、真面目に勤めあげただろうか? 今は子どもや孫たちに囲まれてニコニコと暮らしているのだろうか? いや、そうであるに違いない、そうであるに決まっている。

これと言った才能もなく、たいした努力もしないのに、とくに危機にも襲われることなく、平凡ながら幸せに暮らしてきた私はそう思うのだ。

 

 

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私と計算

2023年08月04日 | 昔の話

 

私は算数も数学も才能はないのですが、好きでした。ロマンがあって、面白いですよね! でも、単純計算は嫌いでした。

小学生の夏休みの宿題で、大量の計算問題が出ました。やり方は分かっているのに同じ事を繰返しても意味がないと単純に考え、答えの欄にでたらめな数値を延々と書いて提出しました。
休み明けに答え合わせがあり、順番で答えを読み、皆が「あってます」と唱和する。私の番になり、でたらめの答えをそのまま読むと、皆が「違ってます」と声をあげる。「いけねえ」と頭を書きながら座りました。

その場はしのぎましたが、罰は社会に出てからやってきました。電卓がどこにでもある時代になっても、手計算、暗算は必要で、私は早くできず、ちょっとしたハンデになっています。

 

 

以下、計算機の話

研究所務めだったので計算機はとくに若いときは良く使ったが、コンピュータの専門家ではないので、以下、利用者からみた計算機の昔話をしたい。

そろばん
子供の頃、母が使っていたそろばんが5つ玉だった。見ていると、下の段の5つ目の玉は動くことが無い。
「その玉はどうしてあるの?」と聞くと、母は困った顔をして、「そうねえ」と言うばかりだった。小学校で買わされたそろばんは4つ玉だった。いまだに、なぜ昔々のそろばんは5つ玉だったのかわからない。

計算尺
最近の人は計算尺なるものをご存知なのだろうか。30cmくらいの長さの板状の計算道具で、桁数は暗算で求め、有効数字3桁ほどの乗除算を素早く求めるのに使う。2つの数の掛け算がlogをとると足し算になることを利用している。工学系の計算に便利で、1970年ぐらいまで良く使った。
もっと有効桁数が必要な場合は、7桁の常用対数表という丸善から出ていた冊子をめくって対数計算で乗除算の答えを求めた。

タイガー計算機
数値をセットして、ハンドルを回すと答えが出る手回し計算機械だ。中味は歯車の固まりで、論理機械の傑作、究極の姿だと思う。加算減算もできるが、乗算は123*456なら、123をセットし、まずハンドルを6回転し、桁送りしてから5回転し、さらに4回転すると答えが得られる。面白いのは除算で、除数をセットしハンドルをマイナス回転していくと、チーンと音がしたら1回転戻す。大学の研究室で、大勢並んで計算していると、あちこちでチーン、チーンと音がしたのを思い出す。
概算を求めるときは計算尺で、正確な値はタイガー計算機を使ったものです。

ファシット計算機
タイガー計算機の歯車をモータで回すような仕組みのもので、AC電源が必要だった。会社に入ったらタイガーがファシットになっていて、やはり金があるところは違うなと思いました。

計算尺、タイガー計算機、ファシット計算機ともに、電卓が出てきてあっと言う間に駆逐されました。

電話機での関数計算
あまり一般的ではなかったと思いますが、電電公社(現NTT)のセンタ(多分、DRESSか、DEMOSといったと思います)に接続し、電話機からダイヤル入力し、音声で回答を得る方法がありました。

具体的には、接続状態で、プッシュホンのダイヤルの組合せで計算したい関数を登録します。あとは計算したい数値を入力すると合成音声で回答が聞こえます。

例えば、実験結果の分散値などを求めるのに便利でした。私は、右に置いたデータ用紙を見ながら、左の電話機ダイヤル上で、左手でブラインドタッチでデータ入力をして、電話機に差込んだイヤホーンで回答を聞いて、右手で結果を用紙に書き込んでいました。
このおかげで、電卓にとって代わったときに、電話機と電卓のキー配置が異なるため、しばらく電卓入力に苦労しました。電話機は当時CCITTという通信関係の国際機関が標準を決め、計算機はISOが標準を決めていたので、両者のキー配置が異なってしまったのです。

電卓
継電器と言われるリレーを用いたリレー式計算機と言うものがあったようですが、私には記憶がありません。1960年代にはトランジスタを使った電子式計算機が登場、普及しました。70年代に入ると、LSIが使われ、AC電源から電池に代わったので一気に普及し、四則演算は電卓と決まりました。

関数電卓
SIN、COS、ルート、指数など関数が使える手の上に乗る電卓がYHP(現HP)から1970年ごろ販売され、手にしたときは驚きでした。今でも端が少し立ち上がった黒っぽい薄いきょう体に、ずらっと並んだ小さなキーと赤いLED表示を思い出します。センタの大型計算機と電話機の組合せが、小さな関数電卓に完全にやられたと思いました。

大型コンピュータ
メインフレームと呼ばれる大型コンピュータはIBM360がもっとも有名です。私の属する研究所にはIBM360を追って開発されたNECのNEACなど(富士通のFACOM、日立のHITAC)があり、専属のオペレータがいる計算機室の棚にプログラムを時間までに置いておくと、夜計算機にかけ、翌日プログラムリストと計算結果が打ち出された紙が棚に置いてあるというシステムになっていました。

プログラムは、FORTRANという数式ほぼそのままのような言語で書きます。FORTRANはBASICとほぼ同じような言語です。コーデイングシートに手書きして、英文タイプライターのような端末から入力すると、確か80カラムの穴が開いたIBMカードが1ライン、1枚できます。このカードをライン数だけ束にしたのがプログラムになります。紙テープに落とすこともできたと思いますが、テープだと順序を入れ替えるなどの訂正が容易でないので使いませんでした。

このカードの束の端面にマジックで斜め線を書いて順序を分かるようにしていました。カードの束を棚に入れておくと、オペレータが計算機にかけて結果のプリントアウトを棚に入れておいてくれる。一日一回の計算依頼しかできない。どこかバグがあれば、一日が無駄になる。

受付時間ぎりぎりで廊下を走り、転んでカードをばらまき、整える時間がなく、だめなのはわかっていたが、そのまま棚に入れた。プログラムリストを紙に打ち出してもらえるので、翌日カードをそろえるのが楽なのであえて「Fatal Error」をもらった覚えがある。
繰り返し計算させてある値の範囲に収束させるプログラムで、収束条件を厳しくしすぎて、と言うか発振条件だったので、数時間計算機を無駄走りさせたこともあります。

μCマイクロ・コンピュータ
1971年、μCマイクロ・コンピュータが登場した。私の場合は、マイコンを主に機器の制御に使ったので、マイクロ・コントローラといった方が良いかもしれない。数式そのもののようなFORTRANを使って数値計算プログラムを作っていた身には、計算機の構造を理解し、アキュムレータだの、レジスターだのを頭においてプログラムを書くのは足し算一つでも大変だった。当時は確か単純な4ビットCPUだったのですが。

プログラマーに作ってもらい、使いながら一部を自分で変更するのがせいぜいでした。しかしながら、実験装置の制御は従来作りこみで固定だったのを、マイコン制御にして、状況にあわせてプログラムで変更できるのはたしかに便利でした。

初期のパソコン
1977年ごろ8ビットCPUを持つトレーニング用組立マイコンキットTK80が販売され、いたずら程度にさわっていました。
1980年ごろ、アタリ社のパーソナルコンピュータで、確か磁気テープからプログラムをロードして、テーブルテニスや、インベーダのゲームで遊んだ覚えがあります。
1983年に8ビット機の統一規格「MSX」が提唱され、各社対応パソコンが販売されました。個人的に購入し、ROMで出来たゲームソフトを買ったり、簡単なゲームを作って遊んだりしたが、すぐあきてしまった。また、この規格も半導体のすさまじい進歩によって、あっという間に時代遅れとなってしまった。

ワープロ
ワープロは、親指でシフトするOASYSキーボードでブラインドタッチで入力していた。不思議と、パソコンに向かい最初の1,2文字打つと、自然にQWERTY配列でブラインドタッチできる。
私の場合、紙に書いたものをワープロで清書するという使い方は少なく、内容や文章を考えながらワープロを打つことが多い。したがって、入力速度はそんなに厳しく要求されないが、ブラインドで打つと、目がディスプレイを見たままになるので、考えが中断されない。

大学で自由選択科目だったが、英文モールス信号を聞き英文タイプを打つ授業をとった。会社に入って、英文で論文を書くとき、下書きの英文を目で見ながら、モールスに直しつぶやく。すると、手が自然と動き、キーと打つ。そんな、英文、モールス、キーを繰り返していると、人間とは不思議なもので、いつのまにか、間が抜けて、英文、キーになっていた。

そして、現在へ
IBM-PCが1981年発売になってから現在までの進展は私には一瞬に思える。
パソコンOSもMS-DOSからWindows3.1、95、2000、XPと複雑で重くなっていったが、ハードの速度、記憶容量が飛躍的に向上して行ったので使い勝手はたしかに良くなっていった。XPで安定性も増した。自宅のパソコンもいったい何代目なのかわからなくなった。

退職した現在では、メール、ブラウザの他は、主にワードを使い、エクセルを時々、会社でよく使ったパワーポイントは使う場がない。あとは、Paint Shop Proで遊び、HTMLでホームページを作るくらいで、プログラムとは縁遠い世界にいる。

 

「想えば遠くに来たもんだ」

 

 

ほとんどが、2006年6月17日の「計算機昔話」の再掲でした。

 

 

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昔の言葉が出てきます

2023年08月02日 | 昔の話

国電を降りると、テクシーで家に向かう。前を行くギャルの柳腰が気になり、追い越して振り向くと、バックシャンだった。「ガチョーン!」

格子戸を開けて、玄関で、こうもり傘を置いて、シャッポを脱ぎ、襟巻きをはずし、ズックを土間に脱ぎ捨てる。居間のちゃぶ台とおひつをチラッと見て、奥の間に入り、国防色のズボンを脱ぎ、股火鉢で暖まりながら、「ああ、俺ってナウイなあ」と思う。


国電:JRが国有鉄道(国鉄)だったので国電という。私の親父は省電と言っていた。鉄道省だったから。
テクシー:タクシーに乗らずテクテク歩くこと。親父はタクシーを円タクと言っていた。1円で乗れたから?
ギャル:軽薄だが元気な若い女性のこと。ギャル曽根って知らない?

バックシャン:後姿だけが美しい人。シャンはドイツ語で美しいこと

ガチョーン:クレージーキャッツの谷敬のお得意のギャグネタ。「えっ!クレージーキャッツを知らないの? ガチョーン!」って使うんだよ。

格子戸:細い木を縦と横に組んだ扉や引き戸。風や光を通すので解放的。
シャッポ:元はフランス語。帽子のこと。
ちゃぶ台:畳に座って食事するとき使う、折りたためる4脚を持つ低いテーブル。怒ったとき、ひっくり返すもの。
おひつ:炊いたご飯の木製の入れ物。保温するため小さな布団でくるむこともある

 

2006年6月の「昔の名前が出てきます」の再掲でした。

 

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幼い私のおもちゃ

2020年04月20日 | 昔の話

貧しい時代の貧しい家に育った私には、おもちゃらしいおもちゃはなかった。

家でよく遊んだのは、風呂敷をマントに、物差しを刀にしたアメンホテプ遊びだ。風呂敷はゴワゴワした木綿地で、紺色だったような気がする。物差しは三尺の竹尺で、持つところの節が少し出っ張っていて色が薄くなっていた。一人っ子なのでチャンバラをするわけでもなく、ただ扮装して貸本漫画に出ていたエジプト王になりきるのだ。

親父の碁石でも遊んだ。畳の上に陣形に並べて白と黒で戦うのだが、勝ち負けのルールがあるわけでもないので、味方と決めた方がどんどん勝って行くだけだ。頭の中の戦いのイメージが遊びの主体で、碁石はその結果を示すのに使うだけだったのではないのだろうか。貝でできた白石は薄く艶があり、黒はくすんでいた。碁石を入れる碁笥(ごけ)の蓋の丸みが何故か懐かしい。


庭では木登りをし、屋根にもよく登った。一人で遠くを眺めていると、自分の狭い世界が広がったような気がしたものだった。


メンコやベーゴマも、ときどき商店街の抜け目ない彼等の所へ出かけ勝負した。しかし、ベーゴマに鉛を盛ったり、角を削って尖らしたりし、勝負にかける意気込みが違う悪童達にのんびりした私が勝てるわけもなく、わずかな持ち物をすぐに巻き上げられてしまった。


小学校に入ってからよく遊んだのは、車がめったに通らない未舗装の裏通りでの三角ベースの野球だ。隣に住む同級生と、その弟がいつも一緒だった。二歳ほど下の弟はまだ下手でよくエラーする。私が「またエラーしたぜ」と友達と笑っていて、さらに「ほんと駄目だよな。どうしよもないよ」と言う。すると、いつも一緒にバカにしていた友達がちょっと変な顔をして、「だけどあいつけっこう打つぜ」と言った。私は「ああ、友達よりやっぱり兄弟なんだ」と黙りこんでしまった。

「いつも結局ひとりだったんだね」と慰めてやりたい。

 

今のような巧みに作られたおもちゃや、ましてコンピュータ内蔵の高度な玩具などなかった時代、子ども達は身近なものを空想でおもちゃ道具に変え、工夫して手を加えて遊んでいた。今となっては懐かしさもあって、結構楽しく遊んでいたように思えてくる。部屋一杯に散らかった孫のさまざまな工夫されたおもちゃを見ていると、本当に幸せなの?と思う。

 

 

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自転車の三角乗り

2007年11月18日 | 昔の話

1950年代だろうか、私の子供のころは子供用の自転車はなかった。家にあったのは当時はごく普通の、黒いペンキを塗りたくったような無骨な大人用の自転車だった。四角い大きな荷台が付いていて、補助輪ももちろんギアチェンジもなかった。

お尻を乗っけるサドルは高くて、子どもは届かない。そこで登場するのが三角乗りだ。

まず、自転車を右側にして両手でハンドルを握り、自転車を向こう側に少し倒し、ペダルに左足を乗せる。右足を後ろにして地面をける。体重のバランスをとりながら、自転車を手前にも、向こう側にも倒れないようにしながら地面をけって前へ進む。この段階をクリアーするのがまず大変だ。なにしろ、自転車とともに向こう側に倒れそうで怖い。この乗り方である程度のスピードが出るようになると次の段階の三角乗りに進める。

前段の片足ペダルで自転車が前に進んだ状態で、自転車の三角フレームの間から、くの字に曲げた右足を突っ込んで右のペダルを漕ぐ。自転車ごと向こう側に倒れそうで、とても怖い。元々不安定な曲乗りなので、何度も倒れ、あちこち痛めながら、自転車を征服できたときは、それは嬉しいものだ。
長時間乗れる乗り方ではないが、今まで上級生が乗る自転車の後を走って追いかけていたのに比べると雲泥の差で、一気に大きくなった気がした。

最近の子どもは、補助輪付きの小さな自転車から徐々に大きなものに乗り換えていき、やがて補助輪をはずして練習し、そのうち大人用に乗り換える。それでも補助輪をはずす段階は今の子どもにとっては大きな壁ではあるのだろう。

子どもは何度も壁を乗り越えて成長するのだと、あらためて思う。



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お祭りの思い出

2007年10月31日 | 昔の話

前回につづき昔話をもう一つ。

子どものころの楽しみの一つに、隣駅近くにある八幡様で行われるお祭りがあった。八幡様の階段の登り口から、登った後の石畳の道の両側にお社まで出店が並ぶ。

小学校低学年の頃、お小遣いをもらいお祭りに行った。手をポケットに入れてしっかりもらった小銭を握ったまま緊張して歩いて行った。八幡様に着いて、出店を見て回り、いざ買おうと思ったら、お金がない。
青くなってそのまま家に帰って、「しっかり握り締めていたのにすられた」と訴えた。母は、「馬鹿ね。ポケットに手を突っ込んだまま歩いていれば、ここにお金を持ってますって教えているようなものでしょ」と冷たく言われてしまった。


居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、ちっと変わった、というか、いんちきな店も多かった。

先に針をたらして回転する棒が円盤の上にあり、ルーレットのように棒を回し、針が止まったところの円盤に書いてある商品がもらえるゲームがあった。1回いくらだったか忘れたが、もう少しですばらしい商品のところで止まるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのを見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているに違いないぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、ついつい見とれてしまう。


望遠鏡のような筒状のおもちゃもよく売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだ」。 指を広げて、のぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かしてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。
おじさんが追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」

色気が付いた中学に入ってからだったと思う。100円だか払ってさっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、物?の周りがぼやけて見えるだけだ。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまう。目を当てるところに鳥の羽が入っていて、物がずれて二重に見え周辺がぼやけて見えるだけのものだった。

最近では大道芸の一つとしてときどきやっているようだが、がまの油売りもいた。道を外れた林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面の円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。
日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけると、あら不思議、傷口もなくなっている。

なんだか、いんちきも今のようにギスギスしていないで、半分ユーモラスで楽しかった時代だったと思える。


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紙芝居の思い出

2007年10月30日 | 昔の話
最近、話題が途切れがちで、困ったときの昔話を一つ。

私の子供のころは東京でもザリガニが取れる川や、自由に遊べる空き地があり、車もそう多くなく三角ベースの野球ができる裏道もあった。
しかし、日常の遊び以外の娯楽といえばたまのお祭りと紙芝居くらいだった。

毎週何曜日かに来る紙芝居屋さんは、まず飴などのお菓子を売る。子供達はその飴をなめながら、紙芝居を見る。しかし、貧乏な我家には小遣いなどなく、家の事情が十分わかっている私はおねだりなどできなかった。

あめを買わないで、後ろのほうで目立たぬように紙芝居をそっと見ていると、「ほら、そこの飴を買わない子! 見ちゃだめだ」と、おじさんに怒られた。けっこう大勢いるので判らないと思ったのに、オドオドしているので、すぐ判ったのだろう。
友達から一人だけ遠くに離れて紙芝居を見てみるが、おじさんの声は聞こえるが絵が見えない。未練たらしく、坂の上の方に行きウロチョロ、キョロキョロする幼い私の姿が50年以上経った今でも目に浮かび、いとおしく、切なくなる。

たった一度だけだが、どういうわけか、お金をもらって、飴を買ったことがある。丸い中に何か動物をかたどった模様がある飴が棒についていて、うまく舐めていると、その動物の形がスッポリ取れる。はじめてみた紙芝居の内容は覚えていないが、友達と、クスクス笑いながら、取れかけた飴を見せ合ったことを昨日のように覚えている。

いつも腹がすいていたし、他の家より貧乏だったが、今思うと、幸せな子ども時代だった。そもそも、世の中はだんだん良くなるものと思っていたし、実際そうなって行ったのだ。



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台風の思い出

2007年09月07日 | 昔の話


昨日の台風9号にはまいった。夜中中、雨戸がガタガタし、ガラス戸を激しくたたく雨音が間欠的で、途中で目が覚め、寝付かれず、インターネットの映画を2本も見てしまった。久しぶりに大きな台風が関東地方を直撃したのではないだろうか。

子供のころ台風が来るといえば父親が、開き戸にしんばり棒をかったり、木の雨戸に板を打ち付けたりしていたのを思い出す。時々雨漏りがしてあわてて洗面器を置いたり、また、台風の夜は停電にも良くなった。居間に集まった家族がローソク一本の光のもとで過ごしたのも今は懐かしい。家の前の道もよく川のように水がながれていた。新聞でも各地で川が氾濫して洪水になった写真がよく載っていた。
子供のころには、東京にも毎年もっと台風が来ていたような気がする。最近に比べると、台風の影響や被害が大きかったので印象が強いためだろうか。

明治以降、最悪の被害をもたらした台風は伊勢湾台風のようだ。1959年(昭和34年)9月26日、潮岬付近に上陸、近畿・中部地方を襲った。死者・行方不明者は5千人、負傷者約4万人、全壊家屋36千棟、床上浸水15万棟、船舶被害13千隻と甚大な被害をもたらした。そういえば、昔の台風の上陸地点は、足摺岬と潮岬が多かったような気がする。
伊勢湾台風の被害の多くは、3.5mにもなった高潮によるものだった。名古屋港の貯木場から流出した大量の木材が高潮に乗って名古屋市南西部の住宅地を襲い、多くの人命、家屋が失われた。

私は当時高校2年生で、修学旅行で奈良・京都へ行く途中、伊勢湾台風直後の名古屋を通った。まだ新幹線はなく東海道線だったのだが、窓からゴロゴロならぶ材木が見えた。あわててデッキへ行き、支え棒に捕まりながら顔を出すと、名古屋は水上都市化していて、材木が一面に浮かぶ中に壊れた家屋がいくつかあり、ひざまで浸かった人々がなにやら作業していた。修学旅行に行くのに、何か居心地が悪かった。



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戦中・戦後の生活の展示館

2007年09月06日 | 昔の話

前回、前々回と戦争の悲劇が戦後も続いていたことをかすかな記憶を基に書いて見た。あまり知られていないようだが、戦中・戦後の生活がわかりやすく展示されている展示館が東京に2つある。

東京の九段下駅すぐ傍の 「昭和館」

「館長のごあいさつ」によれば、「昭和館は戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設・・・館内には、当時の国民生活にかかわる実物資料を多く取り入れ、その背景もわかりやすく説明した常設展示室、・・・戦中・戦後の映像・写真資料・・・」とある。
6月も20校以上の小中学校が訪れている。
ぜひ時間を作って一度訪れて見てはいかがでしょうか。時間のない人はホームページ上で展示品の一部だけでもご覧ください。


「平和祈念展示資料館」
新宿住友ビルの33階。

「平和祈念展示資料館(戦争体験の労苦を語り継ぐ広場)は、恩給欠格者(軍人在職期間が短い等の理由で恩給や年金を受けられない人)、シベリアでの強制抑留者、引揚者などの方々の労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です」
実物にははるかに及びませんが、ホームページ上で館内の一部が見られます。


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引揚船

2007年09月05日 | 昔の話

太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。

マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。

なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。

満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。

舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。

日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。

舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人

舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。



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尋ね人

2007年09月04日 | 昔の話

戦争は悲惨なもので、太平洋戦争が終わったあと、国の内外で生き残った人も家族や親戚などをばらばらにされた人が多かった。戦争が終わっても、戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいたのだ。

子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。安否を気遣い、再開を願う一人ひとりの切実な気持ちがあのNHKのアナウンサーの冷静な読み上げで淡々と語られていく。
子供の頃は尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。
戦後の一時期だけではない。昭和21年(1946年)から10年間続いたのだ。

親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道で浮浪児がたくさんいるのを見た記憶がある。
あまり変わらない年頃の子が、じっと私の目を見た。あのギラギラとした目が忘れられない。あの子は?

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米穀通帳

2007年09月03日 | 昔の話


戦争中、といってもイラク戦争でも、朝鮮戦争でもなく、アメリカと戦った太平洋戦争中のことだが、主食であるお米が不足して1941、42年からお米は配給制になった。このとき各世帯に配られたのが米穀通帳(べいこくつうちょう)で、正式には米穀配給通帳と言った。

戦後も米穀通帳は続いた。通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋に行っても米が買えない。食堂で米が入っているカレーライスのような料理を注文するには、米を持参するか米穀通帳を提出しなければならない時期もあった。

米穀通帳は、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書かわりの、まさに命の綱の大切なものだったのだ。

食糧管理法という法律があって、個人が直接農家の方からお米を買うことは犯罪だった。しかし、配給だけでは誰もお米が足りないのでやみ米が出回っていた。たしか、裁判官だと思ったが、家族の中で一人、頑固に配給米だけしか食べずに栄養失調で死亡した人が居て、問題になったという記憶がある。

農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とった小柄なおばさんが百キロはあろうかという山になった荷物を背中にベンチに座っている。電車が入ってくると、少し前かがみになり、スーと立ち上がり、何事もない様に電車に乗る。まさに手練の技だと思った。
ときどき警察の手入れがあり、ずらりと並ばされたおばさんたちと、唐草模様のふろしきに包まれた米の山。しかし、没収されても、もくもくと、翌日の農家へ買出しに出かけるのだ。たくましい時代でもあった。

配給米もやみ米も、質が悪く、新聞紙の上に広げて、混じっている石を拾った。これをやらないと、おいしい白米を食べている途中で、ジャリッと噛んでしまう。父親が、米を入れた一升瓶を両足で抑えて、棒でつついて、ぬかを落としていた光景を思い出す。
しかし、そもそも、米を食べられる日は少なく、スイトンやグリーンピース、サツマイモが主食だった。たまに食べる米もあの細長く、ポソポソした外米が多かった。

やがて正規ルートを通さないやみ米や、自主流通米が増え、1970年代になると米余りの状況に陥ったため、米穀通帳なしでどこでも米が買えるようになり、1981年に廃止された。

こんな時代を経て、今でも私はお茶碗の中の米粒ひとつも残すことはできない。たとえ、ウエストに問題があり、またその時、おなかが悪くとも。
先日、北朝鮮の食料事情のニュースを見た。そこに子供の時の自分が居た。


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バンクーバーの向こうにワシントンハイツを見る

2007年08月28日 | 昔の話

今年6月はバンクーバー・ダウンタウンのガラス張りのコンドミニアムで過ごしたが、7月は郊外のRichmondの住宅街に滞在した。私の滞在した家は立派な住宅が並ぶ地域で、広い道路に面して芝生の前庭があり、花壇には花々が鮮やかで、自動で開く大きなガレージ、何部屋もある広々とした家が続く。一つとして同じ家はないのだが、全体としては統一された町並みになっている。映画やTVで見た、かってのあこがれの豊かなアメリカのようだった。

ふと、「デジャブ(既視感)かな?」と不思議な気持ちになった。目をつぶって静かにしていると、つかまっている針金のフェンスの向こう側に、一面の芝生に点々と建つ明るいペンキ塗りの建物が目に浮かぶ。子供のころ、もう50年ほど前、明治神宮の高いフェンスの向こう側の立ち入れない世界、まったくの別世界、東京の中の外国、米軍将校の住宅街、ワシントンハイツが見えた。

敗戦とともに、陸軍代々木練兵場がGHQ(連合軍総司令部)に接収され、東京駐留の米軍将校のための住宅団地としてワシントンハイツとなった。明治神宮に隣接する今の代々木公園あたりである。92万平米あり、約800世帯のアメリカ軍将校家族の宿舎と、将校クラブ、劇場、教会等があった。倉庫にでも使っていたのだろうか、波目の鉄板でできたカマボコ型の建物もいくつか見えた。
その後、1963年日本に返還され、1964年の東京オリンピックの選手村や、NHKの建物が建った。

子供のころ2駅ほど歩いて、よく明治神宮で遊んだ。参宮橋口から入ると、宝物殿前の芝生の広場には、仰向けに寝転がっている日本人女性の上にぴったり乗っかって、微動だにしないアメリカ兵の姿があった。横目でチラチラ見ながら、道をはずれ、林を抜けると、フェンスがある。フェンスにつかまって一面の芝生を見ていると、遠くにいかにも明るく楽しそうな親子が遊んでいたりして、いつでも腹ペコのこちら側とは別世界のアメリカがそこに見えた。

あのころのアメリカ、といっても日本でのアメリカしか知らなかったが、輝いて見えた。派手で、明るくパワフルで善人のアメリカ人。町で見かける馬鹿でかいアメリカ車、キャデラックや、リンカーン。「アメリカじゃ、一家に2台車があるらしいぜ」「ヒェー」

お袋が私の手を引いて銀座を歩いていたら、米軍将校が、「 Oho! Baby! 」と言って私を抱き上げ、高い高いをした。お袋は、ただオロオロするだけだった。

そんな私がバンクーバーの広々とした住宅街に滞在している。また、アジアに行ったときは、金持ち日本人として物売りが集まってくる。昔のことを思うと、居心地悪く、夢の世界にいるように感じて、実在感が薄れていく。



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庭で野菜つくり (3)

2007年08月23日 | 昔の話
30年ほど前のことだが、三浦半島の先っぽの方に自宅を建てたときに、20平米ほどの畑を作った。今回はその3回目。

潮風
我が家は東京湾を一望する絶景の崖の上にあった。東京にいたときは、海の傍の家などロマンチックだと思っていたが、現実は厳しい。
風向きにより、干してある漁師さんの網の臭いだろうか、魚くさい風が来る。また、潮風が吹き上げ、洗濯物は湿っぽくなるし、ガラス戸に塩がこびり付く。
そして、畑をやっていた10年間で一回だけなのだが、すさまじい台風の夜が明けて、庭を見たとき、唖然とした。畑の作物が、どれもこれも潮風で一夜にして真っ黒になって枯れていた。もちろん、ビニールハウスは飛ばされて跡形もない。

キュウリ
苗は園芸店で購入するのだが、その店は花以外の畑物は、近所の農家向けに売っている店なので、苗の品種を示す名札がない。玄人は見れば、判断がつくのだ。
ある年、キュウリの苗を買い、すくすくと育てた。ついつい収穫が遅れると巨大キュウリになり、後が傷んでしまう。しまったと思い、あわてて収穫し、その場で食べた。カリッと噛んだつもりが、グニャとなる。苦い。全体になんだか柔らかい。ヘチマだった。次々とできるヘチマ。
しかたないので、水につけて腐らせ、筋だけにして、スポンジ代わりのヘチマにした。おふくろは喜んで風呂で使っていたが、10本もあっても困る。おそるおそる近所に持っていったら、いまどき珍しいと喜ばれた。野菜を持っていったときより反応が良かったので、よけいにへこんだ。

ピーマン
ある年、例年のようにピーマンの苗を買い、育てた。収穫時期が近づいたが、なんだかピーマンが細いままだ。間引かずに何房もできているせいと思っていたが、だんだん赤くなる。トーガラシだった。また、苗間違いをやらかした。

しかたないので、収穫して、乾かしてトーガラシとして利用することにした。しばらく経って、乾燥したトーガラシをまな板の上に乗せ、包丁で切ったが、硬くて簡単に切れない。ならばと、すり鉢に入れ、スリコギで強引につぶしにかかった。
なかなかつぶれないが、しばらく続けていると、目がヒリヒリする。そのうち、顔がほてってきて、だんだん痛くなる。顔が腫れ上がり、耐え切れないほど痛くなる。スリコギも放り出して、痛い、痛いと騒いでいるのに、家族は私の腫れ上がった顔を見て笑っている。ぬらしたタオルで顔を冷やす。痛みが収まり、ホットする。助かった。
と思ったら、水が乾いたら、よけい痛くなった。どうやら、毛穴に刺激物が入ったようだ。目をつぶり、口を開けて呼吸し、ただただ時が過ぎるのを待つ。どのくらい時間が経ってからだろうか、ようやく腫れが引いた。
悔しいので、トーガラシは捨てずに、ダンボールの箱に入れて棚の上に置いた。引越しのときに出てきた箱を開けて、思い出し、あわてて捨てた。

10年くらい畑をやって、猫の額ほどもない庭の横浜の家に越してから小さな花壇のみで畑仕事は止めた。
畑仕事は、土つくりが何より大切で、高度なノウハウを必要とする。通常でも多大な手間が必要で、無農薬で広い畑を管理するなど考えられない。予想困難な天候や市場価格のリスクも避けられない。ビジネスとしての畑仕事がいかに大変かを学んだ10年だったともいえる。


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