hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

フランス懐石へ

2013年11月29日 | 昔の話
吉祥寺駅北口から新宿方面に線路際を歩きながら、昼飯所を探していて
約5分ほど。

「フランス懐石 懐鮮食堂」の看板を見つけた。モトハシビルの2Fだ。



テーブルには、ナイフとフォークもきちんと添えられているが、箸もあってご機嫌。

ランチは、
おすすめコースA 2800円
おすすめコースB 4200円

オードブル



 上:中にフォアグラのあるつぼ焼き
 左:ナス、イクラ
 右下:金目鯛のマリネ



カボチャとサツマイモのスープ

メインは、



エビ、ホタテ、アサリ、タイ+ジャガイモ、トマト

デザートは、



ラフランス、紅茶のジュレ、チーズケーキ、カシスのシャーベット、クッキー

シェフのこだわりの料理を、限られたお客に提供するという、ご機嫌なレストランだった。

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自転車の三角乗り

2007年11月18日 | 昔の話
1950年代だろうか、私の子供のころは子供用の自転車はなかった。家にあったのは当時はごく普通の、黒いペンキを塗りたくったような無骨な大人用の自転車だった。四角い大きな荷台が付いていて、補助輪ももちろんギアチェンジもなかった。

お尻を乗っけるサドルは高くて、子どもは届かない。そこで登場するのが三角乗りだ。

まず、両手でハンドルを握り、自転車を向こう側に少し倒し、ペダルに左足を乗せる。右足を後ろにして地面をける。体重のバランスをとりながら、自転車を手前にも、向こう側にも倒れないようにしながら地面をけって前へ進む。この段階をクリアーするのがまず大変だ。なにしろ、自転車とともに向こう側に倒れそうで怖い。この乗り方である程度のスピードが出るようになると次の段階の三角乗りに進める。

前段の片足ペダルで自転車が前に進んだ状態で、自転車の三角フレームの間から、くの字に曲げた右足を突っ込んで右のペダルを漕ぐ。自転車ごと向こう側に倒れそうで、とても怖い。元々不安定な曲乗りなので、何度も倒れ、あちこち痛めながら、自転車を征服できたときは、それは嬉しいものだ。
長時間乗れる乗り方ではないが、今まで上級生が乗る自転車の後を走って追いかけていたのに比べると雲泥の差で、一気に大きくなった気がした。

最近の子どもは、補助輪付きの小さな自転車から徐々に大きなものに乗り換えていき、やがて補助輪をはずして練習し、そのうち大人用に乗り換える。それでも補助輪をはずす段階は今の子どもにとっては大きな壁ではあるのだろう。

子どもは何度も壁を乗り越えて成長するのだと、あらためて思う。



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お祭りの思い出

2007年10月31日 | 昔の話

前回につづき昔話をもう一つ。

子どものころの楽しみの一つに、隣駅近くにある八幡様で行われるお祭りがあった。八幡様の階段の登り口から、登った後の石畳の道の両側にお社まで出店が並ぶ。

小学校低学年の頃、お小遣いをもらいお祭りに行った。手をポケットに入れてしっかりもらった小銭を握ったまま緊張して歩いて行った。八幡様に着いて、出店を見て回り、いざ買おうと思ったら、お金がない。
青くなってそのまま家に帰って、「しっかり握り締めていたのにすられた」と訴えた。母は、「馬鹿ね。ポケットに手を突っ込んだまま歩いていれば、ここにお金を持ってますって教えているようなものでしょ」と冷たく言われてしまった。


居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、ちっと変わった、というか、いんちきな店も多かった。

先に針をたらして回転する棒が円盤の上にあり、ルーレットのように棒を回し、針が止まったところの円盤に書いてある商品がもらえるゲームがあった。1回いくらだったか忘れたが、もう少しですばらしい商品のところで止まるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのを見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているに違いないぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、ついつい見とれてしまう。


望遠鏡のような筒状のおもちゃもよく売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだ」。 指を広げて、のぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かしてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。
おじさんが追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」

色気が付いた中学に入ってからだったと思う。100円だか払ってさっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、物?の周りがぼやけて見えるだけだ。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまう。目を当てるところに鳥の羽が入っていて、物がずれて二重に見え周辺がぼやけて見えるだけのものだった。

最近では大道芸の一つとしてときどきやっているようだが、がまの油売りもいた。道を外れた林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面の円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。
日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけると、あら不思議、傷口もなくなっている。

なんだか、いんちきも今のようにギスギスしていないで、半分ユーモラスで楽しかった時代だったと思える。


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紙芝居の思い出

2007年10月30日 | 昔の話
最近、話題が途切れがちで、困ったときの昔話を一つ。

私の子供のころは東京でもザリガニが取れる川や、自由に遊べる空き地があり、車もそう多くなく三角ベースの野球ができる裏道もあった。
しかし、日常の遊び以外の娯楽といえばたまのお祭りと紙芝居くらいだった。

毎週何曜日かに来る紙芝居屋さんは、まず飴などのお菓子を売る。子供達はその飴をなめながら、紙芝居を見る。しかし、貧乏な我家には小遣いなどなく、家の事情が十分わかっている私はおねだりなどできなかった。

あめを買わないで、後ろのほうで目立たぬように紙芝居をそっと見ていると、「ほら、そこの飴を買わない子! 見ちゃだめだ」と、おじさんに怒られた。けっこう大勢いるので判らないと思ったのに、オドオドしているので、すぐ判ったのだろう。
友達から一人だけ遠くに離れて紙芝居を見てみるが、おじさんの声は聞こえるが絵が見えない。未練たらしく、坂の上の方に行きウロチョロ、キョロキョロする幼い私の姿が50年以上経った今でも目に浮かび、いとおしく、切なくなる。

たった一度だけだが、どういうわけか、お金をもらって、飴を買ったことがある。丸い中に何か動物をかたどった模様がある飴が棒についていて、うまく舐めていると、その動物の形がスッポリ取れる。はじめてみた紙芝居の内容は覚えていないが、友達と、クスクス笑いながら、取れかけた飴を見せ合ったことを昨日のように覚えている。

いつも腹がすいていたし、他の家より貧乏だったが、今思うと、幸せな子ども時代だった。そもそも、世の中はだんだん良くなるものと思っていたし、実際そうなって行ったのだ。



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台風の思い出

2007年09月07日 | 昔の話

昨日の台風9号にはまいった。夜中中、雨戸がガタガタし、ガラス戸を激しくたたく雨音が間欠的で、途中で目が覚め、寝付かれず、インターネットの映画を2本も見てしまった。久しぶりに大きな台風が関東地方を直撃したのではないだろうか。

子供のころ台風が来るといえば父親が、開き戸にしんばり棒をかったり、木の雨戸に板を打ち付けたりしていたのを思い出す。時々雨漏りがしてあわてて洗面器を置いたり、また、台風の夜は停電にも良くなった。居間に集まった家族がローソク一本の光のもとで過ごしたのも今は懐かしい。家の前の道もよく川のように水がながれていた。新聞でも各地で川が氾濫して洪水になった写真がよく載っていた。
子供のころには、東京にも毎年もっと台風が来ていたような気がする。最近に比べると、台風の影響や被害が大きかったので印象が強いためだろうか。

明治以降、最悪の被害をもたらした台風は伊勢湾台風のようだ。1959年(昭和34年)9月26日、潮岬付近に上陸、近畿・中部地方を襲った。死者・行方不明者は5千人、負傷者約4万人、全壊家屋36千棟、床上浸水15万棟、船舶被害13千隻と甚大な被害をもたらした。そういえば、昔の台風の上陸地点は、足摺岬と潮岬が多かったような気がする。
伊勢湾台風の被害の多くは、3.5mにもなった高潮によるものだった。名古屋港の貯木場から流出した大量の木材が高潮に乗って名古屋市南西部の住宅地を襲い、多くの人命、家屋が失われた。

私は当時高校2年生で、修学旅行で奈良・京都へ行く途中、伊勢湾台風直後の名古屋を通った。まだ新幹線はなく東海道線だったのだが、窓からゴロゴロならぶ材木が見えた。あわててデッキへ行き、支え棒に捕まりながら顔を出すと、名古屋は水上都市化していて、材木が一面に浮かぶ中に壊れた家屋がいくつかあり、ひざまで浸かった人々がなにやら作業していた。修学旅行に行くのに、何か居心地が悪かった。



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戦中・戦後の生活の展示館

2007年09月06日 | 昔の話
前回、前々回と戦争の悲劇が戦後も続いていたことをかすかな記憶を基に書いて見た。あまり知られていないようだが、戦中・戦後の生活がわかりやすく展示されている展示館が東京に2つある。

東京の九段下駅すぐ傍の 「昭和館」

「館長のごあいさつ」によれば、「昭和館は戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設・・・館内には、当時の国民生活にかかわる実物資料を多く取り入れ、その背景もわかりやすく説明した常設展示室、・・・戦中・戦後の映像・写真資料・・・」とある。
6月も20校以上の小中学校が訪れている。
ぜひ時間を作って一度訪れて見てはいかがでしょうか。時間のない人はホームページ上で展示品の一部だけでもご覧ください。


「平和祈念展示資料館」
ただし、入場無料ですが、新宿住友ビルの31階から48階に移転するため、今年9月1日から11月上旬まで休館です。

「平和祈念展示資料館(戦争体験の労苦を語り継ぐ広場)は、恩給欠格者(軍人在職期間が短い等の理由で恩給や年金を受けられない人)、シベリアでの強制抑留者、引揚者などの方々の労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です」
実物にははるかに及びませんが、ホームページ上で館内の一部が見られます。


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引揚船

2007年09月05日 | 昔の話

太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。

マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。

なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。

満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。

舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。

日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。

舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人

舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。



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尋ね人

2007年09月04日 | 昔の話

戦争は悲惨なもので、太平洋戦争が終わったあと、国の内外で生き残った人も家族や親戚などをばらばらにされた人が多かった。戦争が終わっても、戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいたのだ。

子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。安否を気遣い、再開を願う一人ひとりの切実な気持ちがあのNHKのアナウンサーの冷静な読み上げで淡々と語られていく。
子供の頃は尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。
戦後の一時期だけではない。昭和21年(1946年)から10年間続いたのだ。

親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道で浮浪児がたくさんいるのを見た記憶がある。
あまり変わらない年頃の子が、じっと私の目を見た。あのギラギラとした目が忘れられない。あの子は?

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米穀通帳

2007年09月03日 | 昔の話

戦争中、といってもイラク戦争でも、朝鮮戦争でもなく、アメリカと戦った太平洋戦争中のことだが、主食であるお米が不足して1941、42年からお米は配給制になった。このとき各世帯に配られたのが米穀通帳(べいこくつうりょう)で、正式には米穀配給通帳と言った。

戦後も米穀通帳は続いた。通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋に行っても米が買えない。食堂で米が入っているカレーライスのような料理を注文するには、米を持参するか米穀通帳を提出しなければならない時期もあった。

米穀通帳は、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書かわりの、まさに命の綱の大切なものだったのだ。

食糧管理法という法律があって、個人が直接農家の方からお米を買うことは犯罪だった。しかし、配給だけでは誰もお米が足りないのでやみ米が出回っていた。たしか、裁判官だと思ったが、家族の中で一人、頑固に配給米だけしか食べずに栄養失調で死亡した人が居て、問題になったという記憶がある。

農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とった小柄なおばさんが百キロはあろうかという山になった荷物を背中にベンチに座っている。電車が入ってくると、少し前かがみになり、スーと立ち上がり、何事もない様に電車に乗る。まさに手練の技だと思った。
ときどき警察の手入れがあり、ずらりと並ばされたおばさんたちと、唐草模様のふろしきに包まれた米の山。しかし、没収されても、もくもくと、翌日の農家へ買出しに出かけるのだ。たくましい時代でもあった。

配給米もやみ米も、質が悪く、新聞紙の上に広げて、混じっている石を拾った。これをやらないと、おいしい白米を食べている途中で、ジャリッと噛んでしまう。父親が、米を入れた一升瓶を両足で抑えて、棒でつついて、ぬかを落としていた光景を思い出す。
しかし、そもそも、米を食べられる日は少なく、スイトンやグリーンピース、サツマイモが主食だった。たまに食べる米もあの細長く、ポソポソした外米が多かった。

やがて正規ルートを通さないやみ米や、自主流通米が増え、1970年代になると米余りの状況に陥ったため、米穀通帳なしでどこでも米が買えるようになり、1981年に廃止された。

こんな時代を経て、今でも私はお茶碗の中の米粒ひとつも残すことはできない。たとえ、ウエストに問題があり、またその時、おなかが悪くとも。
先日、北朝鮮の食料事情のニュースを見た。そこに子供の時の自分が居た。


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バンクーバーの向こうにワシントンハイツを見る

2007年08月28日 | 昔の話
今年6月はバンクーバー・ダウンタウンのガラス張りのコンドミニアムで過ごしたが、7月は郊外のRichmondの住宅街に滞在した。私の滞在した家は立派な住宅が並ぶ地域で、広い道路に面して芝生の前庭があり、花壇には花々が鮮やかで、自動で開く大きなガレージ、何部屋もある広々とした家が続く。一つとして同じ家はないのだが、全体としては統一された町並みになっている。映画やTVで見た、かってのあこがれの豊かなアメリカのようだった。

ふと、「デジャブ(既視感)かな?」と不思議な気持ちになった。目をつぶって静かにしていると、つかまっている針金のフェンスの向こう側に、一面の芝生に点々と建つ明るいペンキ塗りの建物が目に浮かぶ。子供のころ、もう50年ほど前、明治神宮の高いフェンスの向こう側の立ち入れない世界、まったくの別世界、東京の中の外国、米軍将校の住宅街、ワシントンハイツが見えた。

敗戦とともに、陸軍代々木練兵場がGHQ(連合軍総司令部)に接収され、東京駐留の米軍将校のための住宅団地としてワシントンハイツとなった。明治神宮に隣接する今の代々木公園あたりである。92万平米あり、約800世帯のアメリカ軍将校家族の宿舎と、将校クラブ、劇場、教会等があった。倉庫にでも使っていたのだろうか、波目の鉄板でできたカマボコ型の建物もいくつか見えた。
その後、1963年日本に返還され、1964年の東京オリンピックの選手村や、NHKの建物が建った。

子供のころ2駅ほど歩いて、よく明治神宮で遊んだ。参宮橋口から入ると、宝物殿前の芝生の広場には、仰向けに寝転がっている日本人女性の上にぴったり乗っかって、微動だにしないアメリカ兵の姿があった。横目でチラチラ見ながら、道をはずれ、林を抜けると、フェンスがある。フェンスにつかまって一面の芝生を見ていると、遠くにいかにも明るく楽しそうな親子が遊んでいたりして、いつでも腹ペコのこちら側とは別世界のアメリカがそこに見えた。

あのころのアメリカ、といっても日本でのアメリカしか知らなかったが、輝いて見えた。派手で、明るくパワフルで善人のアメリカ人。町で見かける馬鹿でかいアメリカ車、キャデラックや、リンカーン。「アメリカじゃ、一家に2台車があるらしいぜ」「ヒェー」

お袋が私の手を引いて銀座を歩いていたら、米軍将校が、「 Oho! Baby! 」と言って私を抱き上げ、高い高いをした。お袋は、ただオロオロするだけだった。

そんな私がバンクーバーの広々とした住宅街に滞在している。また、アジアに行ったときは、金持ち日本人として物売りが集まってくる。昔のことを思うと、居心地悪く、夢の世界にいるように感じて、実在感が薄れていく。



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庭で野菜つくり (3)

2007年08月23日 | 昔の話
30年ほど前のことだが、三浦半島の先っぽの方に自宅を建てたときに、20平米ほどの畑を作った。今回はその3回目。

潮風
我が家は東京湾を一望する絶景の崖の上にあった。東京にいたときは、海の傍の家などロマンチックだと思っていたが、現実は厳しい。
風向きにより、干してある漁師さんの網の臭いだろうか、魚くさい風が来る。また、潮風が吹き上げ、洗濯物は湿っぽくなるし、ガラス戸に塩がこびり付く。
そして、畑をやっていた10年間で一回だけなのだが、すさまじい台風の夜が明けて、庭を見たとき、唖然とした。畑の作物が、どれもこれも潮風で一夜にして真っ黒になって枯れていた。もちろん、ビニールハウスは飛ばされて跡形もない。

キュウリ
苗は園芸店で購入するのだが、その店は花以外の畑物は、近所の農家向けに売っている店なので、苗の品種を示す名札がない。玄人は見れば、判断がつくのだ。
ある年、キュウリの苗を買い、すくすくと育てた。ついつい収穫が遅れると巨大キュウリになり、後が傷んでしまう。しまったと思い、あわてて収穫し、その場で食べた。カリッと噛んだつもりが、グニャとなる。苦い。全体になんだか柔らかい。ヘチマだった。次々とできるヘチマ。
しかたないので、水につけて腐らせ、筋だけにして、スポンジ代わりのヘチマにした。おふくろは喜んで風呂で使っていたが、10本もあっても困る。おそるおそる近所に持っていったら、いまどき珍しいと喜ばれた。野菜を持っていったときより反応が良かったので、よけいにへこんだ。

ピーマン
ある年、例年のようにピーマンの苗を買い、育てた。収穫時期が近づいたが、なんだかピーマンが細いままだ。間引かずに何房もできているせいと思っていたが、だんだん赤くなる。トーガラシだった。また、苗間違いをやらかした。

しかたないので、収穫して、乾かしてトーガラシとして利用することにした。しばらく経って、乾燥したトーガラシをまな板の上に乗せ、包丁で切ったが、硬くて簡単に切れない。ならばと、すり鉢に入れ、スリコギで強引につぶしにかかった。
なかなかつぶれないが、しばらく続けていると、目がヒリヒリする。そのうち、顔がほてってきて、だんだん痛くなる。顔が腫れ上がり、耐え切れないほど痛くなる。スリコギも放り出して、痛い、痛いと騒いでいるのに、家族は私の腫れ上がった顔を見て笑っている。ぬらしたタオルで顔を冷やす。痛みが収まり、ホットする。助かった。
と思ったら、水が乾いたら、よけい痛くなった。どうやら、毛穴に刺激物が入ったようだ。目をつぶり、口を開けて呼吸し、ただただ時が過ぎるのを待つ。どのくらい時間が経ってからだろうか、ようやく腫れが引いた。
悔しいので、トーガラシは捨てずに、ダンボールの箱に入れて棚の上に置いた。引越しのときに出てきた箱を開けて、思い出し、あわてて捨てた。

10年くらい畑をやって、猫の額ほどもない庭の横浜の家に越してから小さな花壇のみで畑仕事は止めた。
畑仕事は、土つくりが何より大切で、高度なノウハウを必要とする。通常でも多大な手間が必要で、無農薬で広い畑を管理するなど考えられない。予想困難な天候や市場価格のリスクも避けられない。ビジネスとしての畑仕事がいかに大変かを学んだ10年だったともいえる。


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庭で野菜つくり (2)

2007年08月22日 | 昔の話

30年ほど前のことだが、三浦半島の先っぽの方に自宅を建てたときに、20平米ほどの畑を作った。

まず、トマト、ナス、ピーマンの御三家の苗を買って植えた。秋まで収穫ゼロでは待ちきれないので、狭い畑をさらに分割してレタス、コマツナ、ホウレンソウなど葉物を植えた。これもいっぺんにドット出来ても困るので、種の入った袋から少しだけ出して撒き、残りの種は冷蔵庫で保管した。多品種、少量生産である。

連作で成長せず
ナス科には、ナス、ジャガイモ、トマト、ピーマン、トーガラシがあるが、ナス科を同じ場所に2年、3年と続けて植える(連作)と、成長障害になる。したがって、畑を分割して年毎にずらして植えるようにしたが、なにしろ狭いので、何年もしないうちに連作となってまともに育たないことになってしまった。したがって、長く収穫できるのはサヤエンドウくらいで、結局、一度収穫すれば終わりのエダマメ、キャベツや、葉物がだんだんメインになってしまった。

旬(しゅん)のときに一斉収穫となってしまう
レタス、ホウレンソウなど葉っぱ物はできるときは一斉にできて、一気に収穫しないといけない。自宅ではいっぺんに食べきれないし、近所に差し上げるほどのできでもない。それに、旬のときには店での値段も安くなる。収穫物を奥様に見せても、「スーパーだったらもっと立派なのが10円くらいかしら」などと冷たく扱われてしまう。

ビニールハウスに挑戦
無農薬でやっているので、虫もいるし、葉は穴だらけである。「売っているのは虫も食わない野菜だぞ」と負け惜しみを言っても、冷たく虫、じゃなかった無視される。
そこで、園芸店へ行って、ビニールと園芸用棒を買ってきて、洗濯ばさみで止めて、屈めば入れるくらいの高さのビニールハウスを畑の一角に作った。これで、飛んでくる虫も、その卵も防げるし、温度を上げて旬をはずして成長させ、収穫できるとの目算だ。
結果的には虫対策には多少の効果はあったが、植物の自然の理には勝てず、旬をはずすのは難しかった。それよりなにより、風が強いと、ビニールを止めてある洗濯ばさみが吹っ飛んで、翌日は大忙しだった。




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庭で野菜 (1)畑を作る

2007年08月19日 | 昔の話
半世紀ほど前の東京でも畑がまだ残っていたが、私には畑仕事の経験はない。先に述べたように結婚してまもなく、ベランダで菊作りして植物を育てる楽しみと、土いじりが癒しになることを知った。

もう30年も前のことだが、東京から三浦半島の先っぽの方に引越したとき、農家で一坪農園を貸していることを知った。同じく東京育ちの奥さんに相談すると、一度畑仕事をしてみたいと言う。さっそく、一区画借りて、農家の人に教わりながら、トマト、キュウリ、ナスなど野菜つくりを始めた。

初回の種まき、苗植えのときは農家の人が要領を教えてくれた。堆肥と化成肥料をバンバン撒くので驚いた。畑の土も肥えているので初年度は立派な収穫があった。2年目は畑に通う回数が減って、多少出来が悪くなり、3年目は月一回程度になって肝心なときに苗を植えられなかったり、収穫の時期を逃したりした。なにしろ、場所が自宅から遠く、毎土日にきちんと通うのが大変で、3年であきらめた。
ただ、子どもはなかなか思うようにならないが、植物は手をかければかけるだけ、それに応えてくれることは実感した。

近くに自宅を建てたときに、長年の夢を実現するために、狭い庭いっぱいに2m*10mほどの畑を作った。さえぎるものない南向き土地にコンクリートで囲いをつくり、中に畑用の土を入れてもらった。これで毎日、たとえ夜でも、野菜の面倒が見られる。狭いながらも楽しい畑である。
奥さんにも、「これからは野菜が欲しいときは、庭に出れば新鮮そのものの野菜が手に入るぞ」と大見得をきった。





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はるかなるチャンバラごっこ

2007年08月12日 | 昔の話
昔々、その昔、50年とちょっと前のことだった。ある日突然、「今夜やるぞ」との話が通っていた小学校を走り回る。いつ、誰が言い出すのか、誰にもわからない。話は休み時間に5,6年の男子生徒にまたたくまに広がっていく。

その日の5時になると男の子たちが集まり始める。場所は、地元では山大公園と呼ばれているところで、野球のグランドほどもあり、ちょっとした斜面で、一面の笹の間に木々が立ち並ぶ林になっている。5時半には驚くほどの子供たちが集まる。皆、手製の竹でできた刀を持っている。1m ほどの細い竹の太い方を手元として、端から10cm ぐらいのところにお椀や、おたまの中心に穴を開けたものを通し、紐を前後に巻きつけて固定し刀のつばとしている。

自然発生的に戦いは始まる。誰が采配を振るうわけでもないのにうまい具合に東西2 陣営に別れる。斜面の上と下にあるいつも決まっている大きな木がそれぞれの陣営のベース基地になる。
戦いは1対1でチャンバラである。というより当時はそんな名前は知らなかったが、ようするにフェンシングである。もっとも多くの子供は竹を突くだけでなく、左右に振り回して相手を切っていたのだが。
互いの判定で、相手の刀で手足や体を触られた方が負けとなる。負けた子は捕虜になり、相手陣営のベース基地の木に数珠繋ぎにつながれる。今でも不思議なのだが、戦いの中で、触った、触ってないの言い争いはほとんどなかったと思う。負けてつながれながら、「早く助けてくれ!」と叫ぶのもなんだかウキウキすることなので、あっさりと負けを認めたためもあったと思う。

生い茂る笹の下を腹ばいになって敵を避けて進み、あるいは倒しながら、味方がつながれた列のどこかに刀で触ると、列の全員が開放される。開放された子供たちは大声を上げていったん基地に戻る。
多くの子供が負けて列が長くなると、長い補給路を守りきれなかった日本軍のように、長い列全部を守ることが難しくなり、やがていっぺんに捕虜が開放されることになる。

戦いは勝ちそうになり、負けそうになり、ダイナミックに日が完全に暮れるまで続く。
統率者がいないのに全体がバランスし、もめごともなく、あちこちで、真剣でフェア-な戦いが行われ、生き生きと駆け回る子供たち。

まるで、夢のようであった。いや、いまでも目に浮かぶあの光景が夢か、本当にあったのか今では判然としない。


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昔の迷信

2007年05月23日 | 昔の話

「食べた後すぐ寝ると牛になってしまう」
子供でも本当に牛になるとは思っていなかった。しかし、子供心にも、食べた後に、ゴロゴロ寝転んでいるのはだらしなく見えた。行儀作法(今や死語)の教えの一つとして理解していたと思う。しかし、この言葉を覚えているということは、良く言われたと言うことなのだろうか。
歳とって窮屈はいや、何でもラクチンが良いとなって、今や必ず、食後は、いやいつでもゴロゴロしている。小さい子が身近にいると、また違うのだろうが。

「バナナを食べると疫痢(えきり)になる」
昔、バナナは高価でめったに食べられなかった。バナナをむしゃむしゃ食べるチンパンジーがうらやましかったものだ。食べたがる子供に、大人がこう言って収めたような気がする。
ちなみに、疫痢とは、子供の細菌性赤痢の重症のもので、短期間に死亡する怖い病気だ。衛生管理が行き届いたせいだろうか、最近はほとんどない。

「アイスキヤンデーの中の棒を舐めると疫痢になる」
これはローカルに言われていたのかもしれない。今のアイスキャンデーは平べったいものが多いが、昔は割り箸の周りに円筒状にアイスがついている棒状のものだけだった。卑しく芯にくっついたアイスをべろべろ舐めるなということなのだろうか。それでも未練たらしく、こわごわと最後までぺろぺろしていた。

「狂犬病の犬に噛まれるとよだれをたらしながら人を噛むようになる」
今でもこのフレーズを聞くと、ハアハア息をしながら、長い舌を出して、よだれをたらし、牙をむいて痩せこけた狂犬病の犬が近づいてくるのが目に浮ぶ。そして、噛まれると自分もああなってしまうと思うと!
トラウマになっているようで、いまだに痩せて獰猛そうな犬は苦手だ。ちなみに、狂犬病の犬に噛まれると、ワクチン接種しなければ100%死に至ることが多く危険だが、噛まれてもゾンビのように人が人を襲うようにはならない。安心してよい??

「ワカメやコンブを食べると、頭髪が増える」
ワカメもコンブも大好きで良く食べてきたが、・・・・・

「夜に爪を切ってはいけない」(親の死に目に会えない)
すっかり忘れていて、爪は風呂を出た夜に切ることが多くなった。

「霊柩車を目撃したら親指を隠さないと親が亡くなる」
今でも霊柩車を見ると、親指がむずむずする。しかし、考えてみれば、私にはもう両親はいない。

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