hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

髪の毛のケアー

2009年09月30日 | 雑学

(社)日本毛髪科学協会のホームページに「毛髪Q&A」があり、ためになる知識が得られる。



シャンプーでは、頭の地肌を洗う。
リンス(コンディショナー)とトリートメントは、痛みやすい髪の毛の中間から毛先を中心につける。地肌につけるものではない。
リンスは髪の毛の外側から作用し、表面に皮膜を作ることにより、髪を保護し、しなやかにして、つやを与える。
トリートメントは髪の毛の内部にしみ込み、補修し、髪表面をコーティングする。



男性の脱毛は、早い人は10歳代の後半から、遅い人で40歳代を過ぎて起こります。額から頭のてっぺんは脱毛しますが、これは、頭の上部の毛は男性ホルモンの作用を受けやすく、後頭部の毛はその影響を受けにくいことによります。
男性ホルモンは、5α-リダクターゼという酵素により、毛の成長を抑制する物質に変わります。この物質の影響を受けやすい体質の人は、これが毛根に働いて、毛を育てるエネルギーの元になる成分の生成が抑えられ、毛が細く短くなります。これは、遺伝的な要素が大きく、老化の一種と考えられています。

私の場合は、遺伝と老化のダブルパンチだ。



頭皮は手足の10倍も皮脂を分泌するので、脂漏性皮膚炎やふけが生じやすいところですから、頭皮を清潔に保つことが大切。なるべく毎日シャンプーして清潔に保ちましょう。頭皮は、つっぱたり、血行が悪くなりやすいため、風呂上がりのマッサージが有効です。また、高カロリー・高脂肪食品の偏食を避け、バランスのよい食生活が大切。育毛の大敵であるストレスも、適度な運動や趣味などで積極的に発散し、十分な睡眠をとり、生活習慣の改善を心がけましょう。

頭皮は手足の10倍も皮脂を分泌するのですか。そういえば、私の元前頭部、現おでこも、拭いてもすぐにテカテカします。



育毛剤は薬事法で、医薬品、医薬部外品と化粧品に分けられます。薬効で分けると、血行促進タイプ、エネルギー供給タイプ、その他タイプがあります。最近では抗男性ホルモンタイプが注目されていますが、日本ではまだ認可されていません。育毛剤の効果は個人差が大きく、自分に合うものは自分で探すしかありません。また、6カ月以上続けて使用しないと効果がわかりません。副作用がある場合もありますので、注意書きをよく読み、焦らず継続して使いましょう。

4種類試すと、2年ですか。そんなに待てません。


私の髪の毛の状態については、このブログの「毛髪が不自由な人」に書いた。




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「遺産分割と相続税のしくみと手続き」を読む

2009年09月29日 | 読書2
弁護士の高橋裕次郎監修「三訂版 すぐに役立つ 遺産分割と相続税のしくみと手続き」三修社、2009年8月発行を読んだ。

表紙にはこうある。
相続分から遺言の書き方、遺産分割協議まで知っておきたい相続の基本をやさしく解説。最新の法改正を盛り込み、新たに内容を増補。
●相続分を知り上手に「財産分け」をする
●遺言があった場合の対処法と手続きも解説
●どのように遺産分割をすればよいのかがよくわかる
●協議後の遺産分割後の登記申請手続きもよくわかる
●トラブルになった場合の調停・審判・訴訟手続きまでを解説
●かしこく相続するための税金知識を実践的に解説
自分の相続分がわかる! ケース別相続分早分かり36例つき。




第1章 相続の基礎知識
第2章 遺言がある場合の相続手続き
誰が、どれだけ相続するのかなど相続の基礎については、私はいくつかのルールを知っていたので、ほとんどのケースについて簡単に分かった。しかし、以下の点は知らなかった。
・胎児にも相続権がある。
・相続人が殺されたことを知って、これを告発、告訴しなかった者は相続欠格となる。

第3章 遺産分割の手続き
第4章 遺産分割の登記手続き
遺産が金融資産だけの場合は遺産分割も簡単だが、不動産などを含む場合は、分割で問題が起こる場合がある。この遺産分割の手順、手続きが詳しく説明されている。相続税の申告期限までには確定しなければならないという制約がある。

第5章 相続争いを上手に解決する方法
内容証明郵便自体は、特別な法的効力を持つものではなく、相手にプレッシャーを与えるだけだとは、私は知らなかった。もちろん、書かれた内容は重要なのだが。また、使用文字や、一行の字数・1ページの行数など制約がある。
弁護士など専門家への相談窓口や、報酬基準が書いてあり、便利だ。

第6章 相続財産の種類と相続税のしくみ
生前贈与して贈与税を払う方法と、相続後に相続税を払う方法の損得が示されている。課税率は贈与税の方が高いが、累進性との関連で、損得は場合によって異なる。また、年間一人110万円まで贈与は控除される。
不動産などの相続財産の評価方法、例が示される。



監修者の高橋裕次郎は、1950年生まれ。早稲田大学法学部卒。弁護士。一般民事事件、離婚や相続などの家事事件、企業法務を中心とした商事事件、破産事件、刑事事件など幅広く実務をこなす。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

遺産相続に関する基本的な話と、具体的手続きが詳しく説明されていて、今すぐ必要な人には大変役立つ。しかし、まあ、いずれ必要になるかもしれないから、一応頭に入れておこうと言う人は、必要なところだけ読むなら良いが、全部を読むには詳しすぎて大変だ。各項目がページの一番上に大きな文字で書かれているので、事典的に、必要な項目だけを拾い読みすることも可能だ。



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ガリー・ガッティング「フーコー」を読む

2009年09月28日 | 読書2

ガリー・ガッティング著、井原健一郎訳、神崎茂解説、「フーコー」岩波書店2007年2月発行を読んだ。というか、読み飛ばしながら、飛ばされながら、読もうとした。それでも、岩波のこのシリーズ名は「1冊でわかる」と言うのだが。
原題は、” FOCAULT : A Very Short Introduction”

裏表紙にはこうある。
みずから変容をしつづけた知の巨人。その生涯と思想を規定していたものとは?
「私が何者であるかをたずねないで下さい。同一の状態にとどまれとは言わないで下さい」―固定したアイデンティティにからめとられることをつねに逃れつづけた「仮面の哲学者」フーコー。
理性や主体といった既成概念に揺さぶりをかけ、近代社会における権力、知、アイデンティティのありようを精緻に分析してきたフーコーが、生涯心奪われてきた根本テーマとは何だったのか。
文学、政治、歴史、哲学など諸分野にわたるフーコーの知的取り組みをあとづけながら、晩年にいたるまでの思想の道筋をコンパクトに描きだす。


第一章の「複数の生涯と著作」はどうやら私にも理解できた。ただ、この章は12ページしかなく、理解できなかった残りは160ページある。
フーコーは若くしてフランス学界の頂点に立ち、世界中で講義し、犯罪などに関する見事な著作を書き上げ、死後も名声は高まっている。
一方、同性愛に苦しみ、自殺未遂を起こし、世界を流れ歩き、激しい政治活動をし、ドラッグやSM的官能を求め、60歳を前にエイズで死んだ。
また、抑圧にたいする彼の憎悪は強く、反精神医学運動、刑務所改革、ゲイ解放のヒーローになった。

第二章の「文学」で、作者とは何かとのテーマの一部を例として以下に示す。
フーコーの講演の一部が紹介されている。
「言説の集合原理としての、その意味作用の統一体ないし起源としても、その整合性の中心としての作者という考え方は、創造的表現を生み出す源泉というより、制限する原理であって、テクストを作者の包括的な計画に合致したものとして読むことを私たちに強いている、と論じられる。」


こんな文章を集中力を切らさずに読む続けることは、私にはできない。
この前の方を読むと、
ある標準的な(ロマン主義的な)考えでは、作者とは、独自の個人的洞察を表現するために、言語構造に抵抗する者のことである。・・・これとは反対の「古典主義的」な考えでは、作者とは、標準的な言語構造を受け入れ、それを利用して、伝統的なヴィジョンを体現するさらにもうひとつの作品を作り出していく者のことである。・・・しかしながら、フーコーがとくに関心をもっているのは、作者が言語に関係するときにありうるもうひとつのやり方である。つまり、自己表現のための言語を用いることではなく、言語のうちに自己を喪失することに要点があるようなやり方である。


なんとなく、分かるような、分からないような。やっぱりわからない。
サラ・ミルズ著「ミシェル・フーコー」という別の本をながめていたら、「西洋の言語では色彩の表現が多彩だが、言語によっては、緑と青を区別しない言語もある。」というような記述があった。日本語の青が英語のblueに厳密に対応しないだろうし、例えば平安時代の「あお」とも対応しない(?)。つまり、著者が表現したいこと、この場合色彩、を言語が制約していると言える。下世話に言えば、フーコーはそんなことを言っているのかな?

無駄な抵抗をもう一つだけ。
「監獄の誕生」のもっとも注目すべきテーゼは、犯罪者に対して導入された規律的技術はそのほかの近代的な支配の場所(学校、病院、工場など)のためのモデルになるので、監獄の規律=訓練は近代社会全体に浸透するということである。フーコーが言うように、私たちは「収容所群島」に住んでいるのである。
・・・
フーコーは規律=訓練への近代的なアプローチを要約して、その目的は「従順な身体」を生み出すことだと言う。この「従順な身体」とは、私たちが望むことをするだけでなく、まさに私たちが望むやり方でそれをするような身体のことである。
これも、私たちはいつのまにか、権力なり、マスメディアなりに操られていると言われれば、確かにそういった面は強い。




目次
1 複数の生涯と著作、2 文学、3 政治、4 考古学、5 系譜学、6 仮面の哲学者、7 狂気、8 犯罪と処罰、9 近代の性、10 古代の性、解説



フーコーFoucault は、1926年フランス・ポワチエの名家に生まれる。1946年 高等師範学校(Ecole Normale Supérieure)入学 、
1948年 哲学学士号取得、自殺未遂事件
1950年 大学教員資格試験に失敗、再び自殺未遂事件
1951年 リール大学の助手に採用
1955年 ワルシャワにて研究、『狂気の歴史』を著す
1970年 コレージュ・ド・フランス教授就任
1975年 『監獄の誕生』を出版
1961年博士論文「狂気の歴史」、1975年「監獄の誕生」を出版。1984年AIDSで死去。

著者、ガリー・ガッティングGary Guttingは、フランス現代哲学、科学哲学。アメリカ、ノートルダム大学哲学科教授。編書にThe Cambridge Companion to Foucaltほか。邦訳著書「理性の考古学-フーコーと科学思想史」がある。

訳者の井原健一郎は、1967年生まれ。フランス哲学。現在、首都大学東京人文社会系助手。
解説の神埼繁は、1952年生まれ。古代哲学。現在、首都大学東京人文社会系教授。著書「プラトンと反遠近法」「ニーチェ」「フーコー」ほか。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

最近、軽い本しか読んでいないので、たまには真剣に読み込まないと理解できない本でも読んでみるかと、この「フーコー」に挑戦した。そして、砕けた。読解力不足の上に、集中力が失われていることを実感する結果になった。
私には、フーコーの香りくらいしかわからなかった。


なお、この本のほか、サラ・ミルズ著「ミシェル・フーコー」青土社2006年8月発行を図書館から借り出したが、まえがきに「文学研究者を念頭において著されたものであり」とあり、パラパラの見て、退散した。
しかし、257ページと多少厚いが、この本の方が文章自体は平易で分かりやすい。


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宝石の光り輝く指輪をプレゼントしよう

2009年09月27日 | その他
がらにもなく難しい本を読んでいてちっとも進まないので、今回は場つなぎ。

宝石の光り輝く指輪を彼女にプレゼントするための手順は以下だ。

(1) 相手の指のサイズをなにげなく聞こう。

(2) 一人で宝石店をのぞいて、どんな種類があるのか、なにが最近の流行かなど基礎知識を得よう。

(3) 得た知識をもとに相手の好みをそれとなく探ろう。

(4) 店を決め、具体的に相談し、2案に絞ろう。このとき、最初から予算をあまり限定してはいけない。将来の引き取り価格などは期待しないこと。また、念のためサイズ直しの手順、期日を聞いておく。

(5) サプライズ効果が高くなるように送るタイミング、場所をじっくり考え、工夫しよう。



そして、最後に宝くじを300円で買おう。



こんなばかなこと言ってると、そのうち、いや、今すぐにでも???


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「『ひとり老後』の楽しみ方」を読む

2009年09月25日 | 読書2

保坂隆監修「『ひとり老後』の楽しみ方 “人もうらやむ“元気・安心暮らし”」株式会社経済界、2009年7月発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。
最高に心地よい安心生活を手に入れる!
「廊下に全身鏡を置いて、毎日、自分の姿をチェックする」
「年金を含め、老後に自分がいくらもらえるかを把握する」
「口座からの自動引き落としは、定期的にチェックする」
「突然の病気やケガに備えた意思書を用意する」
「鍋に火をかけたら、必ずタイマーをセットする」


文章はわかりやすく、簡潔で、説得力もあるのだが、内容は、老人になれば誰でも心得ている生活の知恵や、最近ではいろいろなメディアで言われていることが並んでいる。いかにも、てだれのライターが書いて、保坂さんという大学教授の名前を借りたことが見え見えの本だ。
もちろん、内容はよくまとまっているのだから、購入するかどうかは別にして、読む必要がないというわけではない。

例えば、こんな調子だ。

究極のかたづけ上手は、モノいらず
引っ越し経験者ならば、覚えがあるだろう、自分が想像以上にたくさんのモノに囲まれて暮らしていたことに、唖然としたのではないだろうか。・・・何かが一つ増えたら、それまでの分を惜しげもなく処分する。・・・モノが増えれば手間が増える、これは暮らしの決まりなのだ。

挨拶言葉にはプラスひと言加える習慣を
・・・ご近所の顔に出会ったら、「おはようございます」と明るく大きな声をかけてみよう。・・・このとき、あとひと言何かを加えることが、人間関係を発展させる秘訣になる。・・・たとえば、隣の門の前の花がきれいだったら、「きれいに丹精されていますね、いつも楽しませていただいています」などと加えるのだ。・・・




目次
第1章 「ひとり老後」の楽しみ方
第2章 究極のわがままライフを満喫する
第3章 ひとりだからこそ大切にしたい人づき合い
第4章 簡単!快適!ひとり暮らし生活術
第5章 損をしない賢いお金の使い方
第6章 病気や介護の準備を忘れない




監修者の保坂隆は、慶応義塾大学医学部卒業後、同大学精神神経科入局。1990年カリフォルニア大学留学。1993年東海大学医学部講師、2000年助教授、2003年より教授。日本総合病院精神医学会理事、日本サイコオンコロジー学会理事、国際サイコオンコロジー学会理事、日本ヘルスサポート学会理事。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

老後の生活の知恵が列挙されている。一つ一つは納得できるし、中にはなるほどと思うこともある。しかし、そのほとんどは既にいろいろなところで言われていて、あらためて再認識することがらだ。

例えば、老後の経済についても記述されているが、簡単な一例に過ぎず、当たり前と言えば当たり前だが、具体的参考、手引きにはならない。自分の場合について具体的に計算するための動機付けになるという意味があるだけだ。



このブログの左の列の最後の方にある“このブログ内の検索”に「おひとりさま」と入力すると、2007年11月20日の「上野千鶴子「おひとりさまの老後」を読む」のほかに7件も出てくる。いかにこの上野さんの本がヒットし、この本もそうだが、便乗本がいかに多いかということだ。



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麻布十番へ

2009年09月23日 | 日記
麻布十番にあるお寺に墓参りに行った。我が家のお寺については、2007年1月24日のこのブログ「墓参りへ」に、山の上の木々に囲まれた静かなお寺だったのが、周辺のビルで景観が台無しになったことを書いた。

蛇足だが、私の墓への思いは、2006年8月25日のこのブログ「自らの死に方と残された家族の思い」に書いた。



3年以上ブログを続けていると、たいていのことは、ブログ内検索してみると、なんのかの形で既に書いてあることが多い。考えが狭い範囲に限られていることをあらためてはっきり知らされて落ち込む。



墓参りの後、麻布十番大通りの、もともと魚屋という魚可津で昼飯とした。



金目鯛の煮付け定食が1000円は安い。金目鯛は厚みがあって、スーパーでも一切れ500円でも買えないだろう。この店は初めてだが、気に入った、安くて上手い。



帰り道は、相変わらず人気の豆源本店前を通り、



最近とんとご無沙汰の、創業210年の永坂更科を素通りする。この店は、だいぶ前に元祖更科を標榜していて、近くの店から裁判を起こされて、結局元祖であることの証明ができなかったのだろう、総本家と明記している。美味しいが、少なくて高い。



吉祥寺に戻ると、駐輪場が長蛇の列。吉祥寺は自転車の街なのだ。






以下、麻布十番商店街HPの「赤い靴の女の子 きみちゃん」より抜粋して書く。2007年2月3日のこのブログ「日本の歌百選+赤い靴の女の子の話」に書いたものとほぼ同じ。
   
   
当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんが「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めた。
母「岩崎かよ」は再婚相手の鈴木志郎と北海道の開拓地へ入植するが、厳しい環境から当時3歳の岩崎きみちゃんをやむなくアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出す。鈴木志郎は結局札幌の小さな新聞社に職を見つけ、野口雨情と知り合う。ちょうど幼子を亡くした野口雨情は、岩崎かよから女の子を外人の養女に出した話を聞き、「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」と話した。ここから、赤い靴の女の子の歌が生まれた。後年、母「かよ」は、赤い靴の歌をよく歌っていたという。

しかし、きみちゃんは船に乗らなかった。ヒュエット夫妻の帰国時、きみちゃんは結核に冒され、長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられた。そして、明治44年9月15日の夜、幸薄い9歳の生涯を閉じた。せつない話だが、母は最後まできみちゃんは外国で幸せにくらしていると信じていたことがせめてもの救だ。

1989年2月麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てた。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置いた。以来、1円、5円、10円という小さな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付され、2009年3月までで1千万円を越した。




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ドレスデン・ア・カペラ合唱団を聴く

2009年09月22日 | 趣味

ドレスデン・ア・カペラ合唱団の演奏4曲と、その指揮者による武蔵野合唱団と武蔵野市立一中コーラス部の公開レッスンを武蔵野市民文化会館で聴いた。



私は、あらかじめ整理券(無料)を取って入場したが、武蔵野市民文化会館の小ホールの470席は、ほぼ満席だった。といっても、その大部分は各合唱団の関係者だと思われるが。



ドレスデン ア・カペラ合唱団は、1996年に指揮者ユングによってドイツ中央東端にあるドレスデンで創設され、権威あるカンヌ・クラシック音楽賞受賞など国際的に高い評価を得ている。メンバーは22名とごく小規模の合唱団で、その大半がドレスデン音大出身者だ。今回が初来日。

「ア・カペラ」とは無伴奏合唱のことだが、その始まり、ドイツのドレスデンで、17世紀にハインリヒ・シュッツが広め、さらに18世紀のバッハ、19世紀のメンデルスにより、合唱音楽が市民に広く普及した。

指揮者のマティアス・ユングは、1964年マグデブルグ生まれ。ワイマール音大で指揮を学ぶ。1991年30歳のとき、ドレスデン聖十字架合唱団の音楽監督(代理)に抜擢され、その後もベルリン放送合唱団、ケルン放送合唱団、北ドイツ放送合唱団などを指揮する。



当日は、まず、武蔵野市立第一中学のコーラス部に生徒が登場し、ピアノの伴奏にあわせ、塚田先生の指揮で「流浪の民」を歌ったあと、マティアス・ユングがレッスンした。最初から少しずつ歌い、直すところを指摘して、歌い直し、と言う風に進んで行く。ドイツ語通訳が間に入るが、音楽にも詳しい人で、的確に訳し、生徒にも伝わっているようだった。

つづいて、武蔵野合唱団がブラームスの「ドイツ・レクイエム」をピアノ伴奏付きでドイツ語で歌い、同じくマティアス・ユングがレッスンした。指示はかなり専門的で細かく、私には内容は理解できなかったが、ドイツ語の発音を直されたり、逆にドイツ人より発音が良いと誉められたりして笑いを誘った。
レッスンの最後に、予定にはなかったらしいが、「我々の合唱団は少人数なので、良い機会だから、一緒に歌わせてください」と言って、武蔵野合唱団の中にドレスデン・ア・カペラ合唱団が入り込み、一緒に歌った。武蔵野合唱団には、貴重な経験になっただろう。

そして、最後にドレスデン・ア・カペラ合唱団が、シュッツ、バッハとメンデルスゾーンの3曲と、アンコールの曲(バッハ?)をピアノなして歌った。人間の声は最良の楽器をいうが、見事にコントロールされた歌声は、透き通り、冴え渡る音で、伴奏付き合唱とは別の、より鋭いという印象を受けた。
私は「ア・カペラ」といっても、ポピュラー音楽の「アカペラ」しか知らなかったので、楽器を使わず、その代わりを人間の声で補うとのイメージがあったが、まったく別物であった。

また、コーラスの経験のない私には、公開レッスンの様子はときどきTVで見たことがあるが、実際の指揮者の指示の仕方、表現方法は、ドイツ語であっても興味深かかった。


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「終の住処を探して」を読む

2009年09月19日 | 読書2
川井龍介著「終(つい)の住処(すみか)を探して」旬報社2009年8月発行を読んだ。

定年後、だれと、どこに、どんな家に住むか?田舎暮らし/海外/便利な都市部/マンション/賃貸/子供と別居などいろいろ言われているが、もちろん人それぞれだ。その答えを得るために、先人の例をいくつか紹介して、何をするかなど自分なりのライフスタイルを考え、それにあった住処を考えるための本だ。

人生の最後の最後は病院ということになる人が大部分だろうし、最後は老人ホームで暮らすと考えている人も多いだろう。いずれにしても、「見捨てられたボロのように年老いていく」しかないのだ。この本の「終の住処」という題名や、「最後の10年」というよく出てくる言葉があるが、これらは、自らが判断し行動できるうちでの最後のまとまった時間という意味だ。したがって、いろいろ挙げられている例は、「定年後」にどこかに移住したという例が多い。たいていの人の人生最後の最後の住処は、希望したとしても、自分で決められない場合が多いのだから。

以下、いくつか拾い出す。
「あと何年生きられるかわからないし、一度は好きなところに住んでみよう」

「・・・石垣島は定住でないという。体が自由に動かなくなったときのことを考えれば、病院へのアクセスを含めてもっと利便性の高いところに移ることを考えてい
る。・・・一つのところにこだわることはない。・・・」

茨木のり子の「四行詩」・・・最後の四行がなんとも含蓄がある。
匿名で女子学生が書いていた
ある国の落書詩集に
「この世にはお客様として来たのだから
まずいものもおいしいと言って食べなくちゃ」


特別養護老人ホーム(特養)は、とくに最近10年ほどで、高齢化が進み、また要介護度の高い人を優先するという方針転換から、お年寄りの住まいというより老人病院化してきた。

以下、目次からいくつか拾う。
好きなまちに住んでみようか (北海道へのあこがれ)/仕事をつづけて、なじみの場所での新生活/定住ではなく移住がいい(楽しみ方を早くから身につけ石垣島へ)/ポルトガルに住み、美術めぐりを /花を楽しむペンションをつくる/還暦からのサーフィン/適度な距離を置く夫婦の住処/老人ホームは終の住処か/二〇年前のフロリダに学ぶ/  



川井龍介は、1956年神奈川県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。新聞記者などを経てノンフィクションや音楽コラムを執筆。連想検索機能を使いウェブ上に様々な文化情報を発信、企画するNPO連想出版の立ち上げに関わり、現在同出版理事、編集長。
主な著作は、「『十九の春』を探して」(講談社)や、「122対0の青春」(講談社文庫)。そのほか、住宅・都市・福祉をテーマにした著作には「これでも終の住処を買いますか」(新潮OH文庫)、「身体にいい家、悪い家」(新潮社、前田智幸と共著)などがある。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

何人かの夫婦の退職後の生き方、住処選択例が紹介されるが、その最後に必ず、著者の考察が付加されていて、この種の本にありがちな単なる事例紹介には終わっていない。著者は新聞記者や、20年以上前に1年ほどフロリダに住んでいて退職者の調査をしていたこともあり、考え方が合理的で、少なくとも私には納得できる点が多かった。

体がほとんど動けなくなったり、ボケてしまったりしたときのことを心配していては何もできない。「好きなことをする、あるいは見つけるために、急いで歩けるところまでは歩いてみる」これが私の考え方だ。そこで、相方が海外旅行好きな点もあって、オーストラリアや、カナダでのロングステイを繰り返して来た。観光旅行+現地での暮らし(1,2か月)+わずかながらも現地の人との交流は、刺激もあり、楽しいことも多かった。

能天気な私は、本来は、オーストラリアあたりに移住しても良いと思っている。しかし、心配性の相方は、自身も、高齢の母親も調子が今ひとつであることから、その気はない。夫婦別々の行動は考えられない私は(相方は?)、近年、短期の海外旅行に留めている。さらに、息子夫婦がときには応援が必要になりそうな情勢もあり、家族全体がハッピイになるために、東京のどこの住むかも含めて、臨機応変に考えていくつもりだ。今でも家族に支えられている私なのだから。まあ、ともかく、場所の問題より、何をするかの方が重要なのだ。

この本によれば、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの映画「最高の人生の見つけ方」は、あと数ヶ月で死ぬとわかったときに何をするかというのがテーマだ。原題は“Buket List”で、「死ぬ前の最後にやりたいことのリスト」という意味だそうだ。
さて、私なら何をリストに挙げようか。

最後に、この本で紹介されていた全米退職者協会について、若干しらべてみた。
AARP(American Association of Retired Persons 全米退職者協会(アープ))は、国民皆保険制度がない米国で、退職者でも安く民間保険に加入できるよう1950年代に発足。中高年の市場に期待する企業の協力で、ホテルやレストランの割引などの特典を次々とつくり、会員を増やした。世界最大のNPOとも言われ、会員は約4000万人もいる。1997年度の年間収入は、総額約600億円。有給職員は1800人以上という。AARPの会員資格は55歳以上。会費は年間たったの8ドルだ。
首都ワシントンDCに壮大な総本部ビルをもち、高齢者関係の施策や社会保障、医療保険、社会福祉関係の諸立法や政策に関してアメリカ議会の動きを監視し、ロビーイストを雇って議会や議員への積極的な働きかけをしている。近年は、そのあまりに巨大で活発な政治力・ロビーイングが議会のひんしゅくをかって、批判されることも多くなった。
日本の団塊の世代が同じようなことをやったら、醜い世代間の争いが顕在化しそうだ。


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「90分でわかるニーチェ」を読む

2009年09月16日 | 読書2

ポール・ストラザーン著、浅見昇吾訳「90分でわかるニーチェ」青山出版社、1997年1月第一版発行を読んだ。

表紙の裏にはこうある。
“神は死んだ” 現代哲学の先駆者ニーチェは、20世紀の現実を不気味なほど見事に予測していた。読む者の人生を変える、最高に「危険な」哲学への誘い。


ニーチェのごく簡単な伝記、主な思想の解説、著作からの抜粋からなるこの本は、「誘い」とあるように、イントロに過ぎない。90分で読めることは読めるが、ニーチェ哲学の概要が90分ではわかるはずがない。

ニーチェの生涯については、きわめて簡単ではあるが、前半にまとめてあり、わかりやすい。まれに見る才能を認められ、若くして大学教授になる。一方で、虚弱な身体に悩み、見せ掛けにこだわるワグナーのいかがわしい部分にだまされ過度に傾倒する。そして、最後まで自己の哲学を体系化をすることはできなかった。

肝心の彼の思想については、この本の解説は要領を得ない。彼の哲学が体系的でなく、秩序だってもいないし、たびたび矛盾するように見えることもあろうが、人間の行動を評価する基準が「権力への意思」しかないというは、本当に彼の思想の根幹なのか、何の知識のない私にも疑問が残るし、少なくともこの本に説得力はない。また、「永劫回帰」、「超人」の説明も、私の理解力をさて置いて、言わせてもらえば要領を得ない。



ニーチェの言葉として、アフォリズム(警句)が紹介されている。
「神は死んだ」
「人生を危険にさらせ」
「最良の薬とは何か?勝利だ」
「道徳的な現象など存在しない。様々な出来事に対する道徳的な解釈が存在するだけだ」
「愛に対する治療薬を授けよう。たいていの場合、古(いにしえ)の治療法が効く。あの荒治療だ。愛し返せばよいのだ」
・・・
確かにこれらの警句は危険な魅力に満ちている。しかし、いくつか例を挙げて、我々の生活が偽りのものだと指摘するだけでは、哲学と言えないのではないだろうか。



ポール・ストラザーン Paul Strathernは、ロンドン生まれ。ダブリンのトリニティ・カレッジで物理学・化学を学んだあと、哲学に転向。作家としても数々の著作がある。本シリーズはイギリスでベストセラーになった。

浅見昇吾は、慶応義塾大学文学研究科博士課程終了。ベルリン・フンボルト大学留学を経て慶應義塾大学文学部講師から、現在、上智大学外国語学部准教授。選考は哲学。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

私は、「何分でわかる・・・」だの、「あなたにもわかる・・・」などという本は意地でも読まなかった。しかし、私は今までニーチェの著作をまったく読んだことがないし、もはや難しそうなその本を読むことはないだろうと思い、せめてニーチェの思想の概要でも頭に入れておきたいとこの本を読んだ。ニーチェの生涯についておおよそのことはわかったが、彼の思想については、この本ではほとんど触れてないし、わからない。本当に、「権力への意思」が思想の根幹にあるのだろうか。簡単すぎるこの本からは、疑問が生じるだけだ。



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上村淳之展を観る

2009年09月15日 | 美術

武蔵野市立吉祥寺美術館で9月27日まで開催されている上村淳之(うえむらあつし)展―唳禽(れいきん)を描く―を観た。



上村淳之は、1933年生れ。1959年京都市立美術大学専攻科終了。現代日本の代表的花鳥画家。上村家は、高名な日本画家、祖母・上村松園、父・上村松篁と三代にわたる日本画家一家。
奈良市と京都府の県境あたりに約1万坪の敷地にアトリエ「唳禽荘」をかまえ、263種、1,600羽の鳥類を飼育しながら鳥たちを描いている。

唳禽荘とは、松園が「端鳥の鳴く家」の意味で名づけた。唳(れい)は、鶴や雁、端鳥(丹頂?)の鳴き声のこととパンフレットにある。
26点の作品(うち2点は素描)が並び、いずれもほとんど無地に近い背景の中心に鳥を描いたあっさりした作品だ。強く訴えるものはなく、端正すぎて、くつろいだ感じもしなかった。
やはり、3代の中では上村松園が一番だと思う。上村松園の「序の舞」には、静かなうちに凛として気品あり、女性の情念が感じられる私の好きな作品の一つだ。

ロビーには、国立科学博物館の鳥類の剥製が10並んでいた。針金のように突き出たくちばしが、下向きにそったものとわずかに上向きのものがあった。



帰りがけに、第一ホテルの裏通りにあるフランス料理店ラトリエ・デュ・グーでランチを食べた。フランス修行帰りのシェフも、係りの人も全員女性だ。人気の店だが狭いので、予約なしに行って今まで3回断られていた。雨の土曜日で12時前のせいか、カウンター席が空いていた。注文はランチコース1600円。
前菜orスープで、スープを選択。色々入っていて、複雑で美味。パンはとくにおいしいというほどではなかった。



メインは肉か魚で、私はポークピカタ。奥様はイシモチのムニエル。
柔らかすぎずにしっかりした肉に衣がマッチ。付け合せのナスやパプリカも美味。



イシモチもしっかり料理するとこんなに美味しいのかとご満足の様子。



このほか、アイスクリームと紅茶をいだだく。若い人にはものたりない量かもしれないが、我々にはちょうど良い。
カウンターからシェフの動作がよく見えた。下準備がしっかりできていて、一人前の材料を乗せたアルミの皿が並んでいる。しかし、一人で、平行作業を手際のよく進め、数人分の料理を次々仕上げる様子に脱帽。キッチンを自分の好きなように配置し、一人で扱える範囲に客を絞っているように感じた。

武蔵野市吉祥寺本町2-8-9ルミナス吉祥寺1F-B
営業時間11:30-15:0017:30-23:00(LO22:00)
定休日火曜日

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勅使河原宏「古田織部-桃山の茶碗に前衛を見た」を読む

2009年09月13日 | 読書2

勅使河原宏「古田織部-桃山の茶碗に前衛を見た」1992年4月、日本放送出版協会発行を読んだ。

この本の題名は「古田織部」だが、大部分は著者自身の芸術生涯の変遷を語っている。その中で、新鋭監督から陶芸、茶道、生花など多彩な才能を発揮させる転機となったのが、織部の沓(くつかけ)茶碗との出会いだったという。

最初に、勅使河原宏(てしがわら・ひろし)をご存知ない方のために、簡単に紹介する。1927年、前衛的な生花の草月流を創設した勅使河原蒼風の長男として生まれ、1950年東京美術学校(現芸大)を卒業し、絵画を描いていた。前衛活動から、新感覚の映画監督として活躍し、「砂の女」はカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞した。織部の沓茶碗に出会い、陶芸も行うようになる。織部から利休へ導かれ、茶道にものめりこむ。父、そしてあとを継いだ妹の霞も急死したことにより、1980年草月流第三代家元継承した。2001年74歳で死去。

著者と織部との最初の出会いは、1980年ごろ、織部の沓茶碗を見たときだ。大きくゆがんだ茶碗はまるでアバンギャルド(前衛芸術)だと驚愕する。織部焼のゆがみは、世界の陶器のどのようなものにも感じられない革命的なものだという。

作者は、利休という映画も作っていて、この本にも利休の話もよく出てくる。利休が秀吉の怒りをかい、切腹させられることになり、京から堺に向かう。他の門人が秀吉に遠慮してなりをひそめているとき、淀の渡しまで見送りにでたのは、細川忠興(ガラシャ夫人の夫、熊本細川家の始祖)と古田織部だけだった。
そして、その古田織部も徳川家康に切腹させられることになる。そのとき、大河内正綱(松平伊豆守信綱の実父)が言ったという。「織部という人は、世の宝をそこなう者である。床の間の掛物も、かっこうが悪いといって、切り捨て、茶碗、茶入なども、疵がひとつもついていないのを、わざと打ち割って、これをつくろい、その趣が面白い、などといっているから、このようなことになると、予想していた」
安定を求める江戸時代は、革新的芸術家、古田織部を生かしてはおかなかった。

著者は、陶芸にかかわらず、何かにとりかかるときには、その世界の常識、経験、ときには技術にさえとらわれずに、直接飛び込んで体験するという。新しいものを創造するための方法であろうが、何にでも一流の才能を持っている著者とは違い、普通の人ではすぐに行き詰るだろう。



この本の内容を知るために、目次を紹介する。
映画「豪姫」の古田織部
四百年前の茶碗のメッセージ
死の壁の向こうの文化
熱い映画の委節が通り過ぎた
土との出会い 土による発見
福井の自然は体に入ってきた
広大な二畳の草庵が語るもの
「さすがに道の遠ければ」
投げつけられた竹 嫌われた黒
ヨーロッパ文化の波としぶき
茶の建築と回想のガウディー
同朋衆を率いた美の探求者
「花は野にないように」
創造者の時代を通って現代へ



勅使河原宏(てしがわら・ひろし)は、1927年東京で勅使河原蒼風の長男として生まれた。同年は父が前衛的な生花の草月流を創設した年であった。2001年74歳で死去。
1950年東京美術学校卒。劇映画第一作「おとし穴」でNHK新人監督賞、」1964年「砂の女」でカンヌ映画祭審査員特別賞受賞。1973年福井に草月陶房開設、1980年草月流第三代家元継承、1989年「利休」で芸術選奨文部大臣賞、モントリオール映画祭最優秀芸術賞受賞。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)

勅使河原宏に興味のある人にはお勧めだが、織部焼を目的に読もうとする人は失望するだろう。
また、伝統、経験により積み上げたものを地道な修行によって継承することが、革新のための妨げになるとの著者に考え方には私は納得できない。しかし、それは多分、前人の成果の積み上げの上にしか新しい物を作り出せない科学技術の世界に私はなじみがあり、そうではない芸術の世界を知らないためかもしれない。

勅使河原宏というと、草月流家元の長男でありながら、映画監督をしている変な人という記憶がある。大学のときに見た、原作者阿部公房自身の脚本で、彼が監督した「砂の女」にはびっくりした。なにしろ蟻地獄のような砂の中で暮らす映画だ。彼は、その後、インスタレーションなど多彩な活動をして、ありあまる才能を乱発した人との印象もある。

この本の最初に織部の焼き物の写真が16枚も並んでいて壮観だ。じっと見ていてあきることがない。なにごとも左右対称、完全無欠の外国の焼き物に比べ、このデフォルメ、というより、武骨で大胆な破壊エネルギー。文様も豪快。インパクトある黒織部もよいが、志野焼きの織部風?もよい。また、「破袋」との銘をもつ古伊賀耳付水指は、部屋の隅にでもころがっていたら、捨ててしまいそうだ。私は、この写真を3年間トイレに飾っていたが、毎日、何回かながめているうちに、ひびの入り具合、ドテッと座り込んだような姿になじみ、愛着を覚えるようになった。ゲイジュツは見るものによって作られる(ナンチャッテ)。


著者は言う。「私は花の美しさを瞬間的にとらえるとき、それが何の花かを見るのではなく、その美しさを、色と線に還元してしまう。花それぞれの固有名詞が気になるようないけばなではだめだ、というのが私の持論なのだ。」
美術館で絵画を見るとき、まず、隅にある小さなプレートをのぞき込んで、作者の名前を見てから、「ふむ、ふむ」と絵画を見る。時代遅れの教養主義にいまだにあこがれる人、それは私です。



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子どもたちの夏祭り

2009年09月11日 | 日記
散歩中ににぎやかな声に近づいてみると、幼稚園児だろうか、小さな子どもたちが、山車を引いている。といっても、周りの大勢の大人たちの間からかろうじて見えるだけだが。



大人たちの隙間が空いている瞬間を狙って、パチリ。カワユイ!



すこし大きな子どもたちもやってきたが、カメラやビデオ片手の親たちが邪魔だ。



タコのみこしと、魚?のみこしだ。こんな簡単なおみこしでも子どもたちは楽しそう。子供用の豪華な本格みこしは大人の見栄なのだろう。





列の後方も、親たちがぞろぞろ。少子化時代、親や、祖父母の人数の方が多いのだから。





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五木寛之「ふりむかせる女たち」を読む

2009年09月09日 | 読書2
五木寛之著「ふりむかせる女たち-忘れえぬ女性(ひと)たち」角川文庫9559、五木寛之自選文庫(エッセイシリーズ)、1995年1月発行を読んだ。
もともとは「ベル」という雑誌に連載されたエッセイで、「忘れえぬ女性(ひと)たち」という題名で1998年10月に集英社文庫から刊行されたものだ。

五木寛之がまだ「青年のしっぽをくっつけていた頃」、外国で出会った印象的な女性達について述べた24章からなる。いずれの女性も、厳しい環境の中で、せつないほど凛としていて、魅力的だ。おかしな表現かもしれないが、”矜持”があると言いたい女性が多い。
5枚の写真がはさまれているが、若々しい五木さんがかっこよい。


「マンハッタンの雪の夜に」
・・・いきなり受話器を宙に投げるようにしてカッカッとヒールをならしてその場を離れてゆくフェイ(・ダナウェイ)の後ろ姿には、指を触れれば地がしたたりそうな鋭い切れ味が感じられました。
 あんなふうに鋭角的な歩き方のできる女性は、おそらくアメリカ、それもニューヨークの女性だけにちがいない、と、思わせられるシーンでした。


私も、今からちょうど20年前にニューヨークへ出張したとき、朝の通勤時の女性の大股でかっ歩する姿にビビッタものでだった。おまけに、すれ違うときの強烈な香水の香りに参ったのを思い出した。


もう一つ、ニューヨークの地下のレストランのカウンターで隣り合わせた老婦人の話が印象的だ。彼女は、「私も作家なのよ。・・・まだ一冊の本も出版してないけど・・・」「子どもたちが大学を出て、それぞれちゃんと独立してやって行けるようになったもんだから、それから書きはじめたのよ」・・・「さあ、そろそろ帰ってタイプを打たなきゃ。夜おそくまで寒い部屋で仕事を続けるのって、いい気持ちね。作家であることの充実感をおぼえて、人生ってすばらしいわ、とつぶやいたりするの。だって、わたしには目標があるし、それに向かって努力する力がまだ残っているんですもの」と言う。そして、五木さんは書く。
まだ一冊の本も出していないけど、自分は作家なのだ、と、何のためらいも、てらいもなく言い切るその老婦人に、ぼくはアメリカ人の或る良き一面をかいま見せられたような気がしたものです。
彼女がその後、どんなふうに働いているかはしりません、でも、雪の晩、かじかむ指に息を吐きかけながらタイプを打ちつづける老無名作家のイメージは、ぼくを勇気づけ、もっとがんばらなくては、と、自分に言いきかせる力を持っているのです。彼女はいまごろ、どんな物語を書いているのでしょうか。



「チボリの夜」
ベルリン生まれのリリー・マルレーンの歌で有名な女優マレーネ・ディートリッヒはナチスに反発し、アメリカへ渡たり、ナチス・ドイツと戦う連合軍兵士を慰問したのでドイツでは裏切り者扱いされた。
五木寛之がコペンハーゲンで、彼女のショーを最前列で見た。ディートリッヒが反戦フォークソング「花はどこへ行った」をドイツ語で歌った。歌い終わると、彼女は頭をたれてスポットの中で動かない。不気味な短い沈黙の後、すすり泣きの声があちこちで起こる。そして、次第に大波のような拍手に変わる。
沈黙の時のおびえた十代の少女のようなディートリッヒの顔に、その時走ったよろこびの色を五木さんは忘れなれないという。



この本の原題「忘れえぬ女性」は、ロシアの画家クラムスコイの名作絵画「忘れえぬ女」を思い出させる。馬車の上から冷たく、傲慢な顔で見下ろす謎めいた女性を描いた絵で、いかにも五木さんがすきそうな絵だ。



五木寛之は、1932年9月、福岡県生まれ、旧姓松延。生後まもなく朝鮮に渡り、1947年に終戦のため日本へ引揚げる。早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、中退。放送作家、作詞家などで活躍。1965年の岡玲子と結婚し、五木姓を名乗る。ソ連・北欧へ新婚旅行に行く。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年「青春の門・筑豊編」で吉川英治賞、2002年菊池寛賞、2004年仏教伝道文化賞を受賞。
なお、五木玲子は露文科の同窓生だが、後に医師となった。近年、版画を製作し、「他力」など五木寛之の作品の挿画として用いられているほか、自身の作品も刊行している。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

私は、五木寛之の本は好きでいくつか読んだが、最近は、仏教関係の人生訓じみた話が多く、敬遠ぎみだ。しかし、この本は昔の本だから、かってのかっこよい五木寛之が読める。昔の五木さんを読んだことのある人はもちろん、「単なるおじいさんだな」と思っている若い人にも、外国へ行くことは想像もできなかった時代だということを心得たうえで、読んでみて欲しい。
それにしても、当時は、ロシア、東欧、北欧の情報はほとんど入ってこなかった。それだけでも新鮮なのに、そこでかっこよく振る舞う五木さんにはあこがれたものだ。

「ハンブルグの陶器店で」
外国へ出ると、とたんに見栄っぱりになるのは、やはり育ちからくる貧乏性なのでしょうか。マイセンは高いんだぞ、と、おどかすように言われると、つい高いがどうした、と前後の見境なく反発するのは、恥ずかしい限りです。
 結局、ぼくはそのコーヒー・カップを持って店を出る破目になってしまいました。・・・トラベラーズチェックはすっかり薄っぺらになり、旅の前途は不安に満ちたものとなってしまいました。


これもよくわかります。恐縮ですが、私も五木さんと同じです。貧乏性なのが、光栄に思えます。


「バルセロナの大和撫子」で、五木さんは言う。
ぼくは日本人として、すばらしい日本女性が次々と異国の男性にされわれてゆくのを、心やすらかに手をこまねいて見ている気はしません、そういう時は、なぜか急に愛国者になってしまうのです。



2008年3月16日のこのブログ「フリーマントルへ」で私も書いている。


それにしても、いつも思うが、素敵な日本女性はみんな外人さんにもっていかれてしまう。なんとかならないものか。私は一人だけ確保しているが、それ以上は無理なのだ。
「日本人女性のパートナーを見ると、2タイプのどちらかだ。一つはやさしいが、お金を稼げない人。もう一つは、お金は稼ぐが、厳しい人だ」と言っていた人がいた。中庸の日本人男性が一番です。


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TV番組「世紀を刻んだ歌・花はどこへ行った」を観て

2009年09月07日 | 日記

9月5日(土)BS-2 21:30~23:00「BS20周年ベストセレクション」の「世紀を刻んだ歌・花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌~」を観た。2000年12月に「世紀を刻んだ歌」シリーズとして最初に放送され、アメリカがイラクを侵略中の2003年4月6日に再放送されたらしい。
内容は、もっとも有名なフォークソングの一つ「花はどこへ行った」(原題 Where have all the flowers gone?)に関するエピソードを紹介するドキュメンタリーだ。



ロシア革命後の不幸な内戦時代を描いたミハイル・ショーロホフの「静かなドン」の最初のほうにコサックの民謡が引用されていて、それは

「あしの葉はどこに行った?娘たちが刈りとった」
「娘たちはどこへいった?娘たちは嫁いでいった」
「どんな男に嫁いでいった?ドン川のコサックに」
「コサックたちはどこへいった?戦争へいった」   といった内容だ。

米国のフォークシンガーの大御所ピート・シーガー(Pete Seeger)が飛行機に乗っているときに、これを読んでインスピレーションを得て、すぐノートに書いた。

1番が「花はどこへ行った。少女がつんだ」
2番が「少女はどこへ行った。男の嫁に行った」
3番が「男はどこへ行った。兵士として戦場へ行った」 というものだった。
1番から3番まで、最後は必ず「Oh, when will you ever learn?:いつになったら(その愚かさに)気づくのだろう」という言葉で終わっている。
1955年、ピート・シーガーが歌ったが、とくにはやることもなかった。

この歌を聴いた民族音楽研究家のジョー・ヒッカーソンが皆で歌うには短すぎて、盛り上がらないと、4番、5番の歌詞を付け加えた。

4番が「兵士はどこへ行った。 死んで墓に入った。」
5番が「墓はどうした。花で覆われた。」 というもので、
1番の「花はどこへ行った。少女がつんだ。」 へ戻り循環する構成にした。

7年後の1962年、ベトナム戦争中に、「ベトナムのことなど考えず、美しい人生の歌として歌っていた」というキングストン・トリオによってこの曲がカヴァーされ、大ヒットした。また同年、反戦運動の中でこの歌を積極的に歌ったピーター・ポール&マリーのカヴァーも大ヒットとなった。

1968年の「テト攻勢」によりベトナム戦争が泥沼化し、悲惨な戦場の様子が報道され、アメリカの世論は反戦に向かっていった。1968年3月、ケサン海軍基地で兵士たちがこの歌を歌う様子が放映され、この曲はもっとも有名な反戦歌となった。

TV番組の中でも、2000年夏にワシントンで行われた「イラク経済制裁反対集会」で雨の中で歌う81歳のシーガーの映像が紹介された。さすがに声ははっていなかったが、凛とした姿に心を揺さぶられた。

また、1962年、リリー・マルレーンの歌で有名な女優マレーネ・ディートリッヒが「花はどこへ行った」を英独仏の3カ国語で歌ってヒットした。ベルリン生まれの彼女はナチスに反発し、アメリカへ渡たり、ナチス・ドイツと戦う連合軍兵士を慰問したのでドイツでは裏切り者扱いされた。
TV番組の映像で、この歌を、あえてドイツ語で歌うディートリッヒの思いつめたような様子は心に響いた。五木寛之がコペンハーゲンで、ディートリッヒがこの歌を歌うのを聞いたことがあり、そのことを書いた「ふりむかせる女たち」(旧題 忘れえぬ女性(ひと)たち)の一節が番組の中で紹介された。



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雨宮塔子「小さなパリジャンヌ」を読む

2009年09月05日 | 読書2

雨宮塔子「小さなパリジャンヌ」2007年6月、小学館発行を読んだ。

2歳児と4歳児を抱えた育児中心の生活の中で、日々囲まれているお気に入りのものを紹介し、パリでの子育て、暮らしぶりを伝える。
やかんや、サンダルなどのページ一杯の写真に、上下に大きく余白をとった文章。写真集か、絵本といった趣だ。

広い並木道を二人の幼児の手を引いて歩く塔子さんの写真が冒頭にある。塔子さんはよちよち歩きの下の子になにか話しかけ、上の子は棒切れを持ってしずかに歩いている。はるか先まで広い並木道が続き、行き止まりには由緒ありそうな建物が見える。なかなか良い写真だ。



第1章 食べるもの、第2章 身につけるもの、第3章 日々使うもの、に分かれている。

まず、哺乳びんの写真が最初にドーンと出てくる。フランスでは、ほとんどの母親が母乳でなく粉ミルクで育てている。これは産後すぐの仕事復帰するためもある。ということで、可愛らしい哺乳びんが多いとして、お気に入りの哺乳びんの写真が登場することになる。

各国王室や世界のセレブたちにも愛されているというフランスの高級子供服ブランド「Bonpoint」の写真があるが、私にはユニクロものと違わないように見える。まあ、本にも読者を選ぶ権利があるということだろう。



雨宮塔子は、1970年東京生まれ。成城大学文芸学部英文学科卒。1993年(株)東京放送(TBS)入社。「どうぶつ奇想天外!」「チューボーですよ!」など数多くの人気番組を担当する。1999年3月TBSを退社し、単身パリに遊学。西洋美術史を学ぶ。2002年フランス在住のパティスリー・サダハルアオキ パリのオーネーシェフ・青木定冶氏と結婚。2003年7月長女を、2005年に長男を出産。現在はフリーキャスター、エッセイストとして活躍中。



私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読めば)

またまた、奥様の借りた本を隙を見て横取りして、あっという間に読んでしまった。
小粋なパリでの生活にあこがれる人、手の届くほどの価格のシャレた小物をそろえたい人、そして雨宮塔子ファンの人は、一度手にとって見る価値がある。その他の人にはわざわざお勧めできるほどの本ではない。

「はじめに」で塔子さんが書いている。
2歳児と4歳児を抱えている今の私は、育児中心の生活を送っています。・・・仕事の原稿でネタを考えるにも、手持ちのカードは“子育て”以外、何も持ってはいないのです。
大変だが、後から考えると最高の時間だったと思う育児を十分楽しんで欲しい。「オムツ取替えも、入浴もさせたこと無い人が言うことじゃないでしょう」と言われそうだが。

アナウンサー時代の雨宮塔子さんは明るい人との印象しかないが、一連の本を読んで、さっぱりとした性格でいて、こだわりのあるという人柄には好感を持った。



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