川口マーン惠美著『メルケル 仮面の裏側 ドイツは日本の反面教師である』(PHP新書1254、2021年3月30日PHP研究所発行)を読んだ。
メルケルは好ましいと思う私は、ちょうちん持ちの本より、あえてメルケルに否定的な本書を読んでみようと思った。
表紙裏にはこうある。
ドイツ国民の多くは、「世界で一番影響力のある女性」アンゲラ・メルケル首相を誇りに思っている。民主主義・人権・環境――彼女は魔法のように、ドイツ人の思考を変えてしまった。しかし、その副作用としてドイツは自由を失いつつある。かつてのライバルCDUとSPDは連立が長期化し過ぎて呉越同舟、野党・緑の党は信条的にメルケルと一番フィーリングが合うという不思議。唯一のコアな野党AfDには極右のレッテルが貼られ、叩くか無視する以外は許されない。ドイツ社会は、異なった意見を受け入れないという危険な水域に入ろうとしている。だが、多くの国民はそれに気づかない。いったい何が起こったのか? 美名の裏に隠れた全体主義化への警鐘。
メルケルは東ドイツの科学アカデミー勤務の科学者で、35歳までは政治とは全く無関係だった。父は「赤い牧師」と呼ばれ、穏健な政治活動をする牧師だったが、彼女はそのような場に同席してもまったく自分の意見は述べなかった。ただ極めて優秀だった。
1989年11月の東西の壁崩壊後、東ドイツは人間の顔をした社会主義で独立か、社会主義を捨てて東西ドイツ統一かが大きな問題だった。
選挙の結果、東の民衆は社会主義を捨てて豊かなコール首相(CDU)の西ドイツを求めた。政治活動を始めたメルケルはこの波に運よく乗り、東出身の女性であることから西ドイツのコール首相に気に入られて頭角をあらわす。
ソ連は東ドイツを中立にしておきたかった。コール首相は東ドイツに55万近いソ連軍が駐留しているので、東西統一の際にはソ連の意向を無視できなかった。ソ連軍撤退の費用という名目で驚くほど多額の費用を払い、東西ドイツは統合した。
コールが不正献金で失脚し、運よく政敵も次々と消えて、メルケルは首相になる。政敵の掲げた政策を巧みに丸のみにして成果をあげた。メルケル嫌いな著者は、運だけでなくメルケルの策謀を匂わせる。
メルケル首相は、福島の事故を受けて、突然原発廃止を言い出し、怒濤のように押し寄せる難民を前に「我々はやれる!」と受け入れを宣言。
著者は、圧倒的人気のメルケルの治世16年の間にドイツは、社会主義化、中国との抜き差しならない関係、活発な討論ができないソフトな全体主義化したと結論付けている。
私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読むの? 最大は五つ星)
ベルリンの壁崩壊前後の諸政党の誕生、成長、消滅は詳しく記述していて、その中でメルケルがどのように登っていったかは詳しい。
しかし、メルケル肯定派の私から見ると、著者は強引なこじつけでメルケルを否定している点が多いと感じる。
また、著者はかなりな保守派で私はとてもついていけない。ドイツの中国接近を非難し、「ドイツ人が、米中どちらにシンパシーを感じるかといえば、本心は中国ではなかろうか」(p212)と述べ、米国トランプ大統領のパリ協定離脱を当然と肯定している(p213)、等々。
この立場から、原発廃止、移民受入れなどメルケルの理想主義をあざ笑っている。(メルケルの理想のEUが実現して、その中心にドイツがいても、そのときには基幹産業は国営化し、同盟国は米国ではなく、中国に変わっているかもしれない(エピローグ)。
メルケル中心の全体主義的傾向があるとしても、メルケルが退場したらその心配は解消するのでは?
川口マーン惠美
作家、ドイツ・ライプツィヒ在住。日本大学芸術学部卒業後、渡独。1985年、シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。
2016年、『ドイツの脱原発がよくわかる本』で第36回エネルギーフォーラム賞・普及啓発賞受
2018年に『復興の日本人論 誰も書かなかった福島』が第38回の同賞特別賞を受賞。
他の著書に『ヨーロッパから民主主義が消える』(PHP新書)、『世界「新」経済戦争』(KADOKAWA)など。
以下、メモ。
メルケルの父親は社会主義者で「赤い牧師」と呼ばれた。
メルケルは、15歳でロシア語コンクールに優勝した。
ライプツィヒ大学で物理学を学び、ベルリンの科学アカデミーに勤務した。35歳まで政治とは関わらなかった。
メルケルというのは最初の夫の姓。
1989年11月9日ベルリンの壁が落ちた。
メルケルはDAに参加。後にDAは社会主義との決別、東西統一を掲げて選挙戦に突入した。メルケルはDAの報道官になった。
選挙結果はCDU(西の保守党CDUの片割れ)が40%以上、SPDは22%、PDSは16%、DAは1%以下と惨敗。
DA: 「民主主義の勃興」、民主的な社会主義国家を目指す弱小政党
CDU:西のコール首相の保守党CDUにより設立
SPD:ドイツ社会民主党
PDS:壁崩壊前の独裁党SED、
DAは東のCDUに吸収され、メルケルは副報道官になった。彼女の記者への報告会が完璧で頭角をあらわした。
コール首相は東出身の女性で、邪気のなさそうな風貌の牧師の家庭出身のメルケルを次期政権の女性・青年大臣に指名した。党幹部が次々と失脚し、CDUの副党首になった。
CDUは選挙で野にくだり、2000年にコールは不正献金問題で失脚し、メルケルが党首になった。
1970年代のSPD政権下で社会保障が肥大化していた。改革が必要なのは労働市場と社会保障制度だったが、確実に票を失うテーマに政治家は手をつけなかった。SPD党首のシュレーダーはここに手を付け、税制改革、年金制度改革に踏み切り、さらに党内の軋轢を無視し、「アゲンダ2010」で労働市場、社会保障改革に手を付けて、総選挙に打って出た。結果、SPD は全く伸びず、CDU35%、SPD34%で、大連立しか解はなくなった。
著者によれば、
彼女の一番重要な関心は権力の掌握だった。つまり、いかにしてSPDを大連立に引き込むかということである。つまり、構造改革は二の次だった。あるいは、最初からそんなものには興味がなかったのかもしれない。しかし、メルケルはそれを匂わせることすらしなかった。(p158)
SPDに主要8省を与えて、2005年11月メルケルは首相になった。
CDUと連立を組む党が、あたかもメルケルに精力を吸い取られるかのように、次々とおちぶれていった。
SPDは優遇されたのに選挙で大敗し、第二次政権で与党入りしたリベラルのFDPも4年後の選挙で議席をすべて失った。一方ドイツはEUの盟主となりメルケルの国際的地位は急上昇した。
脱原発に否定的な立場だったCDUの党首メルケルは、福島の原発事故をチャンスにして、国民に不人気な原発の廃止に突然変節しCDUの幹部を驚かした。著者は保守に見切りをつけたポピュリズムと決めつける。