hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

今年一年、私のブログ

2006年12月31日 | その他

2006年3月4日にこのブログを始め、今日まで306日間に204のブログを書いた。
1.5日に一回の頻度になり、内容はともかく暇に任せてよく書いたと思う。

内容は、パース75回(37%)、その他27回(13%)、バンクーバー19回(9%)、昔の話13回(6.3%)などである。約1/3は海外に滞在していて、その間は頻繁にアップしていたのだから海外ネタがどうしても多くなるが、今後は、退職後の生活や、会社勤めをふり返る話、本の読後感をもっと書きたいと思っている。

以前政治ネタ主体の別名のブログを書いていた。腹立つことも多いので、いくらでも書けるのだが、メチャクチャな意見のごみための中に真剣に考えたまじめなネタを披露するのもむなしいので止めてしまった。アクセスはたっぷり稼げるのだが、このブログでは政治ネタ、時事ネタはほとんど書いていない。

自分のメモと、近しい人への近況報告のために書いているので、アクセス数は気にしていない。あらためて眺めてみると、現在までのアクセス数は、6662ともうすぐ6のぞろ目で、最近は日に50から80ぐらいと思う。

コメント、トラックバックは、ほとんどのものが無関係で自分の宣伝なので、前者はほとんど削除し、後者は禁止した。メールもアダルト関係のものが多く来る。

自己満足のブログに過ぎなくとも、文章を書く練習と頭の体操になり、わずかでも期待して読んでくれる人がいることを想定して、今しばらく続けてみようと思う。

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餅つき

2006年12月30日 | その他
年末恒例の餅つきに参加した。千葉県にある施設でボランテアが何十年も続けている行事で、今年は20人ほど集まった。男性陣は餅をつき、女性陣はつきあがった餅を伸ばす。施設の職員さんを中心として、利用者(寮生)も参加して、42鉢の餅をついた。例年は一鉢、7,8分でつきあがるが、今年は利用者が加わることも多く、平均10分以上かかり、結局9時から16時までかかった。
お昼は野菜が具沢山のトン汁と、つきたてのお餅をあんこ、黄な粉とおろしでいただくご馳走だった。最後の42鉢目はもち米にキビを混ぜてついたキビ餅だった。高齢者が多くなってきた利用者が喉に餅を詰まらせないにくいので作ってみた。ちぎって皆で試食した。特においしくはないが、黄色い粒の混じった餅も変化があってよいものだ。道具を洗って片付け、つき上がったお餅と、山でとったみかんをいただいて帰路についた。

都会に住む人も、町内会やPTAなどの行事で餅つきに参加した人も多いと思うが、以下、あらためて手順を書き出してみる。

まず、もち米を洗って一晩たっぷりの水につけておく。当日、十分水を吸った米をザルにあげて水をきる。セイロに蒸し布巾を敷き、その上に水をきったもち米を入れてならし、布巾で包み、蒸す。セイロを3段重ねにして一番したから順次蒸しあがるようにして蒸す時間を短くする。

石臼(いしうす)には暑い湯を入れて暖めておく。木臼の場合も水を十分吸わせておく。杵(きね)も水につけて水を吸わせておかないと欠けやすい。
つき始めると杵と臼に餅がくっつくので、杵を水につける桶とともに、手水(てみず)するための桶を用意しておく。手水とは、手を水で濡らし餅の表面に水を与えることをいう。

蒸された米を臼に入れて3,4人で小さな杵を持ちこねる。杵を立てたまま臼の外周に沿って体重をかけて米をつぶす感じである。合いの手はまんべんなくつぶれるように、ときどき米をまとめ、杵についた餅をヘラで取る。米をつく人と別にもう一人リズムを取ったり、米をひっくり返したりする人を合いの手と言う。

粒がつぶれたら今度は杵でつく。まず、3人が先ほどの小さな杵でリズムを取りながら、三方から交互につく。最初は軽くつく。こねたもち米は臼に張り付くようになるので、合いの手は、適宜、つくのを中断し、米を臼から引き剥がし、形を丸く整えてからひっくり返し、杵についた餅をはがす。杵は適宜水につけて餅がつきにくくする。

次に、一人で大きな杵でつく。合いの手はつき手とかけ声を合わし、全体が均一につきあがるよう手水をつけながら、臼の中の餅を返す。餅は相当熱いので、餅の表面を濡れた手で叩く程度にする。最初から一人で大きな杵でつくこともある。

つきあがったら、1.5cmくらいの厚みに伸ばし、のし餅にする。つきあがった餅を伸すとき、のし板やのし棒に餅が付かないように片栗粉(取り粉)をまぶす。このとき、つきあがった餅をポリエチレン袋に入れて伸すとそのまま取り扱いが楽になり、保存性も良くなる。こののし餅をお好みの大きさに切ると角餅の出来上がる。つきあがった餅を手で丸く形作りながら親指と人差し指の間から出してちぎり、取り粉の上にとり、丸く成形すれば丸餅になる。



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オーストラリアはもっとも犯罪が多い国?

2006年12月28日 | オーストラリア

オーストラリアは米国などに比べ、コソ泥は決して少なくないが、凶悪犯罪は少なく、比較的治安が良いところと思っていた。以下の調査結果で見ると、OECD諸国の中でオーストラリアがもっとも犯罪の多い国になっていた。車関連の犯罪が多いことがその主な理由のようであるが、実に6%以上の人が、暴行、恐喝を経験していて凶悪犯罪も多いようである。のんびりした西オーストラリアのパース大好き人間としては、まだ信じられない気持ちである。

以下、「社会実情データ図録」 http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/index.html の(図録2788)からの引用です。このHPは幅広い範囲の調査結果、とくに海外のデータを実に良くまとめてあり、じっくり見るといろいろなことを考えさせられる。まだの方は是非一読を。
以下は、私が抜粋したもので、正確さに欠ける点が多いので、正確なデータを知りたい方は直接上記HP、あるいはOECDにアクセスしてください。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
各国の政府機関が発表する犯罪統計は、軽犯罪をどこまで含めるかなどが異なり比較が難しい。
このOECD調査は、一定の期間に一定の犯罪の被害を受けたかどうか、共通の質問票で直接調査する方法によるものである。対象となった犯罪は、強盗、住居侵入、同未遂、自動車窃盗、自動車破損、自転車窃盗、性犯罪、車上荒らし、個人財産窃盗、暴行・恐喝、自動二輪車窃盗である。
犯罪被害者とは調査前1年間に1回以上犯罪の犠牲になったと回答した者である。


(図表も私が抜粋しました)

犯罪率が高いことで目立っているのは、まず、オーストラリアとニュージーランドというオセアニア諸国、そして英国(イングランド・ウェールズ)、カナダなどである。
日本の犯罪率は、2000年に15.2%と先進国中最低であるが、犯罪の増加は目立つ。
米国は、1989年段階では、世界一の値であったが、2000年に犯罪率の低い国となった。

OECD Factbook 2006は以下のように述べている。
「犯罪被害率の調査結果が15%~30%と高いのは、自動車関連の犯罪、特にクルマの破損が高い比率であるからだ。北欧諸国、日本、スイスを除くOECD諸国では、5%以上の人がクルマの破損を経験している。車上荒らしが多い国もある。
人々は盗難、暴行、性的暴行といった犯罪との遭遇を恐れている。こうした犯罪は、日本、ポルトガルではそう多くない。オーストラリアや英国本土では、6%以上の人が、暴行、恐喝を経験しており、このため、オーストラリアは犯罪率が最も高い国となっている。性犯罪の発生率は、オーストラリア、オーストリア、オランダで高い。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

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年賀状の歴史と現状

2006年12月26日 | 世の動向
まず、郵便局「年賀葉書まえ知識」 http://www.post.japanpost.jp/nenga2007/mame.html から抜粋でご紹介します。(  )は私のコメント

出さなかったお年玉付年賀葉書
1.書き損じ等の年賀葉書 →通常切手や葉書などと交換可能(手数料5円)
2.急に喪中となったときの年賀葉書→無料で通常切手類と交換(12月28日まで)
3.種類を誤って購入した年賀葉書で、再販売可能なもの→無料で他の券種の年賀葉書と交換
(1.は何回も実行しましたが、2,3は知りませんでした)

年賀状の起源と歴史
江戸時代には、すでに年始の挨拶状が飛脚などによって交換されていた。
 明治4年に郵便の取扱いが開始され、明治6年には日本最初の「郵便葉書」が発行され、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。
その後
昭和10年(1935)年賀切手の発行
昭和24年(1949)「お年玉付郵便葉書」の発行(寄附金付きも発行)
昭和57年(1982)「絵入り年賀葉書」の発行
平成17年(2005)「写真用年賀葉書」の発行

年賀葉書発行枚数



(50年間ほぼ一直線で増加し、2007年用は約38億枚と国民一人あたり約31枚になっている。個人ではどうみても多すぎるので、企業が顧客などに出すのが多いのではなだろか。虚礼廃止の動きでもっと早く減少しているのかと思っていたが、一度2001年用がピークに達してから減少した。郵政公社になってキャンペーンの効果だろうか、2004年に44億枚とピークに達し、その後パソコンや携帯メールの普及でここ数年一気に減少しています。(原因は私の推測))

お年玉付の賞品の変遷
最初(昭和25年用)のお年玉付郵便葉書の賞品は、特等がミシン、1等純毛洋服地、2等学童グローブ、3等学童用コーモリ傘、4等葉書入れ、5等便せん封筒組合せ、6等切手シート(2円×5)でした。
(ミシンや服地、グローブ、2円切手とは、時代ですね。しかも、「コーモリ傘」とは!)

その後の最高等級賞品は、昭和20年代はミシン、家具、30年代は電気洗濯機、40年代はポータブルテレビ、8ミリ撮影機映写機です。
(時代を反映していますね)

2002年の500名へのHERSTORY社によるアンケート調査結果
http://www.herstory.co.jp/jisya/200212/20021220.html

年賀状を出す枚数:50~100枚27%、31-50枚18%、11-30枚11%、出さない11%、101-150枚11%、10枚以下6.8%、151-200枚5.2%、201枚以上1.6%。
(皆さんけっこう頑張って出しています)

作り方:パソコン印刷、一部手書き55%、パソコン印刷のみ14%、手書き、手づくり5%、家庭用プリント機2.8%、出さない10%
(一言も手書きがないと、なにか義務的な感じがします)

年賀メール:送らない33%、パソコンから送る33%、パソコン、携帯電話両方から9%、携帯から8%
(今はもっと携帯からが多いのでしょう)





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年賀状を彫り、刷り、書く

2006年12月24日 | 美術
私は30年近く版画を彫って年賀状を出し続けています。宛名はパソコンで印刷しますが、年一度だけの創作活動で図案を考え、2,3枚の木版を彫り、絵具に糊を混ぜて塗り、バレンでこすって一枚一枚2,3色の版画年賀状を仕上げます。

図案が思い浮かばないと時間がかかるのと、刷るのが単純労働でうんざりするだけで年一度とはいえ30回近くになると、手馴れたものです。 最初のころは干支の動物の図案でしたが、2巡もすると飽きて来て最近は風景版画に挑戦しています。年一度で、しかも手抜きなので技量は向上しませんが、いろいろ新機軸を考え試みるのも楽しいものです。

勤めていた時は、12月の最後の週に帰宅後、版を彫り、翌日の夜、2時ごろまでかかって200枚くらい刷り上げていました。
友人を思い浮かべながら、必ず2,3行は何か手書きするようにしているので、これも時間がかかり、出すのは年末ぎりぎりになっていました。退職すると時間は有り余っていて、はじめるのは早くなりますが、途中休んだり、結局かける時間はあまり変わらないようです。

会社関係でも個人的に近しい人以外には年賀状は出さなかったのですが、40年の会社員生活の中で徐々に増えて200枚ほどになってしまいました。おかしなもので、今年はこちらから先に出さないでいると、元旦に相手から来て、次の年にこちらから先に出すと、相手から元旦に出した返事の年賀状が来たりして、ギッタンバッコンとなかなか互いに止められないものです。

退職してからは、生活、お付き合いをシンプルにしようと、不義理承知で100枚以下に絞りました。年賀メールで済ますところもあります。こちらの好き勝手で、年一度の状況ご報告のつもりで出しているので、返事はいただかなくても良いのですが、相手の負担になっていると申し訳ないことです。とくにかなりなお年寄りにはもう字を書くのも大変なのでと言う方もいますので。

しかし、年賀状だけでつながっているお付き合いも悪いものではありません。幼い子どもの写真付きでしばらく来ていたのが、夫婦二人だけの旅行の写真になっていたりして、年賀状だけからでも相手の世界が想像で垣間見られて、心が温かくなります。

パソコンでのお絵かきを勉強し始めたのですが、なんでもパソコンの時代だからこそ、いつまで続くかわかりませんが、無理しない範囲で手作りの味のある下手な版画の年賀状は続けて行こうと思っています。
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外国人の日本語は流暢ではいけないのか

2006年12月22日 | その他

ニュースステーションのキャスターだった久米宏氏が10年前の「外人の日本語は片言がいいよね」という趣旨の発言に対し謝罪したとの記事が21日の朝日新聞の夕刊の社会面に出ていた。
当時抗議したのは、Arudou Debito有道出人さんで、米国で生まれ、1996年から日本に永住し2000年に帰化した方だ。

以下、Debitoさんのブログ、http://www.debito.org/index.php/?p=106 の概要を引用する。
―――――――――――――――――――――――――
平成8年10月17日に、Debitoさんは以下のように抗議メールを出し、電話でも抗議した。
「あるイ ンド人が非常に上手な日本語でしゃべったときに、久米さんは「しかし、外人の日本語は片言がいいよね」と言いました。必死に日本語を勉強している外国人がいるのに、日本語が下手なままがよいのですか?」

これに対して、抗議内容を最近知ったという久米さんが、2006年12月に「やはり外国の方は、外国人だと分かる日本語を話してくれないと困る、というニュアンスで僕は話した記憶があります。しかしながら、良く考えてみると、これはかなり失礼な発言だと思います。いわゆる「島国根性」の視野の狭さ、と反省しています。もし不愉快な思いをされたら、今頃何をとお思いでしょうが、心からお詫びします。」(ここも、上記ブログから引用)というメールをくれた。
Debitoさんはこの10年後の謝罪を評価している。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ここで、外国人の日本語が流暢だと、どうなのか私の場合を考えてみたい。

まず、逆に、外国で日本人が英語を話す状況を考えてみる。故人となったソニー会長の盛田さんが、居並ぶ外国の要人の前で典型的ジャパニーズ・イングリッシュの発音で堂々と積極的に発言する姿を見て感心したことがある。
一方、米国人と区別のつかない流暢な発音で英語を話す日本人に対しては、英語で苦労したように感じられないので、嫉妬の感情からか、なにか軽薄に感じてしまう場合も多い。また、実際、英語が話せるというだけで内容のない人もいる。

日本での外国人の場合も、同じことが言える。
たどたどしく話す外国人は一生懸命日本を好きになり理解しようとして日本語を勉強している感じがして好感が持てる。これは、英語劣等感の裏返しで、難解な日本語を話せる優越感もあるだろう。
流暢に日本語を話す外国人は、少ないこともあって、その日本人にはない外観と、出てくる自然な日本語に違和感がある。日本人と同じように、日本の文化・習慣に全くなじんだ人として接した方が良いのか、それとも外人(日本人とは異なるエイリアンalien)として接するべきなのか、戸惑ってしまう。日本に外国人がまだまだ少なく、文化の多様性がないことが原因なのだろう。

いずれにしても、第一印象での戸惑いは別にして、問題の第一は、言葉の上手さにあるのではなく、その内容にあることだけは間違いない。





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CTスキャンを受ける

2006年12月21日 | リタイヤ生活
年寄りのブログですので、どうしても病気のネタが多くなります。
今日はCTスキャンの体験記です。

人間ドッグで腹部の血管に異常がある可能性があり、CTスキャンを受けるように指示されました。かかりつけのお医者に相談し、推薦状をもって大きな病院に行き、CTスキャン(*)を受けました。

検査前4時間は絶食です。ただし、水やお茶はコップ1杯程度ならOKです。
検査する臓器や血管をより詳しく調べるためにヨード造影剤を静脈に注入する必要がある場合があります。私が行った病院では、軽い副作用が100-200人に一人、重い副作用が1-2万人に一人、死亡に至る副作用16-20万人に一人という危険がある書いた承諾書にサインを求められました。副作用の例も具体的に書いてあり、リスクをはっきり説明するのはよいことと思います。

検査前に通常は患者衣に着替えるようですが、私の行った病院では上着を脱いだだけでした。
幅の狭いテーブルに横たわり、トンネルのようなスキャナーの中にテーブルごと入っていきます。スキャナー自体は周囲に画像用機器のついたチューブのような外見をしています。MRI(*)はヘッドホンを付けるほど大きな音がするようですが、CT装置はそれほど大きな音を出しません。装置にはGE Medical Systemsと表記がありました。

テーブルが動き、装置の中に腹部(私の検査部位)が入ってから、そこでテーブルが細かく行ったり来たりしました。それからすぐ、テーブルが元の位置に戻り、腕に造影剤を注射されました。造影剤の注射をすると医者からあらかじめ言われたように、頭の内部がカーと熱くなり、すぐに腰の辺りまでほてるような熱感が起きました。この感覚どこかであったと考えて思い出しました。40年前のねんざしたときのカルシュウム注射による感覚と同じでした。4時間前のこともはっきりしないのにとおかしくなりました。

また、テーブルが動き、装置の中に入り、その位置で、スキャンごとにテーブルが振動する感じで少しだけ(1センチ程度)移動し、いくつもの断面画像が撮影されました。検査中は動かないようにと注意があり、レントゲン検査のときと同じで、スピーカーから「息を大きく吸って」、「はい、そこで息を止めて」と声が聞こえます。結構息を止めている時間が長いので息が続くかなと、ちょっと不安になるくらいでした。こちらからも話ができるように装置にはマイクが付けられています。

各スキャンは数秒程度かかり、普通全体を終了するには1時間ほどかかるそうですが、私の場合は全体で15分くらいで終わりました。それでも、最後に何枚断面図を撮ったかと聞いたら、60枚ぐらいと言っていました。

結果は、紹介元のかかりつけの医院の方で1週間後に聞いてくださいとの話で、1万円と少しを支払って帰宅しました。

1週間後に医院で胴体の輪切り写真を見せてもらいました。最近のCTは1枚を短時間で撮れるようになったので、1cmごとの輪切り写真が10枚ほど入ったフィルムがずらりと並びました。肝臓、血管など鮮明な画像で、画像処理技術、CPU速度の進歩は驚異的です。
診断結果は、門脈(*)が若干太くなっているが病的なものでない。その他、腎臓、肝臓なども異常はなく、気になっている脂肪もとくに多くないということでした。
悲劇の主人公になって、まず何をしようか、遺書だけは書いて置こうかとか、いろいろ楽しんでいたのに拍子抜けの結果でした。13日報告の心電図結果とともに、どこも悪いところはないのでは話になりません。萎縮し始めている頭のCTを撮ればよかったかもしれません。

(注)
CTスキャンとは、コンピュータ断層撮影(Computerized Tomography)で、X線を身体の全周360度から当てます。その結果から、組織の放射線吸収の違いをコンピュータによって計測し、検査部分の断層面の画像、つまり身体の輪切り図を作ります。より詳細な情報を得るために造影剤を投与して撮影する場合もあります。
英国の技師 Godfrey Hounsfieldと、南ア生まれの物理学者Allan Cormackにより発明され、彼らはノーベル賞を受賞しました。基礎科学の成果でなく、人類への貢献は大きくとも、工学的成果にノーベル賞というので私には当時驚いた覚えがあります。

CTと似たものにMRIがあります。MRIは、「Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴映像法」の略で、磁気共鳴現象を利用して断層画像を作るものです。X線を使わないなどメリットもありますが、骨などの詳細情報を得にくいなどの欠点もあります。

門脈とは、胃、腸など消化器の毛細血管から出た静脈が集まった血管系で、肝臓の毛細血管に入ります。英語で、portal veinと言うように、まさにポータルな静脈です。消化管で吸収された栄養分や、異物、毒物などは肝臓へ集まり、肝臓で代謝されたり解毒されたりして、血液とともに心臓に戻ります。


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クリスマス・プレゼントの調査結果

2006年12月19日 | 世の動向
日本人のクリスマス・プレゼント

クリスマスギフトの金額*1

女性が恋人またはパートナーへ期待する平均クリスマスギフトの期待額は53,260円
逆にプレゼントする価格の平均は27,505円
(この差がかなしい)

女性が期待するプレゼント

アクセサリー(33%)、バッグ(11%)、洋服(7%)、時計・ファッション小物、靴*1

アクセサリー(52%)、バッグ・かばん(40%)、洋服(33%)、腕時計(24%)、旅行(24%)、財布(19%)、靴(16%)、インテリア雑貨(16%)、ギフト券(15%)、ゲーム機(14%)*2
(異なる調査結果が4位まで同じ)

男性が欲しいプレゼント*2

腕時計(24%)、洋服(19%)、財布(18%)、バッグ・かばん(17%)、ゲーム機(16%)、パソコン(16%)、靴(14%)、アクセサリー(12%)、旅行(12%)、DVDやHDDレコーダ(11%)、マフラー・ストール(11%)

女性があげたいプレゼント*1

1位=洋服、2位=財布、3位相手の欲しいもの、4位ネクタイ、5位バッグ*1
(腕時計がない。ネクタイは欲しくない)

*1:プランタン銀座ホームページ女性会員調査:サンプル329件、平均年齢は32.4歳。
http://www.printemps-ginza.co.jp/calendar/specialevent/20061117_xmasenquete/index.htm

*2:マクロミル(ネットリサーチ会社)のインターネット調査:男女各258人
http://www.macromill.com/client/r_data/category/index.html


オーストラリア人のクリスマス・プレゼント

オーストラリア人の今年のクリスマスプレゼントの購入数は10個で、
費用は平均857ドル(7.88万円、1個当たり86ドル)。
購入予定のプレゼントは、洋服32%、おもちゃ31%、CD、DVD、ビデオ21%。

クリスマスの願い事のトップは休暇で、その割合は回答者の5%、本、現金、ジュエリー、車など4%。

クリスマスは、10人中4人が教会のサービスに出席し、10人中8人がクリスマスの食事は家で予定。

12月度の消費者報告書:10月31日から11月21日の期間、1500人にインタビュー
(JAMS.TV  http://news.jams.tv  より)

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ヘンデルのメサイヤを聴く

2006年12月18日 | その他

知人から券をいただいてハレルヤの合唱で有名なヘンデルのメサイヤを聴きに行った。

メサイア (Messiah) は、ヘンデル作曲のオラトリオ(バロック、宗教曲で、オーケストラとソロ、コーラスがあるが、舞台装置や演技はない)だ。メサイアは「メシア」(救世主)の英語読みからきていて、聖書から歌詞を取ったイエス・キリストの生涯を題材としている。
構成は「救世主生誕」、「受難と復活」、「永遠の生命」の三部に分けられ、それぞれの部が10から20程度の曲により成る。ハレルヤ・コーラスは第二部の最後に合唱される。

聴いていると歌詞は英語のようで、パンフレットの各曲の説明も英語だ。ヘンデルはドイツ人かと思っていたら、ドイツ生まれでイギリスに帰化していたのだ。

各曲は、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人のソロと、150人ほどの女性、男性の合唱団で、アリア、レチタティーボ、二重唱、コーラスなどで歌う。レチタティーボとはソロがセリフに節をつけて語るように歌う曲のことらしい。
本来は女声であるアルトをカウンターテナーの上杉清仁氏がやっていた。ソロの中でこの人だけが、合唱のときも一緒に口を動かしているのを見て、以前、何かの曲でこの人がアルトをやっていたのを思い出した。

パンフレットに各曲の簡単な説明があり、読みながら歌声や、オーケストラを聴いていると、面白味が増すような気がする。このへんが、歌曲の良いところかもしれない。
オーケストラは小構成だが、歌うというより一定のリズムととる場面が多く、気が付くと身体で調子をとっていたりする。
一方、コーラスはとくに男性は年寄りが多いが50人ほどいて、女性は100人ぐらいであろうか。ソプラノ、バスなどの掛け合いや、ステージの左右一杯に4列に並んだ端から、指揮者の手によって立ち上がり、ウエーブのように湧き上がり、消えてゆく歌声は迫力がある。
そしてなによりも、オーケストラに負けじと、音楽堂の隅々まで響き渡るソロの声量。人間の声は最もすばらしい楽器というが、納得である。
食わず嫌いのオペラも一度生で聴いてみたくなった。

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クリスマスソング

2006年12月17日 | その他

にぎやかな町を歩いていると、ジングルベルにせきたてられる季節になりました。
クリスマスソングの昔からの定番(古典?)と言えば、きよしこの夜(1818年頃)、もみの木(1824年)、ジングル・ベル(1857年)、サンタが町にやって来る(1934年)、赤鼻のトナカイ(1948年)、ホワイト・クリスマス(1954年)といったところでしょうか。賛美歌にはもっと古いものがありますが、これらの作られた年代を調べてみて、私には思ったよりは新しい(?)と感じられました。

日本のものでは、山下達郎の「クリスマス・イヴ」(1983年)が定番で、もはや日本のスタンダードと言えるでしょう。もともとはJR東海「クリスマスエクスプレス」のCMソングだったそうです。最近のものは数多くありますが、定着しているものは、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」(1980)や、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」(1992年)あたりのような気がしますが、いかがでしょうか。 

クリスマスの歌詞にはなかなか良いものがいくつかありますが、ほほえましくて好きなのが、「ママがサンタにキスをした I Saw Mommy Kissing Santa Claus」です。
「ママがサンタにキスをしたのをお父さんが知ったら大変だ」と子どもの声で歌うのがウケルます。

また悪いくせの蛇足のジョークを。(ジョークの哲学:講談社現代新書)より
娘「パパ、お隣のおじさんは出掛ける前に必ずおばさんにキスするのよ。
パパはどうしてああしないの」
父「以前そうしたら、隣のおじさんにひどくぶん殴られたのさ」



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昔の高層ビル

2006年12月16日 | 昔の話

浅草12階
昔の高いビルと言って思い出すのは、浅草12階である。と言っても関東大震災で壊れたので、写真しか見たことはない。
明治23年(1890)に出来た凌雲閣(通称を12階)は浅草にあって、当時東京市中(東京は市でした)を一望できる最も高い建物だった。高さ67m、10階までは八角形のレンガ造りで、その上の11,12階は木造で、8階まで日本最初の電動式エレベーターがあった。大正12年(1923)の関東大震災で壊れた。

白木屋ビル
1932年12月にクリスマス・イルミネーションが原因で火事になり、14名の死者を出す日本初の高層建築物火災となった。
「当時の女子従業員は和服で、下着を着けていなかった。このため、裾の乱れを気にしてロープによる救助に躊躇したことで犠牲者を増やした。この白木屋火事を契機として女性がパンティをつけるようになった」という説があり、私もこの噂を信じていた。しかし記録によると1人を除いて犠牲者は全て転落死だったことに加え、多くの従業員が消防士の救助で助かっているなどこの説には疑問が多い。(フリー百科事典、ウィキペディア(Wikipedia)による)
私はもちろんこの事件のときには生まれていないが、かって日本橋交差点にあった歴史ある白木屋百貨店は知っている。いろいろ騒動があり、結局、東急百貨店に吸収された。

霞ヶ関ビル
関東大震災の教訓から東京では建築基準法により31mという高さ制限があったが、昭和37年に改正され高層ビルが建てられ始めた。
日本最初の超高層ビルと言われている。地上36階、地下3階、地上高147mで、昭和43年4月にオープンされた。
私は霞ヶ関ビルの35階の東京會舘で結婚式をしたのだが、当時は遠くからでも良く見える目立つビルだった。最近はビルの谷間に埋もれている。

その後の日本一の高層ビル
1970年、世界貿易センタービル(163m):浜松町駅前にある。9・11で崩壊したWTCと同じ名前だ。

1971年、京王プラザホテル(170m):新宿西口には小学校の見学で行った淀橋浄水場があった。その跡に建てられ、西口高層ビル群のさきがけとなった。

1974年、新宿住友ビル(210m):東京副都心計画による最初のビルで、住友三角ビルと言っていた。入口から入るとかなり高層まで吹き抜けになっていて、なんて無駄のことをするのかと思った。

1978年、サンシャイン60(240m):新宿に負けず池袋が日本一になった。

1991年、東京都庁・第一本庁舎(243m):あんなに表面が凸凹で窓拭きはどうするのかと思っていたが、やはり維持費が大変なようだ。

1993年、横浜ランドマークタワー(296m):現状で日本一の高さ。ランドマークというように東京の西のはずれの方からでも良く見える。横浜ロイヤルパークホテルからの横浜港の夜景は見事だ。69階の展望フロアに行くエレベーターは最大分速約750m(当時世界一)だが、昔のエレベーターと違って加速するときも少しも不快ではない。

なお、2000年に代々木にニューヨークのエンパイヤ・ステートビルに似たNTTドコモ代々木ビル(240m)ができたが、ビル自体は27階しかなく、それ以上は電波塔になっている。

今後の高層ビル建設としては、2010年の完成を目途に338mのオフィス棟が新宿西口にできるらしい。また、2011年に押上に完成予定の新東京タワーは、高さ約610mだそうだ。

世界一の高いビルの経緯は次のようになっている。
1930年、クライスラービル、米国・ニューヨーク、319m
1931年、エンパイア・ステートビル、米国・ニューヨーク、381m
1974年、ワールドトレードセンター、米国・ニューヨーク、417m
1974年、シアーズ・タワー、米国・シカゴ、442m
1997年、ペトロナスツインタワー、マレーシア・クアラルンプール、452m
2004年、台北国際金融大楼、508m


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一日中、心電図計を装着する

2006年12月13日 | リタイヤ生活

11月21日のブログの最後にちょっと書いたのだが、勤めていたときは健康診断を毎年会社で受けていたが、退職後2年近く受診していなかったので、一日人間ドックを受けてみた。

その結果、心房細動らしい不整脈があったので、かかりつけの医者のところに行き、結果を見せて心電図をとった。その日の測定では問題なかったが、一日中、機械を付けて心電図を記録してみることになった。そう言えば、人間ドックに行った日のたまたま前日に久しぶりに動悸がしたのだった。

けっこう不整脈の人はいるようで、医院に数台ある携帯心電図計が順番待ちになっていた。12月に入ってから病院へ行って、計器をつけた。左右の鎖骨の首の下あたりに2つと左のわき腹に1つ、計3個のセンサを貼りつけ、6本のコードを引きこんだ計器は腰にベルトで装着する。約10年前にも携帯心電図計を装着したが、そのときの計器は10cm*15cm*3cmほどのけっこう大きな箱だった。今回は、8cm*4cm*1cmくらいになっていて、電子技術の進歩にあらためて感心した。

階段、睡眠、トイレなどの動作をした時刻と、動悸などの症状がおきた時刻を書く行動記録メモを渡された。風呂に入れない以外は普段通りの生活をしてくださいとのことだったが、さすがにジョギングは控えた。一時間ほど散歩したが、計器を装着していると思うと、なんだか心臓がいつもより脈動しているような気がする。
翌日計器をはずしに病院に行き、結果は一週間後に判明すると言われた。

検査結果が出たというので、クリニックに行った。心電図24時間分の羅列と、脈が乱れた部分の拡大図が厚いノート状にプリントアウトされていた。
結果は、「脈拍の間隔が乱れているところが幾つかあり、特に就寝中の明け方6時ごろに大きくなっているが、心房細動ではなく、よくある脈の乱れにすぎない」との診断だった。予想通りで、「今後動悸などがあれば注意してまた診断してみましょう」と経過観察となった。

心房細動は、心電図で見ると、大きな波QRS複合体の間隔がバラバラになり、QRS複合体の前にあるp波という小さな波がなくなる。心房細動になると、心房という心臓の上部の部屋が小刻みに震えるためそこで血流がよどみ、血のかたまりができやすくなる。血のかたまりは血液の流れに乗って脳の血管につまり、脳の一部が死んでしまい脳梗塞(脳塞栓による脳梗塞)になる。脳梗塞の原因の1/3を心房細動が占めると言われている。

昔々研究所にいたとき、隣の人が心電図のデータ伝送の実験をしていて、周波数分析すると問題なく伝送されているのに医者が見ると、ポイントのところが違って伝送されていると言って悩んでいた。確かに心電図の小さなp波などはごく微妙な変化であり、訓練された人間の目はすごいものだと思った。


動悸で思い出した昔話

私は感受性が鈍いせいか、これまでどんな場面でもドキドキすることがほとんどなかった。思い出したのは子どもが幼稚園のときの父親参観日のことだ。
先生が、「お父さんはどんなことをしてくれますか?」と聞いたとき、クラスのほとんどの子どもが勢い良く「ハイ、ハイ」と言って手を上げた。あわてて息子を見ると、先生の方をまっすぐ見て、手を伸ばしている。先生が「誰にしようかな?」と言って、見渡す。
そのとき、思いもかけず、私の胸が激しく動悸した。自分のことは何でもなかったのに、わが子となると。普段女房に任せきりでも、私も人の親なのだと思わされた瞬間だった。


鎖骨(さこつ)で思い出した読者の新聞投稿の話

骨折で入院したとき、友達が来て、「鎖骨、折ったのだって?」と聞かれた。
「違うのよ。右骨(うこつ)なのよ」と言って、恥をかいた。

粗忽な話でした。

 

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クリスマスの思い出

2006年12月11日 | 昔の話

私の子ども時代は昭和20年代前半。世間も食べるのに精一杯だし、クリスマスを祝う習慣はなく、思い出はない。20年代後半だろうか、クリスマスと言えばとんがり帽子をかぶったおじさんたちが、銀座で酔っ払って女給さんとふざけている写真が新聞に出ていたような記憶がある。当時は大人の男性がキャバレーなどで遊ぶのがクリスマスだった。

我が家の楽しいクリスマスも、もうはるか昔の話になってしまった。
クリスマスの朝、贈り物を見て喜ぶ顔がみたくて待ちきれず、まだ起きない息子を起こしに行った。子どもはベッドの上で起き上がると周りを見渡して、「ない」と言うと、「僕、いい子じゃなかったからかな」と言うと、泣き顔になった。いつも、泣きだす前に、泣き顔になり、そのまま止まって、一瞬置いてから、泣き声と涙が一気に出てくる。
あせった私と女房は、あわてて、「ベッドの下も探してごらん」と言う。こんなときだけはすばやい息子は、ベッドから首を出して、下をのぞき、リボンでくるんだ袋を見つけると、「あった!」と言って、飛び降りた。
袋をやぶり、前から欲しかったおもちゃを取り出して、「どうして、サンタさんにわかったのかな」とニコニコ、ニコニコ、さっきの泣き顔の跡形もなく、全身で喜んでいる。私と女房も顔を見合わせて、二人ともニコニコ、ニコニコ。

トルストイの小説の書き始めに、「不幸な家庭はさまざまだが、幸せな家庭はどれも同じである」と言うようなものがあったと思うが、まさにこれが平凡でどこにでもある幸せな家庭の典型だと思った。

今でも20年も昔のことをときどき思い出してはニヤニヤしている。サンタクロースは親のためにこそあるのではないだろうか。



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ホームページ更新顛末記

2006年12月08日 | リタイヤ生活
私はロングステイを始める人に少しでも参考になればと、オーストラリア西南端にあるパースPerthの気に入った観光地、生活情報など書き連ねたホームページHPを開設している。
 http://www17.plala.or.jp/toshihiyamizu/

私はおそらく20年以上パソコンを使っていてワープロや表計算などアプリケーション・ソフトは十分使えるが、パソコンの中身や通信プロトコルには興味なく、自信を持って弱いと言える。ソフト開発の経験もない。何しろあと1年で高齢者の仲間入りである。いろいろ試行して一度できたことを数ヶ月も経つとすっかり忘れていて、再度同じことをやるのに大変なエネルギーが必要になる。

退職して時間はたっぷりあるし、ボケ防止のためもあり、このHPはホームページビルダーなどのソフトを使わず、HTMLの本を買って来て後ろのCDにある簡単なソフトでシコシコ作った。
画像を挿入したり、行間をあけたりするいろいろな方法を、本の説明を読んだり、サンプルの一部を書き換えたり、適当なHPのソースを参考にしたりして徐々に作り上げていった。

今回、9月から6週間ほどパースへ行ったので、このブログに書いたパースの情報も含め、HPの情報を一部更新しようと、少しずつパソコン内で作成していて、12月初めに完成した。最後の仕上げにセンタにファイルをアップしようとしてつまずいた。これまでもフリーソフトFFFTPでセンタにアップしていたのだが、今回はまったくセンタに接続しないし、接続してもそれ以上進まなくなってしまった。

前回5月にアップしたときは何の問題もなく処理できたのだ。それ以後、変わったことは、パソコンのセキュリティソフトを更新し、Internet Explore 6をIE ver.7にし、Windows XPをsp2にしたことだ。

正常な状態なら、手順通り操作していけば時々間違えても、時間をかければ結局問題なく動き出す。しかし、問題が起きると、普通にただ使っているだけなので、ソフトやシステムの構造をある程度知らないと修正はお手上げになる。
会社にいたときは、必ず一人二人パソコン関係に詳しく、また面倒見の良い若い人がいて、「ちょっとお願い」と言えば、「またですか?」とか、「しょうがないな」とか言いながらすぐ解決してくれた。退職した今はインターネットで調らべたり、外部にメールなどして、すべて自分で解決しなくてはいけない。

ぷららサポートセンタにFFFTPや、FTPが通らないとメールしていろいろ教えてもらいながら、ひとつひとつ問題点を絞っていった。

我が家は、ADSLのルータからワイヤレスで2台のパソコンがつながっている。
ルータなどの設定はすべて自分でやったのだが、数年前で思い出すのに時間がかかった。結局、ルータのフィルタリング機能はどうなっているのか良くわからなかった。ところが、もう一台のパソコンでFTPを試みると、これが何とできるのだった。これで、おそらくルータは無関係ということになった。

パソコンのセキュリティソフトのファイアウォールはFFFTPだけ通すように設定した。

Internet Explore ver.7で、アドレス欄に、ftp://xxxxxxxx.or.jp と入力し、FTPが可能か試みたが、接続中のまま止まってしまう。
その状態で、IE7の「ツール」にある「接続問題の診断」を実行すると、
------------------
HTTPおよびHTTPS経由のインターネット接続では問題は検出されません
でしたが、FTP経由では接続できませんでした。コンピュータで実行されて
いるファイアウォールのクライアントにより、必要なFTPポートがブロックされ
ていることが原因である可能性があります。
FTPを使用しようとしている場合は、コンピュータの製造元に問い合わせて
ください。
--------------------
と言う趣旨が表示された。
これで、どうもファイアウォールが悪さしているらしいことが分かった。

ここで、改めて、FFFTPのヘルプから、インターネットでQ&A集を見ると、「Windows XPのサービスパック2をインストールしたら、FFFTPが動作しなくなりました。」というQ&Aがあった。

具体的には、「Microsoftのサポートに解決方法が書かれています。「Windows XP Service Pack 2 のインストール後、一部のプログラムが動作を停止しているように見える」を参考にして、設定してください。」とある。http://support.microsoft.com/default.aspx?kbid=842242

Microsoftのサポートには「Windows XPをsp2にすると、デフォルトでファイアウォールが有効になってしまうので、そのソフトを例外に設定しないといけない」というようなことが書いてあった。

そこで、Windowsのファイアウォールのはずし方を調べた。

特定の場合のみファイアウォールをはずす手順

スタート→コントロールパネル(カテゴリ表示)→ネットワークとインターネット接続
→Windowsファイアウォール→例外(タブ)→プログラムの追加
→例えばFFFTPを選んでOKをクリック
これでも全く動作しない。しかたないので、ポートを開けることにする。

→例外(タブ)で(FFFTP)を選択してポートの追加をクリック
→名前とポート番号を入力
(ポート番号は、FFFTPを起動してホストの設定変更をクリックすると、拡張(タブ)に
数値がある。標準は21になっている)

これでも何故か動作しない。このやり方や、原因にこだわる技能も根性もないので、更新したHPをアップするときだけ、ファイアウォール全体をはずすことにした。

スタート→コントロールパネル(カテゴリ表示)→ネットワークとインターネット接続
→Windowsファイアウォール→全般(タブ)で、無効をチェック

これでようやくFFFTPがセンタと情報送受可能になり、HPが更新できた。すぐ、ファイアウォールをもとに戻す。

更新されたHPを見るとアップした写真のうちの幾つかが表示されていない!
デジカメを変えたので、添付ソフトが変わり、送信画像のジェイペグjpgの拡張子がJPGと大文字になっていたのをそのまま送信してしまったのだ。
エクスプローラーがいつの間にか拡張子を表示しないになっていて、違いに気づかなかったのだ。さっそく、ツール→フォルダオプション→表示→詳細設定の中の「登録されている拡張子は表示しない」のチェックをはずして拡張子が見えるようにする。
しかし、すべて小文字に統一するために、送信した大文字画像を削除し、小文字の画像を新たに送信するのは大変だ。根気が続かなくなっていたので、しかたなく画像ファイルの拡張子と対応するHTMLを一致させるように書き換えて再送信した。結果として、大文字、小文字が混在したままになってしまった。

これでようやくHP更新が完了した。
以上、できる方なら1時間も掛からぬ作業で約一週間の時間つぶしができた。嬉しくて涙が出る。トホホ。


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横浜・三渓園へ紅葉狩りに

2006年12月08日 | その他
10日まで公開されている渓谷沿いの紅葉の遊歩道、聴秋閣と春草庵を見に横浜・本牧の三渓園へ行きました。
今週末が紅葉の見ごろで、明日から雨との予報もあったし、開園100周年を迎え今週は入園料が通常500円のところ100円なのにも誘われました。



正門を入ると大池があり、その向こうに三重塔が見えます。すぐ隣に大規模な製油所が並んでいるとは思えないさわやかな景色です。三重塔は京都燈明寺にあったもので1457年建築の関東では最古のものです。

   

紀州徳川家初代・頼宣の別荘だった臨春閣では、狩野派の襖絵や数寄屋造りの部屋をまじかで見ることができます。

      

今回公開されている渓谷沿いの遊歩道を登りました。全山紅葉というわけではありませんが、ところどころにある真紅、朱色、黄色の紅葉を眺めながら登っていくと、京都伏見城にあった月華殿があります。そこから橋を渡って渓谷を降りて行くと聴秋閣が紅葉の間から見えてきます。目を上げると遠くに三重塔が浮かんでいます。

春は花、秋は紅葉の中に、余分なものがそぎ落とされながら鋭さと見せ、静かに建つ日本建築をめでて歩くと、日本に生まれた幸せを実感します。
かなり多くの人が訪れており、このような簡潔な美に鍛えられている日本人の美意識は世界でも飛びぬけたものではないかと思えてきます。それにしても、若い人がほとんど居ないのは寂しいかぎりですが。



京都二条城にあった徳川家光・春日の局ゆかりの聴秋閣は、2階に小さな部屋がある2層の楼閣建築です。
隣に立つ春草廬は、織田信長の弟、有楽斎作の茶室があり、九つの窓がある、華やかな茶室です。新緑と紅葉の時季に、聴秋閣とともに公開されています。

このほか、白川郷の江戸時代の合掌造りや、旧燈明寺本堂など多くの由緒ある建物を見ることができます。

三渓園とは?
生糸貿易により財を成した実業家、原三溪は、東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる17.5万平米に及ぶ広大な土地を造成し、京都や鎌倉などから建造物を移築(重要文化財10棟)しました。1906年(明治39)に、この自宅の扉のない門柱に「遊覧御随意」の札を掲げ一般に開放したので、今年が100周年になります。現在は財団法人三溪園保勝会が運営しています。
 http://www.sankeien.or.jp/index.html



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