hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

阿辻哲次『漢字を楽しむ』を読む

2012年07月31日 | 読書2
阿辻哲次著『漢字を楽しむ』講談社現代新書1928、2008年2月講談社発行、を読んだ。

「環」の下ははねない? 「比」の画数は? 「口腔」「輸入」「憧憬」本来の読みは?
こう書くと、やたら細かな知識を問うTVのクイズのような本と思われるかもしれない。しかし、著者の立場は、印刷体と手書き文字では違いがあり、他の字との違いがわかれば書く字の細かな点にこだわることないし、筆順にもこだわらない。本来の読みと異なっても既に慣用化していれば、その読みもよしとしようとする。
「漢字を読む」「漢字を書く」「漢字を作る」の三章構成で、漢字の蘊蓄(うんちく)を楽しみながら学べる。

答:「比」の画数は、手書き優先で4。本来の読みは「こうこう」「しゅにゅう」「しょうけい」(これら慣用の読み方「こうくう」「ゆにゅう」「どうけい」は、つくりに釣られた百姓読みと言われる)

漢字を読む
漢字の読みは、主に漢音で読まれるが、その他、呉音や唐音がある。
呉音は、南北朝時代の六朝(りくちょう)の南方の発音を基礎とするもので5~6世紀ごろから日本に取り入れられた。現在では主として仏教用語に使われる。
漢音は、8世紀ごろ遣唐使などによって伝わった漢王朝の首都長安の発音を基礎とした読み。儒学関連と、西洋から流入した言葉、学問に主に用いられる。
もうひとつ、平安・鎌倉時代から江戸時代までの長い日中交流のなかで入ってきた漢字の音読みが唐音で、禅宗に用いられる。座禅の修業で肩を叩く棒を「竹篦」(シッペイ)と書き、「竹」を唐音でシツと読む。この「シッペイ」が「しっぺ」の語源だ。
漢字の7割は、象形文字ではなくて意味を表す要素と発音を表す要素を組み合わせた形声文字だ。例えば「譜」の「普」は意味を表さず、単にフという音を表している。

漢字を書く
「大」と「犬」、「干」と「千」など区別すべき漢字は厳密に区別しなければならないが、木ヘンをハネるなど漢字識別に支障のない微細な違いで正誤を判定するのは教師のイジメだと主張する。そんな教師は漢字に関する正確な知識、自信がなく、手書き文字との差を考慮せず教科書の印刷字形をそのまま基準としているだけなのだ。
小学校の教科書には、手書き文字に近い教科書体が用いられているが、それとて手書きとは異なる点がある。さらに、中学校の教科書には、一般に使われることが多い明朝体が採用されていて混乱を招く。
例えば、シンニョウは点一つと、二点「辶」がある。当用漢字ではシンニョウは点一つと定められたが、「辻」のようなその他の字では一点でも二点「辶」でも自由なので、著者名の「辻」の字はどちらでも良いという。
筆順については、文部省の「筆順指導の手びき」が基準とされるが、前書きに「ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく」と書かれている。

漢字を作る
仙台近郊に閖上市があるが、この「閖」という字も、仙台藩主伊達綱村が門の内側から水が見えるからと作った文字だという。権勢を誇った則天武后が作った文字が則天文字で、例えば、水戸光圀の「圀」がある。
JR各社(四国以外)のロゴは、「鉄」という字のツクリの「失」が「矢」になっている。これは金を失うでは縁起が悪いと「矢」に変えている。この漢字も漢字の規範とされる康煕字典には載っている字だ。
金ヘンに少と書いて貧乏、体の下に心と書いてリラックスと読ませるなどのアイデア漢字についてもみんなが使えば漢字になると、著者は肯定的に捉える。



阿辻 哲次(あつじ てつじ、1951年 - )
日本の中国文学者・言語学者(中国語)、中国文字文化史研究者。 京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
著書に、『漢字道楽』、『漢字の相談室』、『漢字文化の源流』 [京大人気講義シリーズ]など。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

「え! そうなの?」と思うような例を連ねる中で、漢字の読み書きに関する基礎、歴史を自然に学べる。漢字に関する歴史的な話も出てくるが、詳細にとらわれることなく大きな流れだけが説明される。細かな規則や例外の羅列でなく、基本的な話であるのが良い。

また、最低限のルールは守るべきだが、細部の詳細な点にこだわらず、漢字をもっと自由に楽しむべきであるとする著者のおおらかな考えが嬉しい。
私は、小学校で真面目に勉強しなかったので筆順がでたらめだ。そもそもパターンで漢字を覚えているので、そのときどきで書き順が違う。著者は言う。

筆順とは、その漢字を書くときにもっとも書きやすく、また見栄えよく書けるようにおのずから決まる順序にすぎない。・・・左利きの人には当然それとことなった筆順があってしかるべきである。

確かに、書き順がでたらめな私の字は汚いが、読めないことはない。自分では個性の一つと思っている。
この本にも「川」という字を下から書くコンピュータ関連の学者の話が出てくるが、考えて見れば、例えば一番左は下から書き、真ん中を上から、右を下から書くのが合理的かもしれない。まあ、順序は勝手にすれば良いのだ。結果がすべてなのだから。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北原糸子『江戸の城づくり』を読む

2012年07月29日 | 読書2

北原糸子著『江戸の城づくり 都市インフラはこうして築かれた』ちくま学芸文庫、2012年6月筑摩書房発行、を読んだ。

徳川二代将軍秀忠、三代家光の時代に、江戸城、大阪城、京都二条城の城郭の整備が、諸大名を駆使した手伝普請、天下普請で行われた。これらは巨大公共事業ともいうべきもので、戦場を失った多くの雑兵の職場ともなった。

江戸城は、三代家光の寛永13年、天下普請により、壮霊な城郭が完成した。さらにまた城の内と外を区切る江戸城外堀は上水系建設とともに江戸の都市基盤を作ることになった。本書は、人力だけが頼りの時代、どのようにして大規模な土木工事が可能だったのか、国中の大名を総動員した天下普請の実際を文献資料、遺跡発掘により、解き明かす。

寛永13年(1636)の江戸城外堀は、石垣を築く西国大名60家と、堀を築く東国大名(石積みの経験に乏しい)45家を動員した「天下普請」により行われ、石高に応じた仕事量が割り当てられた。どのように築かれたかは、地下鉄南北線工事に伴う発掘調査のデータをもとに明らかになった。

石材は、伊豆の石丁場(いしちょうば)で切り出され、帆船で江戸に運ばれた。慶長期の江戸城普請で数百艘の石舟が海に沈んだ経験を生かし、寛永期では大きな事故はなかったという。

本書は『江戸城外堀物語』のタイトルで、1999年「ちくま新書」の1冊として刊行されたもの。



私の評価としては、★★(二つ星:読めば)(最大は五つ星)

江戸初期の幕藩体制の実像がかなり詳細な点で明らかにされ、興味ある事実が散見される。しかし、それらは、素人にはただ膨大な生データとしか思えない記述に埋もれている。
全体に学者の論文の域を出ず、文献資料や発掘物に対する信頼性検証、詳細記述は専門外の者には不要だ。私としては、種々の説の比較検証などは学者にまかせたい。「それでどうした。結論は?」と言いたくなる。

江戸城ができてから、外堀を作ったのだが、場所を選び、そこに既にあった寺、大名屋敷、人家を移転し、堀を掘って出てきた大量に土を処理し、上水を引き込まねばならない。これらにはまさに都市計画を立案することが必要になる。
そして、膨大な人、物を動かす兵站技術が必要で、武術ではなく、それらに長けた官僚的武士の出番となった。また、江戸初期には大名自身が直接具体的にこまかな指示をしていたことが資料で解る。
また、武力より施政の時代になり、本丸など城そのものより、外堀など都市建設が重要になり、火事で失った江戸城の本丸は結局再建されないままとなった。



北原 糸子(きたはら・いとこ)
1939年山梨県生まれ。東京教育大学大学院日本史専攻修士課程修了。神奈川大学歴史民俗資料学研究科特任教授を経て、現在、立命館大学歴史都市防災研究センター教授。
著書は『磐梯山噴火』『日本災害史』、『地震の社会史』、『関東大震災の社会史』など。



目次
第1章 江戸城外堀はどのように築かれたか
閑話休題 城郭普請点描―「築城図屏風」から「築城図屏風」にみる石運びの情景
第2章 手伝普請による城郭建設―江戸・大坂・京都
第3章 堀という都市インフラ
第4章 江戸城と伊豆石丁場
第5章 江戸城外堀の普請現場
第6章 掘り出された石垣
第7章 外堀はどのようにして掘られたか
第8章 「江戸図屏風」の時代


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田光世『ニューヨークのとけない魔法』を読む

2012年07月26日 | 読書2

岡田光世『ニューヨークのとけない魔法』文春文庫お41-1、2007年2月文藝春秋発行、を読んだ。

宣伝文句はこうだ。
世界一お節介で、おしゃべりで、図々しくて、でも憎めないニューヨーカーたち。東京と同じ孤独な大都会なのに、ニューヨークは人と人の心が触れ合う瞬間に満ちている。みんな切なくて人恋しくて、でも暖かいユーモアを忘れない。息苦しい毎日に心が固くなっていたら、ニューヨークの魔法にかかってみませんか。


「ニューヨークの魔法」シリーズの第1弾で、第4弾まで出版されている。

ニューヨーク観光案内ではなく、住む人とのあたたかい触れ合いが3、4ページの短い話で紹介される。
単行本は2000年5月にノヴァ・エンタープライズから発行されており、各話の最後に文中で用いられたいかにも英語らしい表現の英文が付加されている。

岡田 光世(おかだ みつよ)
東京生まれ。青山学院大学文学部英米文学科卒業。ニューヨーク大学大学院文学部英米文学科創作プログラムで修士号取得。
読売新聞米現地紙記者を経て、作家、エッセイスト。東京およびニューヨーク在住。
著書:本書と、シリーズ『ニューヨークの魔法は続く』、『ニューヨークの魔法のことば』、『ニューヨークの魔法のさんぽ』、『ニューヨークが教えてくれた幸せなことば』、『アメリカの家族』、『ニューヨーク日本人教育事情』など。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

アメリカ人(ニューヨーカー)の気さくで親切な良い面が心地よく紹介される。それにしても人種のルツボ、世界各国からの特徴ある人たちが集まり、それぞれが孤独で、ある距離までの親切な心遣いでバランスをとっている。

著者は行動的で、フレンドリーで、多くの人々と付き合うことにより、ニューヨークの良い面を伝えている。ニューヨークの暗い面、犯罪、人種差別や極端な貧富の差にはほとんど触れていないが、明るく元気でやさしい著者から見たニューヨークと納得できる。



帰宅した著者の夫が、うれしそうに話す。いつまでたっても来ないバスを待つ間、夫と身の上話を交わした黒人女性は、別れ際にこう語りかける。You made my day.(おかげで、いい日になりました)

ニューヨークの地下鉄は途中で急に車内放送が入り、各駅が急行になったり、逆になったりする。This is going express now. (今は急行だよ)

メトロポリタン・オペラハウスの立見席の最前列の背の高い若い男性が、3列目の背の低い女性に場所を替わってあげた。女性がお礼を言うと、彼は答える。My pleasure.(それは僕の喜びです)。

部屋に泥棒が入ったとの電話を受けた。ルームメイトに「私の部屋は何か取られていた?」と聞くと、「わからないわ。だってあなたの部屋、前から散らかっているのですもの」
Thanks a lot.(よけいなお世話なんですけど)
泥棒が入ってくるとわかっていたら、きちんと掃除しておいたのにと思った。

ユダヤ教での断食にもある。When are we breaking fast ? 何時になったら夕食を食べるの? breakfastは断食を破ること。

It was an eye-opener for me. 目からウロコがおちた。

It’s a piece of cake. お安いご用だよ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江國香織『金平糖の降るところ』を読む

2012年07月24日 | 読書2
江國香織著『金平糖の降るところ』2011年11月小学館発行、を読んだ。

日系アルゼンチン人としてブエノスアイレス近郊の町で生まれ育った佐和子(カリーナ)とミカエラ姉妹は、ボーイフレンドを共有していた。日本に留学した姉妹は、容姿に恵まれて屈託ない達哉と出会う。達哉に求愛された佐和子は達哉を共有することを拒否して彼と結婚し日本に住む。ミカエラは父親のわからない子供を妊娠して帰国し、アルゼンチン・ブエノスアイレスでシングルマザーとなる。

20年後、佐和子は突然、離婚届を残して、語学学校の教え子であった田渕と故国に戻る。ミカエラは成長した娘アジェレンと暮らしていたが、達哉が佐和子を追いかけてアルゼンチンにやってくると・・・

初出:「きらら」2009年5月号~2011年5月号



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

あのちょっとはかなげで、けだるい江國さん自身の写真にように、この小説にもいつものような雰囲気がある。なにしろ、アルゼンチンだし、東京でもバブルが弾けていないような生活だ。恋の駆け引き、シャレた会話と同時に虚しさが流れる。・・・でもそれだけ。

あんなに単純に輝いていた達哉も、後半は惨めだし、田渕たるや、単におじさんだ。ミカエラも佐和子も輝きを失って消えていくようだ。


ミカエラは自分がわずかに苛立っていることに気づく、まったくカリーナは、いつまでたっちゃんなんかにかかずらっているのだろう。男の人の思いどおりになんか絶対ならない。それこそあのころ、・・・なんどもくり返し誓ったのに。
・・・
けれども同時に、どこかで切実に待っていたのだ。どんなに誘惑されてもそれに屈しない、自分だけを愛してくれる男を。

(でもそんな男には魅力がない場合が多い、田渕のように)

妻がそばにいるのにいないような気がする、というのは外国育ちの女と結婚した夫が、みんな抱える杞憂にすぎないのだ、と?

(日本人の場合だって、妻にとって夫はいるのにいない存在なのでは?)

曇り空ではあるのだが、薄日がさしている。その日ざしは、けれどかえって寒々しいと、達哉は思う。まるで年寄の口角にたまった泡みたいでみじめったらしい、と。

(余計なお世話だ!)



江国香織(えくにかおり)は、1964年東京生まれ。父はエッセイストの江國滋。目白学園女子短大卒。アテネ・フランセを経て、デラウェア大学に留学。
1987年「草之丞の話」で小さな童話大賞、1989年「409ラドクリフ」でフェミナ賞受賞。
小説は、
1992年「こうばしい日々」で産経児童出版文化賞、坪田譲治文学賞、「きらきらひかる」で紫式部文学賞
1999年「ぼくの小鳥ちゃん」で路傍の石文学賞
2002年「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」で山本周五郎賞
2004年「号泣する準備はできていた」で直木賞
2007年「がらくた」で島清(しませ)恋愛文学賞を受賞。
その他、『ウエハースの椅子


登場人物

佐和子  別名カリーナ、アルゼンチンのエスコバル育ち、所沢の悪趣味な豪邸に住む
      正統派美人で上品なのに異性関係は奔放
達哉   佐和子の夫、数店の飲食店経営、普段は代々木上原に住む、体を鍛え常に自信に満ち溢れ、妻黙認のガールフレンドが常に数名
ミカエラ  別名十和子、佐和子の2才違いの妹、アルゼンチンに住む、ファクンドの秘書,ファニーフェイスで口が悪い、自分は性に奔放なのに娘が心配
アジェレン ミカエラの娘、19才、学生
ファクンド  ミカエラの勤める旅行代理店経営
マティアス アジェレンのボーイフレンド
尾崎    達哉の右腕
田渕理(さとし) 佐和子のスペイン語の生徒


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤坂へ

2012年07月22日 | 日記
今日はお出かけ。

銀座線渋谷駅先頭で電車を待っていると、向かいのホームの箱に「おが屑」とある。ホームの掃除に使うのだろうか?



青山一丁目で降りて、ホンダを横目に見て、


ここが港区の図書館。さすが、赤坂図書館。


といっても3階だけなのだが。

246青山通りを赤坂見附方面へ歩く。左手は赤坂御所だ。


カナダ大使館を過ぎて振り返ると、珍しく車が一台もない。


隣には緑豊かな高橋是清翁記念公園。


今現在はドライフラワー状態だが、6月中旬のアジサイは、こんなだった。


青、紫、白が混在している。土壌が酸性だとアルミニュームが溶け出して青くなるが、吸収の具合で同じ株でも色が違うことがあるらしい。昔は白いアジサイなどなかったように思うのだが。

ときどき通っているのはこのビル。


しばらく行くと、薬研坂。漢方薬をすりつぶす薬研という、「Ω」を逆さまにしたような、道具のように、急に下って、急に登る坂だ。



とらやを過ぎ、豊川稲荷を左手に見て、坂を下り、赤坂見附に至る。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊坂幸太郎『仙台ぐらし』を読む

2012年07月19日 | 読書2

伊坂幸太郎著『仙台ぐらし』2012年2月、有限会社荒蝦夷(あらえみし)発行、を読んだ。

伊坂さんの『3652』に次ぐ2冊目のエッセー集(一部フィクション)。

震災前に書いた軽いエッセイは、タクシーの台数が多く、中心部の喫茶店など馴染みの店が閉店していく仙台を描いた11編。真面目で心配性、自意識過剰気味な伊坂さんの人柄が伝わる。

震災後の4編には、仙台に住む伊坂さんの混乱、何もできない苦悩が溢れている。そして、「今やっていることをやり続ける」「僕は楽しい話を書きたい」と思う。

最後に、震災後の石巻を舞台に移動図書館のボランティアをする2人の短編小説がつく。

初出:最初の10編「~が多すぎる」は、荒蝦夷「仙台学」に2005年~2010年に連載。最後の「ブックモービル a bookmobile」は書下ろし。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

前半は気楽に書いた軽めの身近な話で、伊坂ファンか、仙台に縁のある人以外には特にどうということはないだろう。でも、ファンである私は、小説からは想像できなかった伊坂さんの真面目、小心、自意識過剰ぶり(のふりをしている?)を楽しめた。

町で「あ、伊坂さん?」と聞かれるのではと想像してどうしようかと思い、単に勧誘だったりして自意識過剰がバレるのではと恐れたりする。

庭を猫のトイレにされてそれを防ごうと強く出られない伊坂さん。人のよい伊坂さんの実家の家族は猫好きで、ついつい我が物顔の猫を飼わざるを得なくなった過去があった。トイレも・・・。

3月11日の仙台での様子が生々しく描かれる。そして、作家として小説など書いていてよいものかと悩む。以前にも会ったことがある男性が「こんな大変なことが起きちゃったけれど」「また楽しいのを書いてくださいね」と言った。知りあいからのメールに「ただ、とにかく、今やっていることをやり続けなさい。今踊っているダンスを踊り続けなさい」とあった。そして、伊坂さんは「僕は、楽しい話を書きたい」と書いている。



伊坂幸太郎の履歴&既読本リスト

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コンサート自由の風の歌」で被曝ピアノを聴く

2012年07月15日 | 行楽

7月14日「コンサート自由の風の歌」を四谷区民ホールで聴いた。2009年2010年、2011年と3回目になる。
このコンサートの入場料は卒業式などで国家斉唱のとき起立しなかったり、ピアノの伴奏をしなかったため処分された教職員の裁判を支援するために使われる。*1

今回のコンサートが例年と異なるのは、林光*2さんの追悼であること、ピアノがアップライトの被曝ピアノ*3であることだ。

コンサートの始まりはいつも林光さんが勢い良く出てきて、そのまま椅子に座るといきなりピアノを弾きだす。曲はバッハの「前奏曲とフーガ」だった。今回は、林さんへの鎮魂を込めて、崔善愛(チェ ソンエ)さんのピアノと三宅進さんのチェロによる「アヴェ・マリア」で始まった。

その後、林さん作曲の童謡が、クラリネットとピアノの演奏と、ピアノとバリトンの歌で歌われ、第2部は、ブラームスのクラリネット三重奏と、トロイメライ・ノクターンなどのピアノ、そして最後はいつもの合唱団合奏で終わった。

崔善愛(チェ ソンエ)さんによれば、演奏会でアップライトのピアノを演奏するのは初めてで、今朝広島から4トントラックで矢川さん*3により運ばれたという。ピアノのもとの持ち主のミサコさんは現在も存命とのことだ。
アップライトにしては大きな音が響くピアノで崔さんも驚いていた。音の豊かさの点では当然グランドピアノには及ばない気はしたのだが。
側面に傷があり、ペンキでも濡れば良いのにと思ったが、被曝の際にガラスが突き刺さったあとで、あえてそのままにしているのだという。
それにしても、崔さんのショパン「スケルツォ第2番」のエネルギッシュな演奏にはびっくりした。



*1:私は君が代も、日の丸も好きでないが、国歌と決められているので、歌われるときには礼儀として起立する。しかし、どうしても起立したくない人にどうして強制するのだろうか。処分までするのは、そういう人を排除したくて、そのための踏み絵として国歌を利用しているとしか思えない。

*2 林光さんは、1931年生れの作曲家。昨年9月自宅前で転倒し意識を取り戻すことなく今年1月亡くなった。
うたごえ運動では、林さん作曲の歌が多く歌われていた。サントリー音楽賞受賞のオペラ「セロ弾きのゴーシュ」、モスクワ音楽祭・作曲賞受賞の映画音楽「裸の島」や、合唱組曲「原爆小景」が有名で、著書も多い。

*3被曝ピアノ公式サイト「ミサコのピアノ」と呼ばれる昭和7年ヤマハ製造のアップライトピアノ。爆心地より1.8Kmの民家で被爆。当時のままであるが、演奏は充分できるように矢川光則さんにより修復されている。

*4崔善愛(チェ ソンエChoi Sun-ae Lois)は、北九州出身。愛知県立芸術大学、および大学院修士課程修了。後に米国インディアナ大学大学院に3年間留学。ピアニストとしての演奏活動のかたわら、全国各地で「平和と人権」をテーマに講演をおこなっている。著書に「自分の国を問いつづけて―ある指紋押捺拒否の波紋」

その他の出演者は、飯村孝夫(バリトン)、橋爪惠一(クラリネット)、三宅進(チェロ)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有川浩『三匹のおっさん』を読む

2012年07月13日 | 読書2

有川浩著『三匹のおっさん』文春文庫、2012年3月、文藝春秋発行、を読んだ。

剣道の達人キヨこと、清田清一は、父から受け継いだ剣道道場には生徒がいなくなり、会社も定年退職。
柔道家で居酒屋「酔いどれ鯨」の元亭主シゲ、重雄の提案は、自分たちで自警団を作ろう、というもの。
もう一人の幼馴染み、機械をいじらせたら無敵の頭脳派、工場経営者ノリ、則夫を加えて、「三匹のおっさん」誕生。
キヨさんの孫の祐希やノリさんの娘の早苗の高校生コンビも手伝って、詐欺に痴漢に動物虐待…身近な悪を成敗。
6話からなる短編集

有川さんがあとがきに続く、文庫版あとがきで、児玉清さんがラジオで本書をともかく好きと褒めてくれて嬉しいと書いている。そして、特別付録でこのラジオの内容が付加されていて、さらに、このラジオ番組を引き継いだ中江有里(年間300冊読むという)が解説を書いている。

初出:「別冊文藝春秋」2008年3月号~2009年1月号、単行本2009年3月



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

有川さんがあとがきに書いているように、「時代劇を現代でやったらどうなるかな」との狙いは当りともかく読ませる物語になっている。気楽に読め、楽しめる。
ただ、あまりに無理してキャラ立たせすぎて、通俗的過ぎて、残り時間そんなにないのだから、いくらなんでももう少し骨のある本を読まないと思ってしまう。

人物は類型的、若者は、祐希と早苗以外はみんなだらしない。やっぱり、年寄はしっかりしてると言われても、「うーん、人によるんじゃない」としか言えないのが哀しい。

登場人物
清田清一(きよかず)剣道の達人。通称キヨ。ゲーセン「エレクトリック・ゾーン」顧問
清田芳江 清一の妻
清田健児 清一の長男、妻は貴子
清田祐希 清一の孫、健児の長男、高校生
立花重雄 柔道の達人、通称シゲ、「酔いどれ鯨」の前店主
立花登美子 重雄の妻
立花康生 重雄の長男、「酔いどれ鯨」の店主、妻は理恵子、娘は奈々
有村則夫 機械に強い無敵の頭脳派、通称ノリ、工場経営、妻を亡くし、娘と二人暮らし
有村早苗 則夫の娘、栄女子高に通う高校生
工藤晃  中学生1年生、カモの飼育係、清一の元道場の生徒
新垣美和 中学生1年生、カモの飼育係
富永潤子 早苗の同級生



有川浩(ありかわ ひろ)の略歴と既読本リスト


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須賀敦子『こうちゃん』を読む

2012年07月11日 | 読書2


須賀敦子・文、酒井駒子・画『こうちゃん』2004年3月河出書房新社発行、を読んだ。

須賀さんが唯一遺したちいさな物語に、酒井駒子さんが画をつけた。
「わたし」と「こうちゃん」が、日本やイタリアの景色のなかで、うつろう季節の中で、花や木々や生き物たちと出会う。深い思いに満ちた言葉が、味わいある絵とともに綴られている。

あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。
こうちゃんって どこの子かって。 そんなこと だれひとりとして しりません。
・・・
ながいこと待ってた 手紙がやっとついたら、封をきるとき ちょっと よこをみてごらんなさい。 いっしょうけんめいせのびして いっしょに読もうとしている子が こうちゃんです。 ─わかりもしないくせに─。 

庭さきの椿の あかい花が ぽとりと落ちたら、みないふりして待ってごらんなさい。誰にもみられていないつもりの こうちゃんがうたいながらやってきて、そっと あかい花をひろいあげると、また大いばりで 行ってしまうでしょう。


珍しく降った雪を見るこうちゃんに、そっとうしろから、

「ゆき、すき?」
ときくと、その子は ほんとうに どきっとしたようで 両の頬を たちまち もえるように あかくしたかとおもうと 木の幹に ぴったりと 顔をかくしてしまいました。
 ああ こうちゃん ごめんなさい。ほんとうに うつくしいものを みていて、   ひとにはなしかけられたときの、あの かなしいような はずかしいようなきもちを わたしだって よく知ってるはずだったのですもの。



表紙の絵
黒く塗りつぶしたキャンバスにかすれるように塗りつけた水色が味わい深い。髪の毛や輪郭はパステルだろか? 穏やかで思いに満ちた女性らしい絵ですね。



本文初出:「どんぐりのたわごと」1960年12月 Corsia del Servi, Milano, Italia
とある。コルシア書店に勤めていたころ須賀さんの個人誌らしい。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

子供の頃から今まで童話などほとんど読んだことないので、他の作品とは比べられません。でも、どことなく切ないような雰囲気がこの本には流れていて、須賀さんて、若い時からすばらしい文章を書いていたのですね。酒井さんの絵も良い味をだしていて、文とともに静かで穏やかな気持ちにさせられます。漢字も時々混じり、小さな字で、文も多いので、小さな子供むけの本ではないでしょう。

町の広場の石のはしらにもたれていた こうちゃんが、

わたしのやってくるのをみると、こちらをふりむいて、ふとわらいながら ゆっくり こう言いました。
「ぼく、待ってるんだ――」


私も、思い出しました、子供の頃、何かを待っているのに楽しくて、聞かれもしないのに、弾むように、語尾を上げて言いました。「ぼく、待ってるんだ――」
退職した今では時間はたっぷりあるのに、待つことはイライラすることだと決めつけてしまっていることに思い至りました。



須賀敦子の略歴と既読本リスト

酒井駒子(さかい こまこ)
1966年兵庫県生まれ。東京芸術大学美術学部油絵科卒。絵本作家。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須賀敦子『ミラノ霧の風景』を読む

2012年07月09日 | 読書2


須賀敦子著『ミラノ霧の風景』白水Uブックス1028、1994年9月白水社発行、を読んだ。

裏表紙にはこうある。

記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている―――。ミラノをはじめ、各地で出会った多くの人々を通して、イタリアで暮らした遠い日々を追憶し、人、町、文学とのふれあいと、言葉にならぬため息をつづる追憶のエッセイ。時の流れが記憶の中で凝縮され、静かにゆっくりと熟成する、やがてそれらの記憶は、霧の日に作ったポレンタの匂いやペルージャの町の菩提樹の花の薫りとなって蘇る。講談社エッセイ賞、女流文学賞受賞。


20代から30代にかけて13年間のイタリア生活を60才になってから追想したエッセイ。

濃い霧のミラノ、菩提樹の花の香りのペル-ジャ、海から突風が吹く詩人サバのトリエステ、町全体が劇場化したヴェネチア。イタリアの町の匂いと、特徴ある友人との触れ合い、エピドード、それらの多くが既に失われてしまった哀しみを持って淡々と語られる。

初出:作品の大半は1985年12月~1989年6月、日本オリベッティ株式会社の広報誌『スパツィオ』に連載された。さらに加筆し1990年に単行本として白水社から刊行された。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

まず冒頭の霧の描写に引きこまれてしまった。風景としての霧、霧の朝の物音、車に立ちはだかる霧の「土手」などミラノの生活の中に溶け込んだ霧が懐かしさとともに語られる。

思い出は削ぎ落とされ純化する。町の様子も研ぎ澄まされ、付き合った人の描写も一歩置いてよりくっきりと描かれる。驚くような出来事も、悲惨さも哀しみも淡々とした語り口で、かえって心を打つ。

確かにこの時代にヨーロッパに滞在することは特別なことだっただろう。そして、彼女が接した人々も個性的で優れた人だった。だが、語られるエピソード、人物については、50年も経った今では間違いなくそのまま時の流れの中で埋もれてしまうものだろう。それが、なぜ、こんなにも私の心を打ち、行ったこともないイタリアの、会ったこともない人たちを懐かしく、切なく思えるのだろう。
このギスギスした日本に住む私も、出会うなんでもない日常の事柄、心優しいがどうということない出会った人たちに光を当てて、こんなエッセイが書けるはずなのかもしれない。仮に私に須賀さんほどの感受性、文章力があればなのだが。

本の紹介がところどころ出てくる。たまたま読んだ本が2冊あった。
パトリック・ジュースキント『香水』は池内紀訳に惹かれて読んだ。また、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』は、知人に勧められて読み、魅せられて、須賀さんのこの本を読んだのだ。

須賀敦子の略歴と既読本リスト





以下、私のメモ

昔、『ヴェニスに死す』を読んだのは、本を脳の筋肉(そんなものがあるとすれば)でただ噛み砕いているのすぎないような若いころのことで、あたまに残っているのは、だれもが知っているストーリーだけだった。



ナポリのアパートメントのテラスからはカプリ島やサンタ・キアラのゴシック建築が見え、部屋は現代的なシャレた室内装飾だった。しかし、満足に使えるコンセントがなく水まわりは水はけが悪く、毎夕ゴミを持って階段を5階登り降りしなければならなかった。しかし、慣れればパンを焼く間はプラグを手で支えていればよいし、水が無くなるのを待てば良いと思えるようになり、テラスからの眺めを楽しめるようになった。

著者に親切で、才気溢れ冗談好きのコルシア書店の編集者ガッティが、徐々に片隅に追いやられおずおずと憂鬱で、偏屈になって行き、やがてアルツハイマーになる過程が哀しい。数年ぶりにホームで会ったガッティはさっぱりとした顔でもらったアメをうれしそうにほおばる。そのあかるさに、もはやイライラさせることないガッティに、著者はうちのめされるのだった。
昔、ガッティのレジスタンス仲間だった銀行家の次男が小学生の頃から書店によく来ていて、ガッティは大変可愛がっていた。その彼が精神科医となり今はガッティを親身に診ているという。

車の運転も、霧が出ると(立ちこめる、というような詩的な表現は、実をいうとミラノの会話にはない。霧がある、か、ない、だけだ)至難のわざになる。・・・霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のような、塀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。・・・あるとき、ミラノ生まれの友人と車で遠くまで行く約束をしていたが、その日はひどい霧だった。遠出はあきらめようか、と言うと、彼女は、え、と私の顔を見て、どうして? 霧だから? と不思議そうな顔をした。視界十メートルという国道を、彼女は平然として時速百キロメートルを超す運転をした。「土手」にぶつかるたびに、私の足はまぼろしのブレーキを踏んでいた。こわくないよ、と彼女は言った。私たちは霧の中で生まれたんだもの

ホームの待合室のようなところに、男の看護人に付添われて出てきたガッティは、思いがけなくさっぱりとした顔をしていた。年齢を跳びこえてしまった、それは不思議なあかるさに満ちた顔だった。私の知っていた、どこかおずおずしたところのある、憂鬱な彼の表情はもうどこにもなかった。山ほど笑い話の蓄えをもっていて、みんなを楽しませてくれたガッティも、もちろんアルビノーニのガッティも、その表情のどこにも読みとれなかった。私を案内してくれた友人が次々とポケットから出すキャンディーを、ガッティはひとつひとつ、それだけは昔と変わらない、平べったい指先で大事そうに紙をむきながら、うれしそうに口にほうばり、なんの曇りもない、淡い灰色の目でじっと私を見つめた。ムスタキのかわりにレナード・コーエンをくれたガッティ、夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらいらさせないガッティに、私はうちのめされた。



そんなとき、サバの名が、ふとだれかの口にのぼった。マスケリーニ(現代彫刻の先達)は、生前の詩人と親交があったようだった。私はいっしょうけんめいに詩人のことを聞きだそうとしたのだが、彼ら、とくにマスケリーニの口調には、きみたち他国のものにサバの詩などわかるはずがないという、かたくなな思いこみ、ほとんど侮りのような響きがあった。また、他の客たちの口にするサバも、トリエステの名誉としてのサバであり、一方では、彼らの親しい友人としての日常のなかのサバであった。そのどちらもが、私をいらだたせた。私と夫が、貧しい暮しのなかで、宝石かなんぞのように、ページのうえに追い求め、築きあげていったサバの詩は、その夜、マスケリーニのうつくしいリヴィング・ルームには、まったく不在だった。こっちのサバがほんとうのサバだ。寝床に入ってからも、私は自分に向ってそう言いつづけた。

(ここの所、好き! 猛烈に好き!)

あとがきはこのウンベルト・サバの詩《灰》で始まる。
 

死んでしまったものの、失われた痛みの、
ひそかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』を読む

2012年07月06日 | 読書
アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳『インド夜想曲』白水Uブックス99、1993年10月白水社発行、を読んだ。

主人公はインドで失踪した友人シャビエル(ザビエル)を追って、ボンベイ、マドラス、ゴアを巡る。実際にあるスラム街の宿、厚顔無恥なほど豪華なホテル、悲惨で不潔な夜の病院、謎の神智学協会など幻想と瞑想に充ちた世界を描くインドに実在の場所を巡る12の物語。
そして最終到達地、ゴアの高級ホテルで彼が見たものとは?

友人を探していると言ったら、医者はいう。
「インドで失踪する人は、たくさんいます。インドは そのためにあるような国です」・・・床にはまっくろになるほどのゴキブリがいて、・・・僕達の靴の下で、小さな破裂音をたてた。・・・「壁にびっしり卵がついていて、病院そのものをとりこわさない限り、どうにもなりません」


夜中のバス停の待合室で会った美しい目の少年の肩には恐ろしい形をした生き物、兄が乗っていた。兄は預言者で「あなたはマーヤー(この世の仮の姿)にすぎない」など禅問答を繰り広げる。

アントニオ・タブッキ Antonio Tabucchi
1943年イタリア・ピサ生まれ。今年3月68才で死亡。
作家で大学教授(ポルトガル文学研究、詩人フェルナンド・ペソアの紹介者)。
本書は、フランスのメディシス賞外国小説部門賞を受賞
「供述によるとペレイラは・・・・」はイタリアのカンピエッロ賞とスーパー・ヴィアレッジョ賞を同時受賞。

須賀敦子
1929年(昭和4年)兵庫県に生まれ。
1951年に聖心女子大学文学部を卒業。慶応の大学院を中退し、フランス留学。
1958年にイタリア留学し、1961年、コルシア書店の中心者の一人であるペッピーノ・リッカと結婚。
1967年に夫は急逝し、1971年日本に帰国。
大学の非常勤講師をしながらイタリア語の翻訳者。上智大学の助教授、教授となる。
1990年『ミラノ 霧の風景 』を刊行、翌年女流文学賞、講談社エッセイ賞受賞。
コルシア書店の仲間たち』単行本5冊、翻訳6冊を出版。
1998年69歳で死去。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

インドの深い謎の風土の中で、底抜けの貧困、贅を極めたホテルといった環境、そして出会う人々は不可思議。非現実的な出来事が起こるわけではないのに幻影の中で浮遊している感じになり、読んでいる自分の立ち位置が不明になりそうになる。
そのうち、友人探しは謎が深まるばかりで進展せず、『僕』の行く先々での体験、不思議な人々との出会いに比重は傾いていく。

私には原文は読めないのだが、タブッキという稀有な作者と須賀敦子という名代の理解者、文章家の才能の乗算なのだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉玉青『美しき一日の終り』を読む

2012年07月03日 | 読書2
有吉玉青著『美しき一日(いちじつ)の終り』2012年4月講談社発行、を読んだ。

父が家に連れてきた少年、秋雨(しゅうう)は、美妙(びみょう)の7才下の異母弟だった。愛人の子秋雨は、母から物置小屋で寝起きするなどの辛い扱いを受けたが、勉強はでき、自分の立場をわきまえて何ごとにもじれったいほど慎み深かった。姉への思慕を抱いたまま2度の結婚も失敗に終わる。やがて、起業した出版社もたたみ、病いを得る。

姉の美妙は、父の代で危なくなった食品会社も婿養子の夫が立て直し、生涯豊かな生活を送る。弟に対する思いを秘めつつも娘にも恵まれて幸せな家庭を築き、老いても美しい。

互いへの思いを心に秘めて55年。美妙が70歳、秋雨が63歳になった今、取り壊しの決まった生家で会い、ともに暮らした日々を語る。生涯のすべてを一日に込めて。

初出:「小説現代」2010年9月号・・・2011年11月号

有吉玉青(ありよし・たまお)
作家。1963年生まれ。作家、大阪芸術大学文芸学科教授。
早稲田大学卒業後、東京大学大学院在学中の1989年に、母との思い出を描いた『身がわりー母・有吉佐和子との日日』を上梓し、翌年、坪田譲治文学賞受賞。
多くの小説を書き、多彩な趣味も持ち、エッセイも幅広く執筆している。



私の評価としては、★★(二つ星:読めば)(最大は五つ星)

静かで古典的な小説だ。秘めた思いをときどき思い出すのではなく、何十年も引きずるなど考えにくい。純愛には障壁が必要だが、恋愛を妨げる壁は、今や近親か、難病しか無いのか。
お見合いなど晴れの日ごとに季節や思いを託した着物が選ばれ、その描写があるが、貧乏人の男の私には単なる贅沢にすぎないとしか思えない。
女4代の歴史として、日米安保、ベトナム戦争や、当時の風俗が出てくるが、50才足らずの著者には無理ないのだが、いかにも調べ物で、実感が伴ってない。若いころの歴史は哀しみを漂わせて語らねばならないのだが。


登場人物
藤村美妙 主人公、現在70才、足が少々悪い
隆哉 美妙の夫、婿養子、食品会社3代目社長
   幹治 美妙の父、食品会社2代目社長
   歌子 美妙の母、没落した旧家の出
   秋雨 美妙の異母弟、現在63才
沢登京香 美妙の娘
   恵介 京香の夫
   里桜 京香の娘、美妙の孫


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町亞聖『十八歳からの十年介護』を読む

2012年07月01日 | 読書2
町亞聖著『十八歳からの十年介護』2011年10月武田ランダムハウスジャパン発行、を読んだ。

高校3年のとき、40歳の母親がくも膜下出血で倒れる。当時父親は事業がうまくゆかず、酒癖が悪く暴力をふるったりした中で、まだ幼い妹と弟の母親代わりとなり、一方で歩けなくなり、知能レベルも落ちた母の介護を始める。
大学生から憧れのアナウンサーとなり、一見華やかな表舞台の裏で、一家を支えながらの10年にも及ぶ母の介護生活を続ける。
母親47歳のときすでに末期になっていたがんが発見される。「お母さん日記」を付けて、家族4人で情報を共有し、交代で看病、看護する。しかし、町さんが28歳のとき母親は49歳で他界した。
母の介護をきっかけに家族が協力していく過程、そして人生の一番輝く時期に受験、大学生、アナウンサーと介護を両立させたエネルギーと負けじ魂には敬服する。

町 亞聖(まち あせい)
1971年8月生まれ。埼玉県出身。
立教大学を卒業後、1995年、日本テレビ入社。
アナウンサーだけでなく、記者、報道キャスターなども務めた。
2011年6月 フリーへ転身。医療を生涯のテーマに取材を続ける。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

あまりにも頑張り屋で、周囲への感謝も怠らないなど立派で完璧すぎる。弱音や後悔もストレートに書いていて、ま正直な人柄が良く分かる。しかし、私からは遠すぎて、読んでいて少々くたびれる。
しかし、知能レベルは落ちても、あくまで明るく人懐っこい母親、健気に姉を支える妹、弟の様子には温かい気持ちになる。

母が末期がんであることを姉が弟に告げた時、彼は言った。
「人生は長さじゃないよ。深さだよ。できるだけ多くの人に、元気なお母さんの姿を見せてあげようよ」

新しい家を買ったとき、家の中には手すりやスロープをあえて付けなかった。すべての施設が障害者用に作られているわけではないのだから、家の中の少しの段差を克服しようとする気持ちを失って欲しくなかったためだ。
著者は、車椅子の母親を積極的に町や、旅行に連れだした。そして、物理的バリアーより心のバリアーの方が克服するのが難しいと思ったと書いている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする