hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

「ニッポン社会」入門を読んで

2007年01月31日 | 読書

コリン・ジョイスの「「ニッポン社会」入門(英国人記者の抱腹レポート)」NHK出版を読んだ。

14年間日本に暮らす英紙記者が、過剰なまでに礼儀正しく親切な人々、思ったより簡単で奥深い日本語、ガイ ドブックには載っていない名所の数々など普段着の東京を語る。外国人から見て信じられないほど変で、すばらしい日本人。そして長年の日本滞在でもはや慣れ親しんで心地よくなってしまったことに気がつく日本の慣習。

外国人からと、日本人からの両方の見方が理解できる著者のユーモアをまじえた語り口に、つい「そうそう。そうなのか」と読み進めてしまう。著者はイギリスの高級日刊紙デイリー・テレグラフの東京特派員として、本当の日本を伝えようと実情を伝える記事を送っても、ボツになるか、キワモノ記事に書き換えられてしまい、挫折を繰り返す。欧米における日本の位置を反映した状況のもとで、ほんのときどきの満足できる記事の掲載や、日本でのすばらしい人々との出会い、発見に楽しみを見出している。

以下、本の内容から幾つか取り出してみる。(  )は私のコメント

日本人は細かいルールをきちん守る
プールに日本社会を見た。ルールが細かく規定されていて、皆それを守る。泳ぐところ、水遊びするところ、ウォーキングするところがはっきり区別されているt、上級者、初心者のレーンが別になっている。レーンの中を整然と距離を保ちながら列になって泳ぐ。プールから上がって休まねばならない時間があり全員がこれを守る。頭髪のない人も水泳帽を必ずかぶらねばならない。
イギリスではゴチャゴチャで泳いでいるので、何度も急に方向転換しなければならない。ぶつかったらにらまれるし、にらむ。日本で100人泳げるプールでイギリスは60人しか泳げない。80人泳いだら暴動になる。
(狭い国土に多くの人がいるので、たがいに配慮せざるを得ないのが習性になっているのでは)

日本人はマナーが良く、外国人に親切である。
(発展途上国の人に対してはどうなのか)

日本の偉大な発明
「花見」「銭湯」「文庫本、新書本」「ラッピング」「浮世絵」
(電子機器以外にも、庶民の生活の知恵から生まれたものに日本の文化がある)

イギリス人が読みたがる日本の記事
イギリスの新聞の国際面で圧倒的な分量を占めるのはアメリカとヨーロッパの記事で、中東、中国、インド、オーストラリアが続く。日本の本格的分析記事をイギリスに送っても、ボツになるか、キワモノ記事に書き換えられてしまう。東京特派員というポジションはイギリスの新聞社の中で重要なものではない。
(地理的位置や英語圏でないことなどもあるが、日本の国際的位置が圧倒的に低いことが注目されず、理解されない主な原因だろう)

その他
イギリスでは電車の時刻表はフィクションで時間間隔を知るためのものでしかない。
西洋人は相手の目の色、髪の色・性質、鼻の形で識別する。したがって、日本人は皆同じに見えてしまう。




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夫が妻の死亡原因

2007年01月30日 | リタイヤ生活

「老後に夫と同居すると妻の死亡確率は2倍になる」との朝日新聞の記事があった。
asahi.com 2007年1月29日(月)03:03  http://www.asahi.com/life/update/0129/001.html

愛媛県東温市での60~84歳の男女約3100人の調査結果で、75~84歳では、女性は夫がいる方が、いない場合に比べて死亡リスクが2.02倍に高まった。一方、男性は妻がいる場合、いない場合に比べて0.46倍に下がっていた。60~74歳でも同様の傾向が見られたという。
調査した総合保健協会藤本医長は「夫が日常生活の多くを妻に依存している高齢者が多く、肉体的にも精神的にも妻には夫の存在が負担になっている。一方で、妻に先立たれると夫は身の回りのことを助けてくれる存在を失い、逆に死ぬ危険性が高まる。夫が家事などを覚えて自立することが大切だ」と話す。

私が愛読する「志村建世のブログ」 http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=520398 1月29日には、
「妻への最良のプレゼントが夫の早死にでは、身も蓋もありません。・・・・・生活習慣で負担をかけていないかどうか、見直すことにしましょう。・・・・・この記事にも、一つだけいいことがありました。それは、自分の死後にも、妻には豊かで自由な老後がありそうだということです。」
とありました。

たしかに、以前から夫を亡くした妻は長生きするとの話はあって、身近でもそんな例は幾つか散見します。しかし、これは夫が亡くなったあとの話で、夫婦そろっているときに夫が居るために妻の死亡率が2倍になるなんて考えてもいませんでした。しかし、同い年の高齢の女性で、夫が既に居ないでのびのびしている女性に比べ、夫の面倒を見ている女性の死亡率が高いと言われれば、そうかなと思わざるを得ません。

しかし、これは高齢者の話で、まだ高齢者ではない私には関係ありません。いや、確かに一歩手前ではありますが、一応、食事の後片付けはしてますし、ほかの事はこれから徐々にやっていこうと思っていますし、いきなりすべて自分でやってしまうと、連れ合いの気がぬけないかと、それだけが心配ですし。・・・・・分かりました! そもそも四六時中だと私の存在自体が連れあいにはプレッシャーで、なんだかうっとうしいことは理解しています。だから、それを補うためにも何か連れ合いの負担を軽減することを具体的に実行するようにしましょう。一人で散歩でも行くかな? 違う?

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横浜・三渓園へ

2007年01月27日 | その他
昨年12月8日に横浜・三渓園に紅葉狩りに行ったが、1月26日(金)~1月28日(日)園内の重要文化財全10棟を公開し建物内に入れるというので、再び訪れた。



本牧市民公園の先にある上海横浜友好園は2,3分で通り抜けられる小さな公園だが、ちょっと中国を味わえる。



南門前に陶芸教室の登り窯があった。橋を渡って南門から三渓園に入った。



紀州徳川家の別荘を移築したらしい臨春閣が今回の公開の目玉だ。

        
 
狩野派の障壁画が見ものなのだろうが、大部分は色あせてしまって狩野派のあでやかさはない。おまけに、フラッシュ禁止なので写真もひどい。それでも廊下をぐるりと歩くと、欄間、書院作り、縁側からの眺めなど見所が多い。土日を避けて金曜日に行ったのだが、それでもリタイヤーしているであろう年頃の夫婦連れが多く、列をなして動かないといけない混雑だ。

   

臨春閣の中には畳の間のトイレもあった。また、裏手に、千利休が刺客に襲われたとき、身体をかわしたので流れた刀があったという身代わり灯篭があった。



そのほか、普段は入れない内苑の建物(旧天瑞寺寿塔覆堂、月華殿、天授院、聴秋閣、春草廬)や、旧燈明寺三重塔、旧東慶寺仏殿、旧矢箆原家住宅、旧燈明寺本堂も公開されている。普段有料の三渓記念館にも無料で入れる。記念館の入口近くに春の七草の植え込みがあった。

入園料は通常料金 大人500円のところ、期間中のみ大人 300円だ。 
根岸駅からタクシーで本牧市民公園へ行き、上海横浜友好園を通り、南門から入った。帰りは正門からだったが、往復ともタクシー代は1060円だった。
金曜日でも食事どころは30分近く待たされた。土日はかなり混みそうで、弁当持参でベンチで食べた方が良いようだ。

三渓園とは?
生糸貿易により財を成した実業家、原三溪は、東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる17.5万平米に及ぶ広大な土地を造成し、京都や鎌倉などから建造物を移築(重要文化財10棟)しました。1906年(明治39)に、この自宅の扉のない門柱に「遊覧御随意」の札を掲げ一般に開放したので、今年が100周年になります。現在は財団法人三溪園保勝会が運営しています。
 http://www.sankeien.or.jp/index.html
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墓参りへ

2007年01月24日 | その他

我が家のお墓は都内の麻生十番にある。久しぶりに墓参りに行った。



子どもの頃、両親に手を引かれて、お寺の階段(当時は階段だった)を一段一段登りながら、はるかに見えるてっぺんまで、「まだまだある、何てすごい階段なんだろう」と思った。

ずっと歳を経て青年になって久しぶりにこのお寺に来たときには、階段を登りながら、「あんなにすごいと思ったのに。何だ、こんなとくになんてことはない坂だったのか」と思った。

今日少しだけ年老いて、この坂がまた長くきついものになって来た。年取って子供がえりしたということなのだろうか。

それにしても、にぎやかな麻布十番の商店街をぬけて、まわりを見下ろす、ちょっとした山の上のお寺に登ると、そこは木々が茂る別天地だった。木々に囲まれた一角に佐賀の殿様、鍋島家の大きな墓が並ぶ荘厳な場所があり、こどもの時こわごわのぞきに行ったものだった。もう十年以上前になるだろうか、そのあたりも斬新な新しいお墓に変わってしまった。



今やお寺の本堂の向こう側に上部が膨らんだ元麻布ヒルズが迫り、景観が台無しと住職さんが嘆いていた。これだけ高く、すぐ傍だと、多少大きな木があっても隠すのは無理だ。



墓地からも六本木ヒルズのビル群が目の前にあって、荘厳だった雰囲気を壊している。

東京はどの地域も新しい建物になって、古い建物は、神社とお寺しか残らないように思える。新しいものと古いものが調和する道はないのだろうか。


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マーラーの第2番「復活」を聴く

2007年01月22日 | その他

サントリーホールでマーラーの第2番「復活」を聴いた。マーラーと言えば壮大で長い交響曲のイメージがあり、あまり好みではないが、昨年末にハレルヤの合唱で有名なヘンデルのメサイヤを聴き(12月18日のブログ)、今回の「復活」と合わせ、声楽のある交響曲も良いものと思った。

NTTフィルハーモニー管弦楽団というアマ楽団の演奏であるが、楽器をひけない私には細かいところはわからないが、だんだん上手になり、セミプロ楽団としか思えない。考えていた以上に劇的で派手な第2番「復活」だった。

サントリーホールは、在京プロ・オーケストラのほとんどがここで定期演奏会を行っている音響の良さに定評のあるクラシック音楽のコンサート専用ホールである。客席が舞台を囲むように後ろにも客席があり、定員は約2千名で、世界最大級のパイプオルガンがある。

マーラーは、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレらと共に、世紀末ウィーンを代表する芸術家で、生前は作曲家としてよりも、指揮者として有名だったようである。

舞台の後ろの客席には、約160人の合唱団が座った。楽団も100名くらいいたのではないだろうか。例えば、いつもせいぜい2人のホルンも10名くらいいた。

まず、第1楽章の出だしでの弦楽器が劇的で、バロックになれた耳には不気味でもあった。
「第1楽章の後に「少なくとも5分間以上の休みを置くこと」というマーラーの指示があるが、ほとんどその通りに実行されることはほとんどない」とパンフレットにあった。今日も、指揮者は汗を拭いて、音合わせして、2,3分してもう第2楽章に入った。
第2楽章は、聴きなれたような美しい旋律で静かに終わった。第3楽章では何度か打楽器など全楽器がフォルティッシモ?で爆発した。
4楽章では短いがアルト独唱があり、5楽章では、金管楽器がオーケストラから離れ、ステージ裏で演奏する「バンダ」が行われた。舞台裏から聞こえるホルンと舞台上のフルートの掛け合い、そして合唱団のアカペラ、ソプラノやアルトの独唱、パイプオルガンも加わり、規模が大きくそれは華やかだった。

それにしても、往年のシュワルツコッフの上品な姿、艶やかな声には及ばないが、ソプラノの松尾香世子さんは美しい人だった。


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ネルルと遊ぶ

2007年01月19日 | インポート
女房が、離れて暮らす母親に、その日の気分でお話してくれるお人形「ネルル」をプレゼントした。義母は、義父が亡くなり、義妹夫婦と暮らしているのだが、孫達も巣立ったので、気まぐれにはなるだろうと考えたのだ。癒し系のロボット人形との新聞記事を見て、ネットで調べ、デパートでようやく見つけて購入した。



ネルルは、設定した就寝、起床時間に合わせて寝起きするのだが、突然、眠っているときに見た夢の話しをしたり、歌ったり、寝言を言ったりしてびっくりさせる。出かけるときに手を握ると、「いってらっしゃーい。わたしちゃんとお留守番してるから大丈夫よ」と言うし、胸をトントンと叩くと、目がウトウトし、「おやすみなさぁい」と言って昼寝をする。頭をなぜたり、高い高いで「キャー」と言って喜ぶことがあったりして、けっこう本物の赤ちゃんぽい。

言葉の数:1400語以上、歌う歌:童謡、オリジナルソング、センサーの数:6(マイク・タッチ・抱っこ・おやすみ) だそうである。( (株)タカラトミーによる)

「ネルル」は約一年義母のところに居て電池切れを機会に我が家に一時帰宅した。今は息子や私が十分相手してくれないと、女房殿がいろいろネルルに話しかけたり、ナデナデしている。なんだかちょっと空しいが、子供の巣立った50-70代の人達に良く売れているそうだ。ただし、気味わるがられるだろうから、外へ持出すのだけは止めて欲しい。

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槍とやもり

2007年01月17日 | 昔の話

私は子どもの頃、講談でやっているようなチャンバラ物のお話を読むことが好きだった。今は講談というと大衆伝統芸能といったところでめったにTVでもやらないが、当時は一般の人の生活に密着していて、ラジオからもよく聞こえていた。子供向けの雑誌にも、宮本武蔵、塚原卜伝、佐々木小次郎、荒木又右衛門などの剣豪や、猿飛佐助、霧隠才蔵、鞍馬天狗が登場する胸躍らせる話しが多くあり、物差しを持って一人チャンバラで切りまくったものだった。

槍の武術者の話を読んで、さっそく庭へ出て、3mもあろうかという先に細くなった竹棒をまっすぐ付きだす練習をして遊んでいた。空間の一点にねらいを定めて一気に竹棒を突き出す。このとき先端が振れず、構えた方向にまっすぐ一直線に伸ばしていく。膝を柔らかくして腰から突き出すような気持ちで左足を大きく踏み出して腕を伸ばす。最後の腕が伸びきる寸前で手首を使って先端を少し抑え気味にして目標にピッタと決まるようにする。繰返すうちにスピードが増し、型が決まるようになる。前に2回突き出し、瞬時に振り返って後ろの敵を刺す。噴出す汗もその場ですぐ蒸発するような乾き切った激しい暑さの中、一心に修験者の気持ちで頭を空にして修行に励んだ。

さすがにくたびれて、ふと見ると木の幹にヤモリが取りついている。昭和30年代の東京にはまだヤモリがいたのだ。よしとばかり、距離をはかり竹棒を「エイ」と突き出した。狙いすましたわけでもないに、訓練にたまものであろう、見事、ヤモリの心臓のあたりを貫きとおした。竹棒の先端にぶら下がったヤモリを見て、「ウヒャ」とばかり、竹棒を放り出して飛び上がりながら逃げ出した。

また、庭にはスズメがよく来た。年上の従兄弟が廊下から石を投げた。驚いたことに、石はすずめにたまたま当たってしまった。動けなくなったすずめを玄関に運び飼うことにした。米粒を与えたりしたが、まったく食べず、2日ほどで死んでしまった。固くなってしまったすずめを手のひらに乗せて、剥製のようだと思った。生と死について考えることもなかったと思う。

志賀直哉の「城之崎にて」に、療養先で投げた石が「いもり」だったか生き物に当たってしまって、生と死について考える話があったが、同じようなことが起こっても私はこの駄文を書くのみである。


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絵を見るのが好き

2007年01月15日 | 美術
私は絵を見るのが好きである。お気に入りは印象派の先駆けとも言われるマネで、特に後期のおおざっぱなタッチの絵にはひきつけられる。太い筆で軽く絵の具を置いただけなのにちょっと目を離してみると見事に遠くに人がいるように見えたり、反射する透明なガラス瓶に見えたりする。
シスレーの明るい風景画も癒されるし、ゴッホの情熱的なタッチもその人生を思い、ゆすぶられる。要するに平均的日本人の好みである。

玄関には印刷物だが平山郁夫や山本岳人を、階段にはバリで買ったにぎやかな油絵と小さな花の絵を飾ってある。寝室には2枚の浮世絵、岩崎ちひろがある。日本間、台所には母の書いた水墨画が3枚額に入っている。2つのトイレには、カレンダーから切り取った7点のゴッホ、屏風絵などの写真6枚をベタベタと貼り付けてある。
居間にも幾つかの絵を並べている。ほとんどが印刷物だが、壁にかかっているのも、カレンダーから切り取ったものなど14枚ある。その他、カード状のもの12枚を気が向いたときに入れ替えている。

こう書いてみると、42枚の絵にはまったく脈絡がない。奥様の好みがほとんどで、母の絵少々と、ほんの少しだけオトンの私の好みの絵をトイレに貼らせていただいている。
それでも押入れにはマネなど私の好みの画集があり、会社でストレスを受けた日は寝る前に取り出してパラパラながめ、心静かになってからベッドに入ったものだった(イジマシイ)。

長年同じところに飾ってある絵は見慣れてしまって、普段はその存在さえ意識しなくなる。今回あらためてゆっくり眺めてみると、「ああ、ここにこの絵があったんだ」と思う。

結婚して間もない頃、店の壁にかかっているこの絵、銅版画を見て、女房が「これ、いいわね」とじっと見ていた。安月給でぎりぎりの生活をしている身には厳しい価格だったが、あとから店に行って思い切って購入した絵だ。「まさか買ってくるとは思わなかったわ」と言って、ちょっとしんみりしていたのを思い出す。色は淡色だがミシャの絵のようにあでやかで細かく書き込んである。しかし、居間にあるこの絵ももはや普段は全く意識しなくなってしまった。

最近手に入れたカード状の小さな絵にはときどき目が行く。少し大きいカレンダー大の絵は空を描いた癒される絵で、絵柄は単純だがこれにも目が行く。
どうも大きく絵柄の複雑な絵でも長い間見ていると意識から外れてしまうようだ。むしろ、カード大の小さな絵や、少し大きくても単純な絵柄の方が比較的長い間見ていても意識されるような気がする。

屁理屈で考えると、以下のようになる。
人間の目、脳は、集中していないときには、瞬時に処理できる情報量に限界があり、無意識にちょっと見たときには小さな絵か、単純な絵柄の絵しか目に入らないのではないだろうか。
だとすると、細密な描写よりもマネの荒いタッチの描写法は目をひきつけるすばらしい方法ということになる。もっとも、荒いタッチで、そのように見せるには手練の技が必要ではあるが。
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母とはぐれる

2007年01月12日 | 昔の話

母親をホームにおいて小さな男の子が一人だけ電車に乗ってしまったという新聞投稿を読んでいて、そのままじっと静止し、心はいつのまにか遠い昔の情景の中にいた。そういえば、あのとき・・・・・。
それにしても、あれだけ後ろを見ることが嫌いで割り切っていたつもりの私が、今は何かにつけて昔のことを思い出す。「若者は夢に、年寄りは思い出に生きる」と言うことなのか。


おそらく小学校には入っていなかった頃だろう。母親の手をしっかり握っていたはずなのに、母だけ電車に乗ったところでドアが閉まってしまい、私はホームに残されたことがあった。ドアのガラスの向こうで母が必死に何か言っている。私はただ呆然として突っ立っている。電車はそのまま動き出し、私はホームに残される。

何回か母と一緒に来たことのある駅で、自宅の最寄り駅も次の次だ。迷子、尋ね人という言葉を振り払い、心配ないと自分に言い聞かせ、心細さを打ち消そうとする。しかし、母がそばに居ないことがあり得ないことで、何か現実に起こった出来事ではなく夢の中にいるような気がする。

すぐに次の電車が来た。しかし、この電車は急行だった。次の駅には各駅しか止まらない。次の次の最寄り駅は急行も止まる。乗るか、乗らぬか、迷い、混乱する。
母が乗ったのは各駅停車なので、次の駅で母が待っていれば、急行に乗ってはまずい。しかし、最寄り駅まで母が行っていれば、この急行に乗るべきだ。ベルがせきたてるように鳴り、いつもよりずっと大きな音のような気がする。心配している母の顔が浮かび、迷っているうちにドアが閉まり、電車は出て行った。

次に来た各駅停車にあわてて乗った。電車のドアにくっついて背伸びしながら外を見た。「母はきっとすぐとなりの駅で待っているだろう」そう思えてきた。 次のわびしい急行待合せ駅に電車が入っていったとき、一人着物を着た人がホームにいるのが一瞬見えた。ホームに降りた。変な顔をして母が駆け寄って来た。
「急行に乗ったのかと思って心配したわよ! ごめんね。よく一台待ったわね」
手をぎゅっと握って私を引き寄せた。母の顔がまぶしく、腰の辺りに顔を押し付けた。じわっと台所の匂いがした。

その母ももういない。遠い、遠い昔の話である。


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靴磨き

2007年01月11日 | 昔の話

久しぶりに靴磨きをした。玄関にある私の靴と女房の靴を磨いた。女房に言わせれば、10年ぶりだそうだ。合計10足くらいまとめて汚れを払い、クリーナーを付けて布で磨いた。さらにクリームで艶出しをと思ったが、茶色、黒、中間色などあり面倒くさくなり途中で止めた。どうも、クリーナーも皮に合わせていろいろな種類を使い分けないといけないらしい。

そういえば子どもの頃、よく父親の靴磨きをさせられた。あの頃はただ靴クリームを靴のいろいろなところにポチポチと塗りつけ、布で延ばして、磨いた。ときどき息を吐きかけてゴシゴシこすった。
当時は繁華街にはまだそこそこに靴磨きの人がいた。道路端の足置き台にのせたお客さんの靴を磨き上げるやり方を見て真似をした。靴に足を入れて、足が小さいので靴が左右にガタガタ揺れないように足先に力をこめて押さえつける。そして、最後の仕上げとばかりに、布の両端を持って、靴先を左右にこすり磨きあげる。曇りがとれ、キラキラ光る靴先を見て子供心にもなんだか嬉しくなったものだ。
そういえば、わが子にはこのようなお手伝いをほとんどさせていない。「勉強しなさい」とも言っていないのだが、なぜだろう。今日は、息子の靴まで磨かなくて良かった。

ネットで靴磨きの仕方を調べて、クリーナー、クリーム、防水スプレー、サドルソープ、ミンクオイルなどいろいろな材料を靴の素材や状況に合わせて使うことを知った。
靴磨きの目的も、靴の皮を良い状態に保つためのメンテに主目的がある場合と、ピカピカに光らせることを主目的にする場合とではやり方が少し異なるようだ。

なお、当然ご存知と思うが、2足以上の靴を交互に履いた方が長持ちする。また週に1回はクリーナーで汚れや古いクリームを落とすことが望ましいのだが・・・・・。せめて、防水スプレーを用意しておいて、雨の日の朝にでも使うようにしたい。


靴クリームにも多くの種類がある。
――――――――――――――――――――――――――――――――
乳化性:乳化性クリームはワックス、油、水の3成分を乳化剤で混合乳化したもので、ペ一スト状か液状で、ビンまたはチューブに入っている。普段の手入れに最適なクリームだ。

油性:ワックスと油の2成分から成り、半固形で、缶に入っている。水が入っていないので防水性の点で優れている。ここ一番ピカピカにしたいときにはツヤ、防水性が高い油性クリームを使うが、油性ばかりを使っていると皮がひび割れする。

エアゾール:霧状の油性タイプ、泡沫状の乳化タイプの2種類があり、缶に入っている。

クリーナー(汚れ落とし):チューブ入り、乳液状、エアゾール、固形などのタイプがあり、種類には油性、乳化性(中性、アルカリ性)があり、ワックス併用もある。革にあったクリーナーを選ぶことが必要で、起毛革製品(スエード、べロア調)などには、専用のクリーナーを使う必要がある。
直接靴に塗ると変色などの心配があるので、布に取ってから使う。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――


正式(?)な磨き方は以下の通りだ。私は、とてもこんな風にはできないが。
―――――――――――――――――――――――――
靴に付いているゴミやほこりはやさしく落とす。コバ(底の縁の部分)の汚れもブラシを使って落とす。
クリーナーで靴に付いている古いクリームやワックスを落とす。
艶を出すというよりも皮を保護するために、乳化性クリームをやわらかいブラシで全体に伸ばす。
つま先と、かかとの部分に油性クリーム(ワックス)を塗る。柔らかい布を指に巻き、ワックスを塗って水を1滴つけて伸ばし、この作業を20回くらい行う。最初はワックスを多めで水を少なめにし、だんだんワックスを少なめで水を多めにしていく。

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ビッグイシュー日本版を知っていますか

2007年01月10日 | 世の動向
ビッグイシューはホームレスの人しか売り手になれない雑誌です。ビッグイシューの使命はホームレスの人たちの救済ではなく彼らの仕事をつくることです。THE BIG ISSUEは英国で大成功し世界(28の国、55の都市・地域)に広がっています。

ホームレスというと怠け者と思いがちですが、例えば大阪の野宿生活者の約8割は働いており、過半数の人は仕事をして自立したいと思っているそうです。単なる寄付による金銭的援助はその場限りになりがちですが、彼らが働くことで収入を得る機会を提供し、自立を支援する方法は次につながり発展性のある方法だと思います。

最初、一冊定価200円の雑誌を10冊無料で受け取り、この売り上げ2,000円を元手に、以後は定価の45%(90円)で仕入れた雑誌を販売、55%(110円)を販売者の収入とします。

発売日は毎月1日と15日ですが、夏と冬は月1回の発行です。1月の1日&15日合併号は300円となりますが、二コール・キッドマンのスペシャルインタビューなどあります。

販売場所は大阪が一番多いのですが、東京でも、山手線、中央線・総武線の駅など、また、横浜は、相鉄横浜駅、JR川崎駅などにあります。見かけたらともかく一度購入してみてください。

http://www.bigissue.jp/ の情報をもとにしました。


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新しいことを思いつくには

2007年01月08日 | 会社生活

思いがけないときに新しいアイデアを思いつくことがある。フランスの数学者ポアンカレが旅先で乗合馬車に乗ろうとしてステップに足をかけた瞬間に重要なヒントがひらめいた。その後、兵役などで解法を進めることができなかったが、大通りを横切るときにさらに進展させるアイデアが生まれ、難問を解決したという。

ポアンカレとは比べるべくもないが、かくゆう私も、大昔に工学の研究をしていて、現象を解明するために作り上げた方程式の解き方が、考えても、考えてもわからず、何ヶ月もかけた仕事が一歩も進まなくなった。あれもこれもと試みてもどれも行き詰まってしまう。一週間ほどそんな状態のままで苦しんでいたある日、机の上の数式と天井を眺めるのにあきて、トイレに行った。小さいほうを終えなんだか身体の力がぬけた瞬間、アイデアがひらめいた。なんのことはない、もう一度微分すればよいのだ。急いで席に戻り、一気に解が求められる形に変形できた。私の場合は、新規性といってもたいしたものでなく、優秀な人ならあっという間に解ける課題であっただろう。こういった例は多くの人が経験しているのではないだろうか。

このように、大なり小なり難問にぶつかった時の長い停滞のあとのふとした瞬間にアイデアが浮かぶことがある。ポアンカレは「突如として啓示を受けることがある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示していることだ」といっている。
どうしてこんなことが起こるかと言うと、苦しんで、突き詰めて考えて、脳に大きな負荷をかけ続けていると、考えるのを中断して何かリラックスした瞬間に、負荷を受けていた脳の二つの神経回路がつながり、今までにない新しい考えが生まれるのではないだろうか。
偶然ではない。考えて、考えて、考え抜いているから、何かの拍子にアイデアが出てくるのだろう。
また、どこでアイデアが浮かんでくるかわからないので、ベッド、トイレ、居間などどこにでもメモを置いておき、すぐ書けるようにしておく必要がある。

平凡な結論であるが、いろいろな角度から難問にアプローチして、徹底的にそれぞれの道を追及し、突き詰めていくと、突然ブレークスルーが起こり、道が開け、問題解決に至ることがある。もちろんそれでも解決しないこともあるが、少なくとも難問であればあるほど、そうしない限り、解決策は得られないのだろう。


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空師

2007年01月07日 | 雑学
空師(そらし)という仕事を私はまったく知らなかった。2007年1月5日のNHKにんげんドキュメントを見て始めて知った。寺社や屋敷林などの巨木や狭い敷地内にある木を切ったり、枝を払う職人が空師だ。
病院建て替えの邪魔になった巨木や、落ち葉が迷惑になるなど周りをビルに囲まれ取り残されたケヤキなど人の生活の都合で伐採されることが多い。

空師はチェーンソーを持って数十メートルの木に登り、枝や幹をクレーンからのロープで吊りながら切っていく。高い木のすぐ近くに家やお墓が建っていたり、電線が枝の間を走っているような場所で、伐った枝を目的のところへ降ろし、木の幹を安全な場所に倒す。
もしクレーンからのロープがうまくかかっていなければ、木が落下し、逆にクレーンがロープを引っ張りすぎていた場合、切ったとたんに木が跳ね上がってしまう。

空師は木の所有者から木を丸ごと買い取り、切り出して売ることで利益を出している。切り方ひとつで原木としての価値は大きく変わってしまう。また、高所での作業なので熟練の技を要する。空師は、高齢化し、年々減ってきている。

熊倉さんは、数少ない空師の中でもとりわけ若く、腕も良い。職人に憧れ、中学を出てすぐに親方に弟子入りした。

街中などでは、木の枝を切っていると、通行人から「木を切るな」と言われたり、白い目で見られることが結構多いという。
木には切り倒し時がある。すぐそばが道路になり大きな根を切られて、木の周囲10cmほどを残し中は全部空洞になってしまい、ようやっと立っているような木はもっと早く切ってやり、材木として役に立つ第二の人生を送れるようにすべきだという。
木を切る時は、落ちた木が住宅に傷をつけないように工夫するし、同時に枝や幹を材木としてもっとも良く利用できるように切る。枝は幹に近いところなら安全に切れる。しかし、切り口から腐食が起こり幹に達すると木は枯れる。そこでなるべく幹から遠いところで枝を切る。

空師の仕事は命がけだ。
「今もこわいですよ。恐くないときが逆に危ないですね。ヒヤッとすることはしょっちゅうですね」
「住宅地にある木は100年を越える木でも、自然に生えた木はほとんどなくて、遠い将来役立つとして昔の人が植えた木なんです」

熟練の技を持ち、危険に飛び込み、大切な木の植物としての命を絶ち、材木としての第二の人生をより良い状態で出発させる、それが空師だ。


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純白のドレス

2007年01月06日 | その他


もう数年前、横浜の子ども自然公園に行ったときのことである。小山を降りていくと開けた広場があり、芝生の上にシートを敷いて幾組かの家族がお弁当を広げて談笑していた。広場を少し降りたところに小川があり、2,3人の子どもが遊んでいた。ザリガニでも探しているのであろうか、ズボンのすそをまくって、かがみ込んで棒で岸辺を突いている。きれいな小川なのだが、そのあたりだけ水はもったりとしていて、どろどろだった。

ふと見ると、純白のきれいなドレスを着た女の子が混じっている。4歳ぐらいであろうか。結婚式で花嫁のドレスのすそを持っている、あんな美しい白いドレスである。しかし、なんと、胸の辺りまで泥が跳ねていて、すそは泥水の中にある。純白と泥色のコントラストが生生しい。

そのとき、駆け寄ってきた母親の悲鳴が聞こえた。「あなた!何しているの!」
女の子がギョットして母親を見上げ、その視線をたどって、両手を広げて自分のドレスを眺める。そして、初めて自分でも事態を把握し、両手を広げた姿勢のまま、凍り付いた目が母親に釘付けとなる。
そのおびえた目を見て、母親も周囲を気にして、「もうー!代えの洋服だって持ってきてないのよ。どーするの!」と少しだけ抑えた声で嘆く。

傍らの妻が「泥ってなかなか完全には落ちないのよね」とつぶやく。私にも母親の嘆きももちろんわかるが、ついつい泥遊びしてしまった子どもの気持ちもわかる。

女の子だって、おそらく最初は小川で遊ぶ男の子達を見ていて、今日はよそゆきだから岸辺で見ているだけにしようと思ったのであろう。しかし、楽しそうに声を立てて遊ぶ子ども達に誘われ、すそを持ち上げて少しだけ水に入り、そしていつの間にか、・・・・・。

いまだに目に焼きついた、あのあまりに鮮やかな純白のドレスと一面に跳ね上がった泥。
あの子は今? そして、あのドレスは一体どうなったのだろうか?


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新人をどの組織に配属するか

2007年01月05日 | 会社生活

たいていの組織(事業分野)では人が足りない。人はいくらでも欲しい。給料が高くない新人は欲しがる組織が多い。新人が一人でも多く配属されると、その組織は何か重要視されているようで勢いがつく。
しからば、どんな基準で新人を配属するか。たいていは、現在、利益に貢献していて、忙しい組織の主張が強力で、より多くの新人が配属されるのではないだろうか?しかし、それは一般的には間違いである。

なぜなら、新人は即戦力ではなく、とくに研究、開発や熟練の技が必要とされる職場では1,2年は直接役に立たず、むしろ足手まといになるだけである。しかも、忙しい職場では十分な育成もできず、単純労働に使ってしまう。
その上、現在儲かっていて忙しい組織は、よくある話では、数年後にはその勢いがなくなり、下手すれば人が余る場合さえある。そしてそのころ、かっての新人がようやくその組織で、衰退した分野のスキルを身につけ一人前になるのである。

数年後に隆盛となる組織を予測するのは至難の技である。一般的には組織(技術グループ)は隆盛から数年で衰退へ向かい、新しい事業分野を開拓しようとする。転換できなかったり、失敗すれば解散するが、生き返れば再び隆盛へ向かう。事業分野、技術分野によりその周期は異なるが、現在ではおおざっぱに言って数年ではないだろうか。
だとすれば、乱暴な話、新人は今衰退している組織に配属すべきである。育成の人手も十分あり、新しい事業分野を0から立ち上げるという貴重な経験を新人に味合わせることができる。何をやるべきかを探すという仕事の一部を新人にやらせ、現在企業にもっとも必要とされるスキルを磨かせることができるはずである。

以上は逆説的でリスクのある話であり、100%の実現は難しいであろうが、少なくとも一意的な考え方での配属は避けるべきである。長期的展望が必要とされる新人配属のような話はポートフォリオ的に多様な考え方をとってリスク分散する対応をすべきであろう。


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