ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

2024-06-29 08:18:12 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

 江戸時代の初めのころ、寺田池の水源一帯に新田が誕生し、多くの池が造られました。寺田池に十分な水が集まらなくなりました。

 そのため、新しい水源が求められたのです。それが、曇川の上流から水を引くという計画でした。

 しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。

 曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。

 この小高い丘を水は越えなければなりません。

 そのために、曇川の上流の比較的高いところに堰をし、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。

 高堀の跡が残っていますので、見学ください。当時のお百姓さんの息が伝わってきそうです。

 万治元年(1656)、曇川の支流に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまりました。

 寛文3年(1663)、水は向山(播磨町)の高台を越えました。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られました。

 そのため、一滴の水も無駄にできません。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用されました。

           寺田用水高畑分水 

 この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生しました。それに伴い、以前にもまして、水が必要になり、池が新たに造られました。

 しかし、雨水に頼っているだけでは不十分なため、寺田用水の手前から高畑村への分水(用水)が計画され、寛文2年(1672)完成しました。

 分水は、平岡中学の東の上池・下池からバイパスの南の源太池(日本ハムは源太池の3分の2を埋めたてている)に流れました。

 源太池からさらに西谷の八幡神社の東横の溝を流れ、二俣の大池へ流れ込んだのです。

 大池は付近の印南台地に降った雨を集めるだけではなく、はるか曇川からの水も利用していました。

 寺田用水及び、(寺田用水)高畑分水づくりには、百姓衆の汗と苦難の物語があったはずです。

 記録が無く何も語っていません。

 現在、寺田池の水はすべて地下水にたよっています。寺田用水も役目を終えました。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平岡町をゆく(8) 寺田用... | トップ | 平岡町をゆく(10) 新井... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

加古川市の歴史・平岡町編」カテゴリの最新記事