志方町をゆく(35) 三島由紀夫と志方(3)
祖父・定太郎、父・梓、そして(三島)由紀夫
定太郎(じょうたろう)は、文久三年(1863)、志方町に生まれ、苦学のすえ東京帝大(現:東大)卒業し、原敬の傘下で活躍しました。
原敬は、政党政治と官僚機構を一つにした仕組みを目指しました。
原敬がつくり上げた政党政治と官僚機構が結びついた仕組みは、その後の日本政治の原型となりました。
大規模な人事改造がおこなわれ、その中で、定太郎は福島県知事に抜擢されました。この時、定太郎43才でした。
その後、明治41年、定太郎(45)は、樺太庁長官として赴任します。
そこで、疑獄事件に巻き込まれることになります。
樺太の地に製紙会社を誘致し、樺太や製紙会社に有益な結果をもたらしましたが、定太郎は政争の渦に巻き込まれ、 政友会総裁原敬の判断により長官を辞任します。
以後オモテ社会から身をひきました。 その後、満州でのアヘン取引を通じて、総理大臣・原の政治資金を捻出するためにウラ社会でも奮闘したようです。
三島由紀夫は、小説『仮面の告白』で、「祖父が植民地(樺太のこと)に起こった疑獄事件で、部下の罪を引き受けて職を退いてから私の家は、殆ど鼻歌まじりといいたいほどの気楽な速度で、傾斜の上をすベりだした・・・」と書いています。
彼の父・梓(あずさ)も東大出身で農林省に勤めましたが、由紀夫は「凡庸な官吏であった」と述べています。
梓の長男が平岡公威(きみたけ)、つまり三島由紀夫です。
*『ペルソナ(猪瀬直樹著)』(文系春秋)参照
*写真:父・梓と母(倭文重:しずえ)、大正9年撮影
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