ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(84) 手末構居

2022-05-04 08:16:03 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(84) 手末構居

 復習です。

 鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があり、その外にも、比較的小規模な多くの城がありました。

 城について、『加古川市史(第二巻)』の説明をお借りします。

 「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、(はっきりした定義はなく)その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび、構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない・・・」

 これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられました。

     手末村

 江戸時代、今の神野地区に手末村・二塚村・西之山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村の8ヵ村があり、その内、明治9年に手末(てずえ)村と二塚村が合併して神野村になりました。

 戦国時代、手末村を支配したと思われる豪族の手末構居がありました。おそらく、手末城の主も三木合戦に参戦したのでしょう。詳細は分かりません。

 場所は、神野小学校から県道八幡・別府線をやや西条へ行ったところ(写真)です。

  

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