神野町をゆく(84) 手末構居
復習です。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があり、その外にも、比較的小規模な多くの城がありました。
城について、『加古川市史(第二巻)』の説明をお借りします。
「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、(はっきりした定義はなく)その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび、構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない・・・」
これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられました。
手末村
江戸時代、今の神野地区に手末村・二塚村・西之山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村の8ヵ村があり、その内、明治9年に手末(てずえ)村と二塚村が合併して神野村になりました。
戦国時代、手末村を支配したと思われる豪族の手末構居がありました。おそらく、手末城の主も三木合戦に参戦したのでしょう。詳細は分かりません。
場所は、神野小学校から県道八幡・別府線をやや西条へ行ったところ(写真)です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます