神野町をゆく(80) 福沢村:傾斜地に広がる集落
・・・(福沢は)神野村の南端にあり、大正年代まで戸数わずか30戸程度の小村で藁屋根が多く、各家は真竹の藪で囲まれ、冬は寒い風を防ぎ、夏は暑さを凌ぐ、いかにも素朴な農村でした。
・・・明治9年に地方区画制に伴い合併して石守村になりました。
福沢は高燥地帯で、水利が悪く、昔から稲作はわずかで、ほとんど畑作にたよる貧村で特記するものがない・・・
『福沢三百年誌』で著者・竹中佳次氏は、その序で以上のように述べておられます。
福留の交差点から福沢を通り曇川に向かって歩くと、福沢は傾斜地に広がる地区であることがわかります。
曇川の両側の地形は高くなっており、曇川は谷の底を流れています。
曇川に沿った場所は、水田となりますが、あまり広くはありません。
曇川から少しはなれた高い場所に村落・水田をつくりたいのですが、今度は水がありません。
高いところには水は流れてくれません。そのため地形の高くなっている曇川の上流から水路を引く必要がありました。
「用水」です。曇川には、幾筋もの用水がつくられました。
「青之井用水」もその一つで、寛文4年(1664)中一色(現:稲美町)より引水して、石守地区の田畑を灌漑しています。
青之井用水は、福沢の皿池へ流れ込み貯水されました。
「青之井用水」につては「神野町をゆく(35)」をご覧ください。
しかし、水はそれでも充分ではありません。福沢集落のお百姓さんたちは、水との闘の歴史でした。
なお、『福沢三百年誌』に明治30年の福沢村の絵図があります。福沢村の位置・福沢の34軒の家並から村のようすを想像ください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます