神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな
芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出しました。
松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられています。
青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放されました。
身持ち不慎の理由は、賭博とも言われています。
その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどりましたが、姫路には入れてもらえませんでした。
そのため、加古川(寺家町)の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えました。
これが、栗本庵(幽松庵)です。
明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺の元へ参禅し、剃髪しました。
*善証寺・・・寛永四年(1627)創設
その日は、芭蕉忌でした。
「青蘿(せいら)」は、その時、和尚から授けられた俳号です。
けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな
これは、この時の句です。
福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真)があります。
句碑は、昭和57年8月建立されました。
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