ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

2022-04-27 09:32:05 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出しました。

 松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられています。

 青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放されました。

 身持ち不慎の理由は、賭博とも言われています。

 その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどりましたが、姫路には入れてもらえませんでした。

 そのため、加古川(寺家町)の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えました。

 これが、栗本庵(幽松庵)です。

 明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺の元へ参禅し、剃髪しました。

 *善証寺・・・寛永四年(1627)創設

 その日は、芭蕉忌でした。

 「青蘿(せいら)」は、その時、和尚から授けられた俳号です。

    けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 これは、この時の句です。

 福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真)があります。

 句碑は、昭和578月建立されました。

 

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