きまぐれ日記

高知県室戸市の地域情報と写真などの趣味の話。時々エッセイ風に。

雄藩とは

2008年08月18日 14時00分29秒 | 我思う

『竜馬がゆく』はやっと、4冊目を読み終えようとしています。ほんとに長い物語です。

幕末の、土佐藩関係以外の他の藩士の人物も登場してくるので、その人物がどういう人物なのか、ある程度の知識がないと理解しにくいのですが、土佐藩士に関しては、なるほど、そういう人物だったのかと思いながら読んでいます。

しかし、これらの登場人物のキャラクターは、作者の目を通した人物のキャラクターですから、実際にどういう人物だったのかは分かりません。 

幕末の雄藩といえば、薩摩、長州、土佐ということになっていますが、ふと疑問に思います。

薩摩、長州、土佐にしても、現在でさえ、地方の都市であって、有力な県のようには思われません。中央政府からは距離的にも離れているのに、なぜ、雄藩と言われていたのでしょうか。

高知県は、そのほとんどが、森林で、ほぼ、県の面積の90パーセントが森林で覆われています。平野部が少ないということは、米を栽培する面積は少なかったはずです。

土佐藩の石高は24万石と言われていますが、実際はもう少し少なかったようです。では、24万石というのは、全国では石高ランキングではどのあたりにあったのかというと、けっこう上位にあったようです。

土佐藩は、新田の開発にも力を入れていて、廃藩置県が施行された頃には40万石は超えていたとも言われています。

石高が高いことは、藩の財政のバロメーターにはなりますが、石高だけでは、雄藩とはなりません。

米以外に土佐藩に豊富にあったのは、木材です。

木材からは、『土佐和紙』も作られ、木材を伐採し、新田を開発するために、『土佐刃物』が発展してきました。

木材は、主に、大阪方面に持ち込まれました。土佐の木材とか、薪は質がよかったので、ほとんど、関西方面での市場を独占していたようです。

もちろん、土佐は海からの産物もあったわけで、『鰹節』も大阪を中心として売られていました。

大正から昭和初期にかけては、木炭(土佐備長炭)が関西方面に出荷されて、そのおかげで吉良川の町は栄えて、『吉良川の町並み』の中にはいくつも白壁の蔵が建っているというわけです。

土佐藩は、豊富にあった、森林資源で潤ったというわけです。



 人気ブログランキングに参加しています。このブログを気に入ったらクリック御願いします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。