『竜馬がゆく』はやっと、4冊目を読み終えようとしています。ほんとに長い物語です。
幕末の、土佐藩関係以外の他の藩士の人物も登場してくるので、その人物がどういう人物なのか、ある程度の知識がないと理解しにくいのですが、土佐藩士に関しては、なるほど、そういう人物だったのかと思いながら読んでいます。
しかし、これらの登場人物のキャラクターは、作者の目を通した人物のキャラクターですから、実際にどういう人物だったのかは分かりません。
幕末の雄藩といえば、薩摩、長州、土佐ということになっていますが、ふと疑問に思います。
薩摩、長州、土佐にしても、現在でさえ、地方の都市であって、有力な県のようには思われません。中央政府からは距離的にも離れているのに、なぜ、雄藩と言われていたのでしょうか。
高知県は、そのほとんどが、森林で、ほぼ、県の面積の90パーセントが森林で覆われています。平野部が少ないということは、米を栽培する面積は少なかったはずです。
土佐藩の石高は24万石と言われていますが、実際はもう少し少なかったようです。では、24万石というのは、全国では石高ランキングではどのあたりにあったのかというと、けっこう上位にあったようです。
土佐藩は、新田の開発にも力を入れていて、廃藩置県が施行された頃には40万石は超えていたとも言われています。
石高が高いことは、藩の財政のバロメーターにはなりますが、石高だけでは、雄藩とはなりません。
米以外に土佐藩に豊富にあったのは、木材です。
木材からは、『土佐和紙』も作られ、木材を伐採し、新田を開発するために、『土佐刃物』が発展してきました。
木材は、主に、大阪方面に持ち込まれました。土佐の木材とか、薪は質がよかったので、ほとんど、関西方面での市場を独占していたようです。
もちろん、土佐は海からの産物もあったわけで、『鰹節』も大阪を中心として売られていました。
大正から昭和初期にかけては、木炭(土佐備長炭)が関西方面に出荷されて、そのおかげで吉良川の町は栄えて、『吉良川の町並み』の中にはいくつも白壁の蔵が建っているというわけです。
土佐藩は、豊富にあった、森林資源で潤ったというわけです。
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