
京都永観堂で見た地蔵2体です。
私には、微笑んでいるように見えました。
そしてささやいていました。
こいつはこまい(小さい)なと。
今日のタイトルは、「過去を振り返らぬ」です。
過去を振り返る時、必ず浸るのが苦しいけど切り抜けたハラハラです。
私は、自分を慰めているだけと考えます。
今日の挑戦が出来ないから、過去の成功を呼び戻すのです。
過去を振り返っても何にもならない。
が今日の言いたいことです。
過去があるから現在があります。
牛が、胃から繊維が多い食物を口に戻し、再度かみ砕きます。
それは、牛にとって必然であり生きる知恵です。
しかし、人は自分に都合の良いことだけを反芻します。
江戸っ子の自慢話、年寄りの小言はエンドレスです。
それでも、どこかに必然性があります。
なぜこんなことを自慢し、誰も聞いていないのに繰り返すのか。
自分の存在を分ってほしいのです。
これは、これで良い。聞く耳を持つだけの度量を持ちたい。
自分がこれをやるのは、おぞましいと思います。
私はよくやります。酒が入ると、おしゃべりが過ぎます。
妻にいつも注意されています。
現在が苦しいから、未来が見えないから過去を振り返る。
確かに、過去から学んで人間は生きてきました。
それでも私利私欲、小さな諍いから譲れぬ殺し合いになってしまいます。
何にも学んでないように見えます。
考えてみれば、文化が文明を造って来たように徐々にではありますが、
人間の精神構造、心のバロメーター
(原意は、気圧計、晴雨計。転じて、物事の状態を知るための目安となるもの。広辞苑より)
は進化しています。
私は、過去を言い訳にしたくないだけです。
今試されていることを粛々と挑戦するだけです。
出来なくなれば、降りるだけです。
過去の栄光は、今の成功の手助けには何にもならない。
と思っています。
今はいま 過去はなぐさめ 明日さらに
2016年6月9日
2015年1月30日投稿記事「必然性とユーモア」もご参照ください。